« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月30日 (木)

平等とは―民主主義2

前回の「社会システム」の続き。

足が速い人と遅い人がいます。
ヨーイドンで走らせれば当然、速い人が先にゴールするわけですが、その人に
「ゴールの前で待っとけ。遅い奴と一緒にゴールしろ」
と命じるのは果たして「平等」といえるんでしょうか。

数年前に、教育現場で実際にこのようなことが行われていると聞いて唖然としました。

さてさて、民主主義についてですが、僕は前回

「一神教に基づいて考案された民主主義は、多神教の国・日本にはなじまない」

と書きました。今回は「なぜそう考えるのか」について。

書きなぐソ陪審で、民主主義の定義なるものについて調べてくれております。
エントリーの冒頭に無意味なシモネタが含まれているので、こちらからはリンクを張りませんが、以下抜粋。

君主の対概念として民主なるものを立て、人民(ないしは国民)が主権(支配の正統性および実際の政治権力の双方を含む)をもち授与、為政者たる民主と人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治的な原則や制度。

また、「霧の中の鈴」の「民主主義について」では

宗教観を国家形態の問題にあてはめて解釈するときには、
「神」と「国家元首」の関係に注目すべきでしょうか。
自分でもこじつけの感が拭えない発想ですが、
こういう考え方もできますかね。

もともと性質の違うものではありますが、
例えばキリスト教主流派の場合、
「イエスは神であり、人である」という思想から、
個人が究極的に権力を掌握しうる前提があるととらえることで
アメリカの大統領制を見る手法も考えられます。

日本では、最高神は事実上存在せず、また、
八百万の神の思想から、
「神々は独自のコミュニティを作って『人間的』に生活している」
と言うこともでき、キリスト教的な発想にはならず、
横並びの発想のもとになっているのかもしれません。

という解釈がなされています。

霧鈴が書いてあるように、大昔は「国」には王様がいました。
それを打倒する手段としてロックやらカルヴァン主義やら社会契約論やらが出てくるわけですが、その辺は割愛します。
深く勉強してないから。

ただ、それらの思想の中で「民主主義」というものが打ち出されたということは記憶しております。
(間違っていたらどなたか訂正を)

まず、民主主義というものは、かつて存在した王様も、その支配下に置かれている民衆も、等しく同じ権利を有する、という発想がなければ成り立たないはずなんですよね。

つまり「王様だけ特別(王権神授論)」を否定することから「民主主義」が始まるわけです。

何に対して、何の権利を有するのか、というのが問題になってくるんでしょうけど、一言で表すなら、
「神に対して、存在の権利を有する」
とでもいいましょうか。

「神」とは一神教ではすなわち、「創造主」です。
ヤハウェとかゴッドとかアッラーなどと表現されますが、「創造主」であるという点では同じです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラムが「兄弟宗教」と呼ばれるのは、その宗教の発生形態においてでもあるんですが、同じ神「創造主」を崇めているからだとも思っています。

さて、神にとって人を含む「存在」とはなんなのか。
「オレ様が創ってやった存在」
ですね。
王様も人間も、「神が創った」という点では同じなんです。
神様にとっては「塵芥」に過ぎない。
塵芥の中に「特別な塵芥」など存在しない。

ちょっと分かりにくいかもしれませんが、要するに、
「人民も王様も、神様からの距離は同じ」
ということです。
そして一神教の神様は「唯一絶対なるもの」なので、「神様からの距離が同じ存在」ということは、
「存在としては同じ価値を持つ」
という考え方につながる。

つまりですな、「絶対性」がなければ「平等」という概念は生まれない、ということです。
もっといえば、「唯一絶対神が存在しない集団の中では『平等』はない」です。

多神教の国、ニッポン。
ここには「唯一絶対神」は存在しません。だから、「平等」という概念自体が本来、存在できないはずだと思うんです。

上記の通り、「平等」というのは「神と人との距離」なわけだから絶対的なものです。
でも、日本で言われる「平等」という言葉には
「他の人たちと一緒」
という概念が含まれているような気がします。
でも、その「他の人たち」の顔ぶれが変わったらどうなるんでしょう。

小学校や中学校ではいいのかもしれない。
「どの生徒も平等に扱う」
というものであれば、ね。

それは「先生と生徒の距離」における「平等」なわけです。
でも、「隣の人と平等に」というのは非常に相対的なもので、「隣の人」が全然違う境遇であれば「平等」という言葉は使えないと思うんです。

自分は貧乏、隣は金持ち。
「平等に扱え」
と訴えたところで、じゃ、何に対して平等なのか。
選挙権は平等に1票ずつ。
これは「平等」ですよね。
じゃ、納税額は?
これを同じにしてしまうことを「平等」と呼べるのでしょうか。

ここで多神教について霧鈴の指摘、

「神々は独自のコミュニティを作って『人間的』に生活している」
と言うこともでき、キリスト教的な発想にはならず、
横並びの発想のもとになっているのかもしれません。

端的に言えばそういうことだと思います。
多種多様な価値観を認める多神教。
どの「神様」を崇めても構わない。
争わないように「和を以って貴しとなせ」。

これは「人と人との関係」であり、平等思想の根幹をなす「神と人との関係」ではない。
「人と人との関係」において「公平」はありえても「平等」はありえない。
その「公平」とは、非常に相対的なもので、高額納税者が

「オレは毎年1億円以上納税している。あの貧乏人は生活保護を受けてる。なのに同じ1票しか与えられないのはおかしい」

という主張があったとして、
「じゃ、納税額に見合った票数を与えます」
となれば、「公平」とはいえるんだろうけど、「平等」ではないですね。

さて、冒頭に書いた「お手々つないで一緒にゴール」ですが、これ、
「全ての子どもを平等に扱う」
という理由らしいです。
でも、こんなもん、公平でもなければ平等でもない。
「全ての人に同一の結果を強制している」
というだけのこと。

これって…
身体能力が優れていようが、劣っていようが、同一の結果しかもたらさないのだとしたら、
「一生懸命働いた人も、まったく働かなかった人も、同様の金銭を受け取る」
というものに発展しかねない。
このやり方は、まさにソ連が崩壊した理由そのものではないんでしょうか?

…分かりにくい書き方になってしまいましたが、
「平等とは何か」
「公平とは何か」
を曲解してしまうと、「えせ民主主義国家・ニッポン」は崩壊してしまうんじゃないか、冒頭の教育現場の実例はその兆候なのではないか、と思うわけです。

だから、民主主義国家における「平等」という概念が何なのか、正確に理解していない日本人に真の「民主主義」はなじまない、と。

てな具合で続く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月26日 (日)

社会システム

さて…書きなぐソ陪審の「死刑制度⑩」にある「刑罰メニュー選択制度」ですが…

僕としては「刑法はなんぞや」とか、「死刑はどうだ」とかいった話よりも、むしろ、こちらの方を書きたかったんですが、書く前にもりーの投稿があったのでそのまま保留していました。

もりーの「刑事罰メニュー選択制度」
「死刑存廃論」から相当程度逸脱してしまっておりますな(w

僕の基本的スタンスとしては、とりあえず現在の民主主義というシステムを肯定し、その中で
「刑罰とはどうあるべきか」
という点に思いをはせているんですが、もりーは僕が前提としている「現行システムの肯定」とは違うスタンスを持っているようで。

何ゆえに僕が現行システム(つまり、今の日本の民主主義)を肯定するのかというと、答えは非常に単純で
「オレの頭ではそれ以上のシステムが思いつかない」
からです。
もしも民主主義に代わる社会システムが考案され、どちらかを選べと突きつけられたら、(内容にもよりますが)僕は民主主義を否定します

選挙で選ばれた人間の行動は必ず正しいのか、選挙は本当に民意を反映しているのか、と考えると
「違うんじゃないのか」
と思うわけです。
民主主義ってのは
「国民が成熟している」
という大前提があって、その上で初めて成り立つ制度なはずです。
でも今の日本はいかがか。

僕は日本の民主主義って、
「アメリカ的民主主義を日本流に解釈しているだけ」
と思っています。
つまり、
「一神教に基づいて考案された民主主義は、多神教の国・日本にはなじまない」
と。

なぜか。

最近、「格差」なるものが話題になっていますが、本来の民主主義、資本主義とはどのようなものなのか。
僕は資本主義社会においては、
「格差が生じるのは当たり前」
と思っています。

でも、マスコミとか有識者は
「格差社会はヤヴァイ」
などと平然と主張します。

さて、民主主義社会において「格差」の存在を疑問視する風潮。
これは矛盾しているのではないか、と思うのは僕だけでしょうか。

「格差がない社会」=「共産主義の基本理念」

だと解釈している僕にとって、
「格差を解消せよ」
という論調は、すなわち、
「共産主義国家にしよう」
という主張にすら聞こえてしまう。

「共産主義」なるものを深く勉強したことのない僕に「マルキシズムとは何か」を論じることはできないんだけど、僕は共産主義とは
「格差のない社会(を目指す主義)」
ととらえています。

個人的には、日本という国、日本人という国民性を考えると、真に共産主義を実践できるのは、世界広しといえども日本だけ、と思っているんですが、共産主義よりは民主主義の方がいいと思っています。

でも、一方で「日本には民主主義はなじまない」とも思っています。
そして「民主主義」を標榜している日本において、
「格差社会」
がクローズアップされる、ということは、もしかしたら日本人は「民主主義」なるものを誤解しているのではないのか、と。

と、前フリだけして、今日はこれにて。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2006年3月25日 (土)

刑法議論終結へ

もともとは「死刑存廃論」から始まった話がいつの間にか「刑法論」に変容しておりました。
ここでいったん整理し、主張の違いを明確にした上で終息へ向かいたいと思います。

「刑法議論」に突入していったきっかけは「書きなぐソ陪審」のもりーが提示した

「刑事罰メニュー制度」

に僕と「霧の中の鈴」の霧鈴が

「それはダメだ」


と反論したことだったように記憶しています。
全文を読み返したわけではないけど、少なくとも僕の記憶ではそこが発端です。

「刑事罰メニュー制度」とは、僕が解釈した範囲では
「刑法運用には『感情』を大幅に導入すべき」
というもの。

それはもりーが

今回、改めて条文を読んでみて考えが変わりました。
「感情的な面は極力入れるべき」
と書きましたが、実際は
「感情的な面は絶対に勘案しなければならない」
でしたね。
徹底論戦③ 「vs.小兄」編

と書いてあることからも明らか。

一方で僕は
「罪を成立させるまでは論理的に、罪が確定したら感情も勘案する」
という主張です。

もっと分かりやすく表現すると、
「刑法は被害者の感情を最優先すべきだ」
という主張と
「少なくとも罪が確定するまでは、感情は排除すべきだ」
という相反する考え方が、現在のような専門用語が飛び交う、一般の人から見れば敷居が高いものに発展してしまったわけです。

ここでいったん、僕の基本姿勢を。

ものごとには「絶対的に正しいもの」は存在しない。

どのような問題であろうと、それが僕のスタンスです。
つまり、相反する主張において、
「どちらか一方が絶対に正しい」
と判定することは不可能だ、と考えています。
となると、
「より多くの人が納得できる主張を採用せざるを得ない」
ということになるわけです。

閑話休題。

ここで刑法議論に終止符を打つべく、非常に具体的な例を挙げて僕ともりーの主張を検証してみましょう。

【事例】
僕ともりーは刑法議論を行っておりました。
もりーは「感情を優先すべき。罪を確定するには条文のみで構わない」
僕は「罪を確定するには様々な論証が必要。罪が確定した後に感情を勘案する」
というスタンスの違いを、あれやこれやの解釈、学説を用いて論じてきました。

さて、その議論の中で、以下のような書き込みがありました。

池袋のイメクラでヌキヌキ → 日暮里・巣鴨のホテヘルでヌキヌキ → 上野の東北出稼ぎ売女でヌキヌキ →秋葉原の同人喫茶でヌキヌキ → 新橋の地下サロでヌキヌキ → 品川のソニーでヌキヌキ(ヌケんか) →五反田の高級ヘルスでヌキヌキ → 渋谷の援コギャでヌキヌキ → 原宿の家出女子●生でヌキヌキ →代々木~御茶ノ水の予備校生や大学生に「俺、●大生。教えてあげるよ」と何を教えてるんだかヌキヌキ →そして新宿以北エリアの馴染みのヘルスに「あー、やっぱここがいちばん落ち着くわー」とお帰りあそばす毎日山手線内を渡り歩いて忙しかった小兄

だから、忙しくて刑法の勉強などロクにしてないだろう、と続いていきます。

ここで僕が「名誉を傷つけられた」と被害届けを出した、と仮定しましょう。

【もりー説】
もりー説では被害者の感情が最優先されるわけですから、途中のステップはすっ飛ばし、条文と被害者の感情のみで「犯罪成立=刑事罰適用」と解釈できます。
すると、僕が被害届けを出した時点で、もりーには「有罪判決」が下される。

要するに、上記引用文だけで、個別具体的な検証もなく、僕が
「名誉を毀損された」
と訴えただけで、一発レッドカード。

【小兄説】
僕の説では様々なステップを踏んだ上で「それが罪にあたるかどうか」を検証し、有罪か無罪かを判断する。
今までは用語乱発だったので、僕の説を別の表現に置き換えてみましょう。

「ステップ」を便宜的に「X」「Y」「Z」とします。
その「X」「Y」「Z」にはイエス(1)とノー(0)しか答えはありません。
そして「罪」を確定させるためには
「X」×「Y」×「Z」=1
でなければならない。
すなわち、「X」も「Y」も「Z」も「1(イエス)」でなければ罪は成立しない。

でも、途中で例えば「Y」=0(つまり「Y」要件は満たされていない)という結論が出たら、「X」と「Z」が「1(イエス)」であったとしても
「X」×「Y」×「Z」=0
となり、罪は成立しない。従って、刑事罰も適用されない、というものです。

【検証―もりー説】
もりーが

「感情的な面は絶対に勘案しなければならない」

としたのは、おそらく「刑事罰適用の段階」における話かと思いますが、一方で

>問い
>甲が乙から盗んだ拳銃で丙を射殺した。
>当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった。
>(いかなる刑法犯罪が成立するか)述べよ。

刑法犯罪が成立しそうなのは
甲の
「拳銃を乙から盗む」―――― 窃盗罪 
「拳銃で丙を殺す」 ―――― 殺人罪
の2点のみ。

つまり
「麻薬を使用」「拳銃の不法所持」は刑法に該当無しなので、
「窃盗罪」と「殺人罪」。 状況により併合罪となる。
か、もしくは
刑法31・32・34の2・35~39・41・42・66~72条各規定により、
上の「窃盗罪」「殺人罪」、もしくはその併合罪(殺人罪)が
状況により免除・失効・減軽を受ける。
ですね。

ともしています。これはつまり、
「拳銃で丙を殺すだけで、個別具体的な事情とは関係なく有罪」
と解釈できる。

ということは、僕が「名誉毀損だ」と訴えた場合、個別具体的な事情とは無関係に、僕の一方的な感情と、条文に違反しているという点だけで、もりーに
「有罪」
という判決が出てしまう。
その上で、どのような刑罰を科すのか判断する。

突き詰めれば、
「オレは被害者だ!」
と誰かが訴え、それが条文違反と認められれば、他の個別具体的事情とは無関係に「有罪」となる。

ここで僕が最も危険だと思うのは、
「人間の感情とは非常にあいまいなものである」
という点です。
また、その日によって感情に浮き沈みが生じる。
僕の機嫌が悪い日に、誰かに
「お前ってバカだなぁ」
と冗談半分で言われて、僕がカチンときたら、その人は「有罪」になってしまう。
逆に
「お前なんか死ね」
と冗談半分で言われて、
「お前こそ死ね」
と言い返して、相手の気分を損ねたら、僕の方に「有罪判決」が下ってしまう。

【検証―小兄説】

上に掲げた「僕が名誉毀損で訴えた」場合、
「X」は1か0か。
「Y」は1か0か。
「Z」は1か0か。
という検証がなされる。

で、もりーの書き込みには「グレーゾーン」がある。
まず、「小兄」は「偽名」であり、僕という人間は存在するけど、「小兄」という人間はいわば
「架空の人物」
ともいえる。
そして、もりーの書き込みは、僕の人格を貶めたものではなく、もりー自信の知性、品格を自ら貶めただけのもの。
実際問題として、もりーの書き込みによって何らかの実害が発生したわけではない。
また、そもそもからして、この3者ブログは「知的遊び」であって、実生活に反映されるものではない。
・・・などなど。

いくら僕が「名誉を傷つけられた」と主張しても、
「果たして断定的に『名誉毀損』と言えるかどうか」
という点において「グレーゾーン」が存在するわけです。

でも、「X」「Y」「Z」には「イエス(1)」か「ノー(0)」しか存在しない。
「グレーゾーン」があるということは、
「どこかで『1』ではない部分が存在する」
ということになる。でも、「1」か「0」しかないわけだから、「1」ではないということは「0」になる。
すると、
「X」×「Y」×「Z」=0
となり、もりーは「無罪」という結論が出る

さて、上にも書いたとおり、人間の感情には浮き沈みがある。
だから、僕が本気でもりーの書き込みに「怒り心頭」となることもあるかもしれない。
だけど、「X」「Y」「Z」という関門を設けることにより、
「条文に違反してるから有罪」
という答えには直結しなくなる。

【小兄的結論】

現状において僕が死刑存続論者であるのは、死刑適用の前段にある「罪」の構築が非常に論理的なもので、納得できるものだからです。
つまり、「感情」なるあやふやなものによって、「有罪」→「死刑」とはならない制度が現状において存在するから。

もしも、もりー的な解釈で運用すると、「感情」というあやふやなもので「罪」が構築されるわけだから、「被害者」を名乗る人物によって、「加害者」とされた人の諸権利が奪われてしまう。
途中の説明をぶっ飛ばして言うと、もはやそこには「有罪」「無罪」という概念すら必要ない。
「好き」「嫌い」だけで刑務所にぶち込んだり、ぶち込まれたりする。

なぜ関門が必要なのか、というと、「刑罰」というものは人の財産、時間、名誉を侵害する行為であり、それを適用するには、大前提として「明確な罪」が必要だと思うからです。

「被害者」を名乗る人物の、その日の気分によって「有罪」と「無罪」が分かれてしまう、という運用方法は悪用される可能性が非常に高い。
「あいつが嫌いだから」という理由だけで、「すれ違いざま、たまたま肩がぶつかった。暴行罪で訴えてやる」ということも可能。
「公務員は税金ドロボー」とブログに書いて、それを読んだ公務員が「名誉毀損だ」と訴えれば問答無用で有罪。
それを考えるともりーは『常習犯』ですな(^^

いずれにせよ、そのような考え方を持っている者が死刑存続派にいるというだけで、死刑廃止論者に
「なぜ死刑がダメなのか」
という論理的根拠を与えることになってしまいます。

もしも「消費税などケシカラン。あんなもんを考えた奴はアフォだ」と批判して、考案者が
「不愉快だ。名誉を傷つけられた」
と訴えれば、即有罪。
さらに進めば、法律すら必要ない、という論に発展してしまう。
それがもっと進めば「独裁国家」を認めることになる。

だからこそ、刑罰の前提となる「罪」とは論理的に構築されなければならない。そのためには様々なハードルを設けなければならない。

よって、刑法の運用は、ルールを定めて、最初は徹底的に理詰めで、罪が確定された時に初めて「感情」を勘案する、という方法が望ましい。
もしも、もりー的発想で現行刑法を運用するのであれば、僕は死刑を廃止すべきだと思う。

【判決】
今までの議論は僕ともりーとの間で展開されてきたもの。
現時点で双方、いずれも譲らない、という状態になっております。
「どちらが正しいのか」
という点は上の方にも書いたとおり、僕は

「絶対的に正しいものは存在しない」

というスタンスですので、僕の方が絶対に正しいとは思っていません。
僕の主張は、あくまでも「小兄的に正しい」もので、第三者が見れば「もりーの方が正しい」という結論が出るかもしれません。

さて、幸いなことにこのブログは「3者ブログ」であります。
僕ともりーが延々とやり合っていても、絶対に結論が出ません。
そして現在、霧鈴はこの議論の展開に完全に乗り遅れた形となっております。

そこで、今回の議論における「判決」を霧鈴裁判長に委ねたいと思います。
その「判決」をもってこの議論は一時終了、ということでいかがか。
 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年3月23日 (木)

懲罰委員会

さてと。
何から書き始めましょうかね。もりー徹底論戦④ 「vs.小兄」編

もう1度、「刑法」に関して「ここぞというテーマ」を決めて下さい。

とありますが、そのエントリーの最後の方にある

>「僕の私的な考え方ではない」という点に留意を。
と小兄が書くのは、「学説的にこういう考え方が主流じゃないか」という意味で、ボンクラな我々に分かり易いように書いてあることは伺えますが、永田議員ではあるまいし、それを展開するにあたり一定の自分なりの吟味がされており
「単に一方的な学説の受け売りをしてるだけじゃないんだぜ」という常識人としての意思表示が含まれていると取れます。

これは違います。
しつこいようですが、学んでから10年以上経っている現在、記憶はかなりあやふやです。
「予見可能性って、どうだったっけな?」
と思い出しながら書いているわけで、ネットで検索すればすぐに分かるんだけど、今なおダイヤルアップ接続を余儀なくされている状態で検索する気も起きないまま、記憶だけを頼りに書いているので、間違った解を出している可能性もあります。

が、僕が書いた「解」は算数における四則演算と同じように、刑法における基本中の基本。「学説」ではありません。「式」です。

「構成要件該当性」「予見可能性」「責任能力」
この3つは「犯罪を成立させるための大原則」です。
構成要件に関して、議論はあると思います。
予見可能性、責任能力に関してもしかり。
「どのレベルで線を引くか」というのは難しい問題だと思います。
でも、3つの原則を全てクリアしなければ犯罪は成立しない。

「罪」が成立して、初めて「罰」が適用される
「刑罰」なるものは人の財産や自由を拘束するものです。だからこそ、その前提となる「罪」はルールをはみ出してはいけない。
もりーは

「論点六法 憲・民・刑」 三修社刊
てな今すぐ使えそうな本も持ってるんですけどね。一部参照してます。

てなことを書いて、僕が前に出した窃盗行為、殺人行為について、条文を根拠にいきなり殺人罪と窃盗罪を適用してしまっていますが、正直なところ、それを「可」とする本であれば参照しない方がいい。
「条文を適用するためのルール」を学ぶべきでしょう。

しつこいようですが、僕が書いたのは「ルール」です。「学説」ではない。
だから、

私はこの説を持って私の持論を展開します。
この説はつまり私の意見そのものです。
もしこの説自体が否定されるようなことがあれば、それはその説を吟味して信じた私が悪いのです。
となりますね。

とはならないわけです。
「1+1=2」
これを信じている人間に責任があるでしょうか。

過日、日航機ニアミス事故の管制官2人に無罪判決が出ました。
いろいろと理由をつけてましたが、一言であらわすと、
「予見可能性がなかった」
です。

時々、検察が「起訴不当」という判断を下し、起訴しないことがあります。
あれはなぜかというと、いろいろと理由をつけながらも、結局は
「構成要件該当性を満たしていないから」
です。

オウムの教祖裁判がいまだに続いています。
何を争っているのか。
「精神鑑定が云々」という話をしているようですが、なんのために精神鑑定をするのか。
それは「心神耗弱状態であった」ことを立証するためです。
それが立証されればいかなる判断が下されるのか、というと
「責任能力なし」
です。

条文に違反している「はず」なのに「無罪」とはいかがなものか。
これは結局のところ、
「条文違反だけでは犯罪を成立させられないから」です。

刑法を理解していると思われる人が周囲にいたらぜひとも聞いてください。
誰に聞いても僕と同じ答えを返します。
「犯罪を成立させるためには、構成要件該当性と予見可能性、責任能力が必要だ」と。
そして、「犯罪が成立して初めて刑罰が科される」と。
まぁ、

ちゃんと裏付けは取っておきますので、ご安心を。

ということなので、安心です。
逆に、違う解釈が出てきたなら、つまり、犯罪を成立させる要件として
「構成要件該当性」「予見可能性」「責任能力」
というステップを「必要ない」という「学説」が出てきたらぜひとも教えていただきたい。
少なくとも僕の周囲では100人いれば100人とも「必要だ」と答えます。
違うという意見があれば、それは新たな発見になるので、ついでにどの文献をあたればそのような説に出会えるのかも聞いておいてください。

さて、もとに戻ります。

だから制限時間や回数制限を設けないと、いつまで経っても終わりようがない。
そんなわけで小兄にお願いがあります。
もう1度、「刑法」に関して「ここぞというテーマ」を決めて下さい。

ですが、こちらとしては、「刑法とはこういうものだ」という定義は何度も出しております。
それも毎回同じ内容。
「罪が成立して初めて罰が適用される」
「罪は論理的に導き出されるもの。罰は感情的側面を勘案して科するもの」

それに対するもりーの反応はというと

池袋のイメクラでヌキヌキ →(中略)→そして新宿以北エリアの馴染みのヘルスに「あー、やっぱここがいちばん落ち着くわー」とお帰りあそばす毎日山手線内を渡り歩いて忙しかった小兄

と具体的な反論は一切なし。僕に対する誹謗中傷で埋め尽くされたエントリー。

いや、永田議員は気の毒ですな。
ウラを取らずに個人を中傷するとロクなことにならない。
事実無根にも関わらず、「あいつは間違っている」という大前提で話を進めてしまい、相手の意見に耳を傾けようとしなかったがための懲罰委員会。

討論にはルールがあります。
「知らない」ということは恥ずかしいことではないが、そこを指摘されて個人攻撃に入っていくのは恥ずかしいことではないかえ?
「三つ巴」なわけだから、3種類の考え方がある。
僕は霧鈴に対して「暴言」を投げかけてしまいましたが、霧鈴の指摘により、それが「ルール違反」であることを認識し、謝罪文を出させていただきました。

さて、僕としては、「三つ巴ブログ」では思想的な衝突は面白いと思うんですが、感情的な衝突は避けるべきだと思いますが。

討論には勝ち負けはないと思っていますが、具体的な反論ができない、ちんぽかゆい奴に聞いてからでなければ無理、だから中傷に走る、という時点で討論においては「負け」なんよ。

少なくとも僕と霧鈴は、他の2人の誰かの人格を無意味に貶めるような文言は一切書いていないが、もりーは今後もこの路線で行くおつもりか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

お詫び

前回のエントリーで
「死刑存廃論について、霧鈴(霧の中の鈴)は刑法論を基に死刑存廃を論じている」
などといった趣旨のことを書きました。かなり断定的に。
ですが、霧鈴は法哲学的な話は書いているものの、具体的な刑法に関しては議論の対象、基礎とはしていません。

死刑に限らず、刑罰というものに対する僕の基本的な考え方は
「法律という基盤は大切だが、刑罰とは社会的に少しでも多くの人が納得できるものでなければならない」
です。

でもって、霧鈴は

「日本に死刑制度があるのは、刑法に死刑が規定されているからだ。
 では、なぜ、刑法には死刑が規定されているのだろうか」
という論点で(これまでのところは)終始一貫して述べていますので、
「刑法に関する質問は論点がずれている」、というものになります。

とも書いてあるように「刑法そのもの」ではなく、「刑罰という概念の性質やあるべき姿」について書いています。
これ、すなわち僕が「このような議論の方がいいのではないだろうか」と漠然と思う死刑存廃論議の姿勢そのものなわけです。

つまりはわたくしめの先走り…というか、混乱というか、いずれにせよ霧鈴および読んでおられる方々には率直にお詫びします。

霧鈴は刑法論議なんぞしておりません。

既に霧鈴が抗議のエントリーを入れておりますが、この点に関しては今後ともいかなる批判も甘んじて受けさせていただきますです。

さて、言い訳をするつもりではないのですが、何ゆえこのような「暴論」を書いてしまったのか、説明しておきます。

どの段階だったか忘れましたが、いつの間にか話が法運用の方向に進みました。
それはそれで大切な話だと思います。
が、話がそればかりになってしまいました。
これがまず1つ目のポイント。

2つ目のポイントですが、
僕は頻繁に長文を書くので、今までも反応がなくても淡々と書き続けてきました。
反応がない中で書き続けてきたクセとでもいいましょうか。違う気もするが…。
メールをチェックしてみると、もりーの「書きなぐソ陪審」からトラックバック通知が来ている。
今日は面倒くさいから書かないでおこう、と思っていた日でも、なぜか書いてしまう。
そして想像以上にもりーからの反応が多く、いつからか2人でヒートアップしてしまっていた。

実はね、うんざりしちょるんです。
「結果が出てるのに、なんでこんな話を続けてんだ?」って感じ。

だから、「刑事罰メニュー選択制度」が出てきた時に、話をスライドさせようと思って、「民主主義否定論」みたいなことを書いてました。
途中まで書いて疲れたから寝て、翌日、書きなぐソ陪審を見てみたら、さらに刑法論がヒートアップしてた。
僕の性癖として反応せざるを得なかった。
でも、本音としては別の話にスライドさせたかったので「終わらせ方」を考えておりました。

そこで、
「罪と罰に関して、とりあえず別物として考え、罪の部分に関する話はやめて、罰の話に焦点を絞ろう」
という思いで、「この問題を解いてみろ」と提示しました。

その問いはもりーに対してだけ提示すればいいと思ってたんですが、一応「三つ巴ブログ」と位置づけているため、礼儀(?)として霧鈴にも問いを提示しました。
2人とも即答。

ここで僕は混乱してしまいました。
もりーがまともな答えを返せないのは過去のエントリーから分かっていた話。
でも初めから刑法議論などしていない霧鈴が微妙な答えを返してきた。
もりーは「オレは六法全書を手元に置いて書いてんだぜ」的な内容だったんですが、あの問いに対する解に六法は必要ない。
「何が論点になるか」がポイントだったんですが、霧鈴の解には微妙に正解が含まれている。結論が出てないから「解」にはなっていないんだけど、「解」を導くための「式」の一部が示されている。

うむ…。
ここで混乱が起きてしまったわけです。
「分かっているようなフリをして僕を挑発するもりー」
「(おそらく)直感的な部分で運用方法を理解しているような気配を漂わせる霧鈴」
これが重なってしまいました。
「死刑存廃論に六法なんざ必要ねーだろーが」
と思いつつ、刑法論議に早く終止符を打ちたい、面倒くさい、の一心で、
「お前ら2人とも!」
と書いてしまった。

という顛末です。霧鈴には誠に申し訳ない。

が、ひとつだけ言わせてくれい。

「勝手に自分の論壇に相手を引きずり込んでコッペパンにする!!!」
「自分のフィールドで相手を論破する!」
小兄さんの悪い癖!

お前もだろ!(w

| | コメント (1) | トラックバック (1)

刑法の解

僕は過去に「死刑。その6」で

刑法と死刑制度とはあまり関係ない
死刑存廃論は、刑法を超えた部分の議論

と書きました。僕は最初の「死刑。その1」でも述べている通り、
「法に死刑が定められている以上、それは報復刑に基づいた罰則規定であることは明らか」
なので、それを基に自論を展開しています。
つまり、僕は現行刑法を是認した上で死刑存続を唱えているわけです。

僕は刑法を基に自論を組み立てているが、もりー&霧鈴は違う立脚点に基づいて存続論を唱えている。
2人の自論を読んで
「おそらく2人は刑法を専門的に学んだことはないな」
と判断したため、「刑法と死刑制度はあまり関係がない」と書き、

「とりあえず、刑法議論はやめて死刑存廃論のみでいこうではないか。刑法を知らなくても死刑存廃について議論はできるんだよ」

というサインを送ったつもりだったんですが、「知らない」というのは恐ろしいもので、正直なところ、ここで反撃を受けるとは想定していませんでした。
やはり一定期間「専門的に」刑法を学んだ僕にとって、素人2人の「反撃」は「的外れ」としか表現しようがないものだったわけです。

僕が投げかけた問い

甲が乙から盗んだ拳銃で丙を射殺した。当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった。述べよ。

に関して、
【もりーの解】

刑法犯罪が成立しそうなのは
甲の
「拳銃を乙から盗む」―――― 窃盗罪 
「拳銃で丙を殺す」 ―――― 殺人罪
の2点のみ。
つまり
「麻薬を使用」「拳銃の不法所持」は刑法に該当無しなので、
「窃盗罪」と「殺人罪」。 状況により併合罪となる。
か、もしくは
刑法31・32・34の2・35~39・41・42・66~72条各規定により、
上の「窃盗罪」「殺人罪」、もしくはその併合罪(殺人罪)が
状況により免除・失効・減軽を受ける。
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50080133.html

【霧鈴の解】

まず、甲の、「拳銃を盗んだ行為」に関して
   ○その行為は、「窃盗であったか」、
   ○つまり、不当な行為であったかどうか。
   ○始めから丙を射殺する目的で得たかどうか
甲の、「麻薬を使用して錯乱状態で丙を射殺した行為」に関して
   ○その錯乱状態において、責任能力が認められるか
   ○正当防衛にはあたらないか
   ○殺意があったかどうか、また、情状酌量の余地はあるか
といったところでしょうか。漏れはあると思いますけれど。
「拳銃を所持していた乙」、「麻薬を打った売人」、「丙に関して」
は、おそらく問われていないと思われますので述べません。
http://ayzad-khast.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/__b7b9.html

やれやれ…
今までに何度も何度も繰り返し繰り返し、「刑法」なるものを解説してきたにも関わらず、もりーに至っては

私の答えれる範囲としてはこれが精一杯です。

ですか。はぁぁぁぁ~~~。
特大級のため息が出てしまいますな。

霧鈴の解に関しては、多少、「刑法」なるものを直感的に理解しているな、と感じるけれども、2人とも現状では刑法論議ができるレベルではない。
だからこそ
「刑法議論はやめよう」
と慈悲の心で接してさしあげたにも関わらず、なおも姿勢を崩さない強情さ

ということで、導き出される結論の是非はともかくとして、あくまでも「刑法運用に際する考え方」を教えて差し上げましょう。
ただ、何度も書いてきた通り、「専門的に」学んだのは10年以上前なので、専門用語に間違いがあるかもしれません。
その点はご了承を。以下はあくまでも
「現在、実際に運用されている刑法における思考法」
です。つまり「僕の私的な考え方ではない」という点に留意を。

【解】

乙が不法に拳銃を所持していたものだとしても甲は乙の所有権、または占有権を侵害したので窃盗罪の構成要件に該当する。
また、甲はその拳銃で丙を射殺したことから、甲の行為は丙に対する殺人罪の構成要件を満たしている。
従って、甲は窃盗罪、殺人罪の構成要件を満たしていることになる。

甲は当時、精神錯乱状態に陥っており、予見可能性があったとは言い難い。ただし、甲が当初から麻薬の力を借りて窃盗、殺人を図ったのであれば、予見可能性が認められる。
しかし、当初は錯乱状態にあったため、責任能力を有していたとはいえない。

よって、甲の行為には構成要件該当性、及び予見可能性はあったといえるが、責任能力がなかったため、甲には刑法上のいかなる犯罪も成立しない。

…ちょっと大雑把すぎますが、犯罪を成立させる要件は前にも書いたとおり、
「構成要件該当性」
「予見可能性」
「責任能力」
の3点セットです。

これは、専門家にきちんと教わらなければなかなか理解し難い厄介な代物。
「犯罪」とひと口に言われますが、それぞれの犯罪には「構成要件」なるものが存在します。
例えば
「所有権を侵害した」
「人を殺した」
ですね。
でも、実はこれだけでは「犯罪成立」にはならない。

構成要件を満たしていれば、とりあえずは逮捕されます。
が、犯罪を成立させるにはさらに
「予見可能性」
「責任能力」
が必要になってきます。
構成要件を満たしただけでは、「犯罪」にはならない。

「条文が定める要件に違反しているか」
=構成要件該当性

「このような行為をすれば、どのような結果が導き出されるか予測できるか」
=「予見可能性」

「物事の善悪の判断ができる状態だったか」
=「責任能力」

この3つの要素をクリアした時に初めて「犯罪成立」なわけです。
従って、ここまでは論理的に判断しなければならない。

僕が主張する
「刑法は理詰め」
の根拠とは、まさしくこのことなわけです。
ここまでで「感情」なるものを差し挟むことはできない。
極めてオートマティックで、数学的。
まぁ、言ってみれば、パソコンのプログラム作成の際に書くフローチャートのようなもんです。

まずAという出発点がある。
そして分岐点が要所要所に存在する。
「もしイエスならBに進む。ノーなら終了」
B地点に進んだ時に、
「もしイエスならCに進む。ノーなら終了」
C地点に進んだ時に、
「もしイエスならDに進む。ノーなら終了」
D地点までたどり着ければ「犯罪成立」になる。
つまり、分岐点には「イエスかノー」しか存在しない。
1と0のみで構成されるコンピュータと似てますね。

だからこそ、「責任能力」を満たさないきちがいには犯罪が成立しないわけです。
これは「情状酌量」の問題ではない。
また、道を歩いていて人とぶつかって怪我をさせてしまった場合、「傷害罪」の構成要件は満たしているんですが、「予見可能性」はない。
だから、傷害罪は適用されないわけです。

さて、刑法には「罪」と「罰」が記されています
これは刑法の世界では切り離されて論議されます。

Aという「罪」が成立すれば、Bという「罰」が適用される。
これが刑法の条文。
でも、
Bという「罰」を適用する前段として、Aという「罪」を成立させなければならない。
Aという「罪」が成立した時に初めてBという「罰」を適用できる。
「罪」が成立しなければ「罰」は適用できない。
「罪」が成立し、「罰」が適用される段階に至って、初めて「感情」なるものが介入してくるわけです。

んで、

>逮捕する際に「どの条文を適用すればいいのか」で様々な解釈が生まれる。
>その程度のことは百も承知。
と書いておきながら
「様々な解釈が生まれる」 にも関わらず、 「数学的にたった一つの答えを導くことが可能だ」 と言ってるわけですか?http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50079950.html

ですが、流れとしては
「テレホンカードが偽造された。さて、どの条文を適用すべきか」

「有価証券偽造ではいかがか」

「でも、テレホンカードは有価証券にあたるのか」

「有価証券と判断しようではないか」

「ならば、構成要件該当性は満たしている」

「予見可能性と責任能力はいかがか」

「それも満たしている」

「ならば犯罪成立」

です。
つまり、
「テレホンカードは有価証券か」

「有価証券の範囲」に関する議論であり、
「構成要件に関する議論」ではないわけです。

ここで、
「テレホンカードは有価証券ではない」
となると、違う条文を当てはめなければならない。
その部分での「解釈の違い」です。
別の条文を当てはめることになれば、

「じゃ窃盗罪を適用するという方法もあるぞ」

「うん。その構成要件該当性は満たしているな」

「予見可能性と責任能力はどうだ」

「それも満たしているな」

「ならば犯罪成立だ」

であり、構成要件該当性と予見可能性、責任能力が満たされていれば、
どの条文を当てはめても「犯罪成立」という、たった一つの結論を導き出すことは「可能」ということになります。

つまり、僕がいうところの
「様々な解釈が生まれる」
というのは、
「どの条文を当てはめるべきか。どの条文の構成要件を満たしているか」
に関する解釈であり、その解釈に結論が出れば、あとは
「その犯罪が成立するか否か」
という「たったひとつの答え」が導き出される
、というものであります。

と、忘れてしまうところでしたが、2人(特にもりー)が執拗に突付いてくるところの
「有罪か無罪か」
という点に関しては、過去に僕が「構成要件該当性」「予見可能性」「責任能力」に関する説明を入れたにも関わらず、その点に関する質問なしに突っ込んでくるので、
「もりーは刑法を理解しているもの」
として、面倒くさかったので「有罪」「無罪」と表記しましたが、
「2人とも刑法の運用の仕方を理解していない」
ということが理解できたので、今後とももりーor霧鈴が刑法議論を続けるのであれば、「構成要件」とか「犯罪成立」などという表現に可能な限り改めることにします。

たぶん、「専門的に」学んだことのない2人にはますます理解できない世界に入っていく事になると思いますが、それでもまだ刑法に関する議論を進めるつもりかな?
僕としては、もうそろそろ、2人とも
「自分は刑法運用の根本的な部分を理解できていない」
ということを認めて、刑法議論をやめるのが得策だと思うのだが、いかがか。

それでも「徹底討論」したいというのであれば、玉砕覚悟でかかってきなされ。

ついでに、もりーの問い

甲が乙から盗んだ拳銃で丙を射殺した。
当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった。
以下の場合についてそれぞれ述べよ。
① 甲は錯乱状態で無関係の通行人丙を射殺した。
② 甲は錯乱状態から一瞬冷め、日頃から小競り合いの耐えない丙を射殺した。
③ 甲は錯乱状態で幼少より酷い虐待を受けてきた父親丙を射殺した。

は、上記の運用方法を当てはめれば簡単に答えが導き出せます。
従って、
自分で考えろ
答え合わせはしてやる。

それと、霧鈴が「不適切な質問」としていたけど、これが刑法学における質問形式です。
ま、「刑法」の「け」の字も分かっていないから「不適切」と感じるのは仕方ないか…

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2006年3月21日 (火)

刑法の解釈

なんとなくね、刑法という法律に対する理解の仕方がもりー(書きなぐソ陪審)&霧鈴(霧の中の鈴)と僕とで激しく異なっている気がしております。
何がどう違うのか知りたいので下の問いに答えてくださらんか。
知りたいのは
「どのような考え方をするか」
であって、詳細はどうでもいい…というか、筋論だけでOKです。
問いは僕の記憶に残ってる出題形式で、簡単だけどちょっとだけひねってます。
そして、あくまでも「刑法」の問題です。

問い

甲が乙から盗んだ拳銃で丙を射殺した。当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった。述べよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月20日 (月)

刑法

書きなぐソ陪審「死刑制度⑪」から。

「テレホンカード偽造問題」(テレホンカードはもう古いが、それに類似する磁気カードと考えていただければ。)
1、テレホンカードは有価証券か?
2.もし有価証券と仮定した場合、NTTという記名がない場合はどうか?
  ホワイトカードはどうか?
3.真性に成立したテレホンカードの度数を50度から1999度に変更すると何の罪になるか。
  また、0度から1999度に変更すると何の罪になるか。

あいた…
これをもって「刑法にも複数の解釈ができる」というのは痛いですぞ、もりー。
刑法に定められているのは
「有価証券を偽造すれば犯罪だ」
であり、
「じゃ、テレホンカードはどうなるんだ?」
は個々具体的な話になる。
根本的な部分で刑法に対する理解が…

もりーが挙げている

「論点&演習 事例刑法」 JKブックレット司法試験 自由国民社刊

なる本は読んだことがないが、タイトルを見よ、タイトルを。

事例刑法」

になっちょるではないか。
刑法」ではないではないか。
要するに、
「刑法では有価証券を偽造すると犯罪になる。さて、テレホンカードなどといった法が想定していなかったケースが発生した。構成要件に該当するか」
でしょ。

これは僕が書いた「使用窃盗では解釈が分かれる」というものとは根本的に違うものだということに気付かなかったのか?

僕が書いたのは単に一点のみ。

刑法の条文に違反すれば処罰の対象となる。

それだけ。
つまり、使用窃盗の場合は無罪か有罪かという相反する解釈が存在する。
でも、有価証券を偽造した場合に有罪か無罪かという相反する解釈は存在しない。

テレホンカードは有価証券かどうか、では解釈が分かれても、有価証券偽造が有罪かどうか、という点では解釈は分かれない
テレホンカードが有価証券と認められれば有罪、違えば無罪。
有価証券偽造罪という規定そのものにおいては解釈は分かれない。
従って、もりーが書くところの

まず「1」の段階ですら解釈が3通りに分かれるとされています。
これはすなわち刑法162条の解釈です。

という部分は、「有価証券偽造罪」の解釈を論じたものではなく、
「テレホンカードを偽造した場合、どの罪状を当てはめるべきなのか」
という議論なの。
分かる?

「162条の解釈」を論じたものではなく、「162条を適用するためのハードル」を論じたものに過ぎない。
もっと言うと、

「相手が殴りかかろうとしたから刺し殺した」

という事例が発生した時には、まずそれが「急迫不正の侵害行為か」が論じられる。
「殴ろうとしただけだから、殺すのは過剰防衛」となれば殺人罪適用。
「殴り殺す意思があったから正当防衛」となれば正当防衛成立。

「正当防衛は有罪か無罪か」を論じる人はいませんわな。
でも、正当防衛を成立させる要件を論じる人はいます。

もりーが挙げたのは、その部分なの。分かる?
有価証券偽造が有罪か無罪かを論じる人はいませんわな。
でも、有価証券偽造を成立させる要件を論じる人はいる。

使用窃盗つーのは「何を盗んでも返す意思があり、返せば無罪」なの。
でも有罪説を採る人は「何を盗んでも、その間に磨耗した部位に関しては窃盗罪が成立する」なの。
「使用窃盗は有罪か無罪か」で議論が分かれる。
まぁ、これも運用面での議論ではあるんだけど…。

「刑法の条文に複数の解釈がある」
というのは、「殺人罪は有罪か無罪か」というトンデモ議論であって、そのような議論はできない。
できるとすれば、その条文は改廃される。
尊属殺人がそうですな。

「親を殺せば死刑」

ですが、「親であっても人であることに違いはない」という議論があり、廃止されました。
近年では強姦罪が議論されておりますな。
女が男を犯した場合、なぜ強姦罪が適用されないのか。
これが「条文解釈の幅」であって、しつこいようだが、もりーが勝ち誇ったように書いてるのは
「運用面における幅」
に過ぎないわけです。
よって

つまり、霧鈴が主張する
いえ、「論理詰めで」構成することは可能ですが、
「数学的」に、たった一つの答えを導くことは絶対に不可能です。
は明らかに「違わない」と断言させていただきます。

はやはり「違う」と断言させていただきます。
「条文に違反すれば逮捕される」
なわけです。
逮捕する際に「どの条文を適用すればいいのか」で様々な解釈が生まれる。
その程度のことは百も承知。

残念でしたな。
繰り返しますが、僕が刑法を専門的に学んだのは10年以上前。記憶はかなりあやふや。
それでも、この程度のことは理解しちょりますぞ。
「刑法は理詰めでなければならない」という僕の主張を論破したければ、刑法を専門的に勉強しなされ。
「刑法の運用」ではなく、「刑法」そのものをね。

同じ解(刑罰)を論議するのには同じ10進法(単位基準)でしなければならないはずなのに、
なぜだかキチガイ(心神耗弱者)やクソガキ(未成年)は違う2進法(適法基準)とかで計算される。

なんですが、要は「こういう人が違反した場合は適用を除外する」ということまで定めているのが刑法なんです。
逆に言えば、「それ以外の連中には厳密に適用する」ということを謳っているわけ。

あ、もりーの文を読み直してみたら、墓穴掘ってら。

これを見るとどの刑事事件に対しても2~6通り(平均3通りくらいですかね)の解釈がそれぞれつけられています。

はいはい。
「どの刑事事件に対しても」
ね。
「刑法のどの条文に対しても」
ではない、ということですな。そりは。

はぁぁぁぁぁぁ~~~
この程度のことも理解できずに刑法を論じるとは…
ま、お疲れ様でした、とでもいっときましょうかね、今回は(w

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2006年3月19日 (日)

死刑。その7

書きなぐソ陪審」の「死刑制度⑨」

さてさて、もりーの復帰によって再稼動いたしました「死刑存廃論」(というか、刑罰制度論)。ここらで一回、きちんと整理してみましょう。

>「死刑」 は 「責任の取り方」 の一つとして被害者側が指定できる選択肢の一つであるべきだ

この文の後に続く文がなんとなく分かりにくかったんで僕なりに理解した範囲で書き直してみます。

殺人犯がいる。個々具体的な事象をかんがみて、裁判所が量刑の選択肢を提示する。

つまり、裁判官が
A.死刑
B.無期懲役
という刑罰を被害者に提示する。被害者、もしくは遺族が、そのAかBを選択できる制度を設ける。

「こんな奴、殺してほしい」と思った被害者はAの「死刑」を選べる。
「一生かけて贖罪せよ」と考える被害者はBの「無期懲役」を選択できる。

そういう制度をつくれ、と主張していると読める。

ここまでの解釈は間違いないでしょうか。

この解釈が正しいという前提で話を進めると、以下のような結論にたどり着きます。

裁判所は罰則に対するメニューを作成するだけ。
あとは原告の裁量に委ねる。

「裁判所としては、死刑、もしくは無期懲役が妥当と判断する。さて、被害者の方はどちらを選びますか?」

ですね。

でも、これでは裁判所は「刑事罰メニュー選定所」という地位になってしまいます。

以前にも書いた覚えがあるんですが、被害者にも様々な人がいます。
狭量な人は間違いなく「死刑」を選ぶ。
寛容な人はおそらく「無期懲役」を選ぶ。

さて、ここで仮に「冤罪」だったことが後に判明したとしましょう。
裁判所が「死刑判決」を出していたなら、これは全面的に法曹界の責任です。
従って、冤罪で死刑執行された側の遺族は国に対して賠償責任を追及することが可能です。

でも、もりーの主張に基づいてその「冤罪」に対して被害者が「死刑」を選んでしまった場合、いったい誰が責任を取るのでしょう。
冤罪で死刑された遺族は、
「お前が死刑を選んだばかりに、俺の家族が殺された。どう責任を取ってくれるんだ。あの時、無期懲役を選んでいれば冤罪で死なずに済んだのに!」
になるのでは?

そうすると、犯罪の被害者が裁判所の提示するメニューの中から選んだだけなのに、被害者が今度は加害者になってしまう、という事態が起こりうるのでは?

そして、「死刑」を選んだ側が、今度は「殺人罪」として提訴されてしまう、という事態が起きる可能性もある。

だからこそ、量刑は裁判官が選ばなければならない。
そうしなければ、被害者が全責任を負わなくてはならなくなる。
それを許容するなら、もはや「裁判所」など不要。
どうせ被害者が責任を取るのなら、初めから刑罰を被害者側が指定すればいいじゃねーか、では?

一時的に被害者側が納得できたとしても、死刑廃止論者が言う
「冤罪の時にどうする」
という点に関する議論はますます死刑存続派にとっては不利に働いてしまう。
つまり、

被害者の希望も一見多少汲みいれているような裁判形式にすれば
納得できる範囲が増える気がするんじゃないか

はあくまでも表層的、一時的なものであって、もりーが主張する制度を導入するには、大前提として
「現場目視による現行犯逮捕」
という、冤罪が絶対にあり得ない状況でなければならない
実行犯が逃走した後に捜査して逮捕、という段取りでは、冤罪の可能性がある、ということになり、
「量刑メニュー選択制度」
というのは非常に限られた場面でしか適用できないということになります。

だからこそ、司法権は国民が全面的に委託しなければならない。
被害者が加害者に変わり得るような制度は導入すべきではない。

もりーの主張では「一部委託」であり、「全面委託」ではない。
この「一部委託」を認めることは、すなわち
「国政も一部委託。国会議員は選択肢を提示するだけで、あとは国民投票で決める」
ということにもつながるわけです。

そして、「国民投票」があらゆる場面で行われるならば、国会議員など要らないじゃないか、ということになる。
これは議会制民主主義の否定につながる。

最初から国民発議でいくつかの選択肢を示して、それを国民投票で決めればいいじゃないか、です。
必要なのは「国民投票管理委員会」のみ。
要するに、「政府は要らない」です。

ついでですが、法の存在意義について。

法律とは法を必要としない社会を目指すために制定されるもの

です。
ある行為に罰則を適用する。
その威嚇効果によって犯罪を減らす。
犯罪がなくなった時点で法をなくしてしまう。

あくまでも理想論ですが、まず社会に犯罪行為が存在する。
それをなくすためにはどうすればいいかというと、法律を制定して取り締まるしかない。
そうすることによって犯罪を撲滅する。
それが法の存在意義です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

死刑。その6

霧の中の鈴の「死刑制度について(3)」から。

「罪と罰をすり合わせる過程」とは即ち「裁判の流れ」であって、
「刑事訴訟法」とは、それこそ淡白に
刑事訴訟の事務手続きを規定したものであると思われます。

そうです。
これに関しては書きなぐソ陪審の「死刑制度⑦」でも突っ込まれております。

まずもって刑訴法というのは
「訴訟の手続きを定めた法律」
であり、それ以上のものではありません。
改めて自分の文章を読み直してみると、誤解を招く書き方をしております。すんません。

ということで、ちょい軌道修正して刑法のみでいきましょう。

2人の論調を読んだ率直な感想ですが、2人とも
「刑法には幅がある」
という点を指摘しておるようです。
んでもって僕が以前にこのブログで書いた
「刑法は理詰めでなければならない」
という点に疑念を差し挟んでいるように感じます。

まずここの齟齬を解消しておきましょう。
僕が「刑法は理詰め」というのは、
「法を破れば逮捕される」
という点です。
これは他の民法や憲法とは明らかに違う点です。

民法は1つの条文に対し、様々な解釈が成り立ちます。
憲法もまたしかり。9条なんてその最たるものですね。
でも、刑法は違います。

「人を殺してはいけない」

それだけです。解釈もクソもない。ダメなものはダメ。それだけ。

民法では様々な解釈があるので、違反しても有能な弁護士がついていれば正当化することは可能です。
でも、刑法では正当化できません
「急迫不正の侵害があったとき」
に限り正当防衛なるものが適用されますが、それも正当防衛(または緊急避難)に関する規定があり、その規定をクリアしなければ、やはり殺人です。

僕が知ってる範囲では、解釈が分かれる条文は「使用窃盗」のみです。
死刑とは関係ないんですが、一応、説明しておきます。

車など、他人の所有物を無断で使った(盗んだ)。だけど、後で持ち主に返した。

これが「使用窃盗」です。
これは「無罪説」が有力ですが、「有罪説」も存在します。

無罪説は、一時的に所有権を侵害したが、もともと所有者に返す意思があり、実際に返したのだから無罪でいいのではないか、という説で、判例でも無罪になっています。
一方の有罪説は、例えば車そのものの所有権は回復されたが、使用していた期間にタイヤが磨耗している、ガソリンを使った。だから、車を盗んだことにはならないが、それに付随する消耗品は「盗んだ」ことになるのだから有罪だ、です。

ついでといってはなんですが、正当防衛に関して。
これはどの国の刑法にも定められていますが、日本では正当防衛が認められることは非常に少ない。
でも、アメリカなどでは非常に多い。
この違いは「民間人に銃器の使用を認めているか」というのがカギになっているようです。
銃器の使用を認める国では正当防衛で無罪、というケースが認められやすく、日本のような銃器の使用を認めない国では正当防衛は認められにくい。

…話がそれましたが。

なにぶん、法律を専門的に学んだのは今をさかのぼること10年以上になるので、記憶があやふやになっている部分もありますが、そのあやふやな記憶においても
「刑法は理詰め」
という印象は明確に覚えています。
つまり、霧鈴が主張する

いえ、「論理詰めで」構成することは可能ですが、
「数学的」に、たった一つの答えを導くことは絶対に不可能です。

は明らかに「違う」と断言させていただきます。
「数学的」に、たった一つの解を導くことは可能ですし、導かなければならないのが刑法です。

霧鈴&もりーは、量刑の部分で「不可能」としているわけですが、その前段において、
「人を殺せば犯罪者」
というのは非常に数学的です。僕はこの部分において「理詰め」としているため、2人には納得できなかったのかもしれません。
僕は量刑に関しては「理詰め」とは書いていません。

僕は以前にも書いた通り、法学部出身です。つまり文系。
でも、もともとは哲学者志望だったので、論理的な思考法が得意…というか好きなんです。
だから、A地点という出発点からあらゆる派生が出てくる民法や憲法は苦手。

だけど刑法は「AだからB、BだからC・・・」と理詰めでZ地点まで持っていけます。
従って、純粋な文系の人間は刑法が苦手。
一方で理系的な思考ができる人間は刑法が得意、というのは事実です。
実際に大学では民法ゼミは常に定員オーバー、刑法ゼミはいつも定員割れしていました。
そこで
「刑法は理系的」
という表現を使った次第です。

刑法においては、ある行為に関して
「犯罪か否か」
のみが論点になります。
量刑は裁判官が決めることであって、刑法はその量刑の選択肢を提示しているだけ。

僕が覚えている刑法の論文試験の問題を例示してみましょう。

Aが持っている拳銃をBが盗んでCを射殺した。
いかなる犯罪が成立するか。

所有権とか占有権などという概念で論文を書くわけですが、そこらを端折って答えを書くと、
「Bには窃盗と殺人の罪が成立する」
です。
量刑は「解」ではありません。

確かに刑法には量刑に関して幅を持たせていますが、要は
「ある行為をしたときに、どのような犯罪が成立するか」
であり、この部分が非常に論理的、数学的なんです。
犯罪が成立すれば、あとはどうするか、裁判で決めるだけ。
それは個別具体的に判断すべきもので、だから量刑に幅を持たせている。

従って、刑法というのは
「構成要件該当性を満たしているか」
「予見可能性はあるか」
「責任能力はあるか」
だけを論じればいい。
感情は二の次になるわけです。

まぁ、今までさんざん書いておいて、こういうオチをつけるのもどうかと思うんですが、
刑法と死刑制度とはあまり関係ない
ということになってしまうわけです。

そりゃね、確かに刑法には「死刑」という刑罰が明記されてますよ。
教育刑か報復刑かで議論は分かれますよ。
でもね、それは刑法議論において、犯罪が成立した場合にどうするか、ということであって、刑法では
「ある行為が犯罪になるのかどうか」
だけの話なわけですよ。諸君。

つまるところ、死刑存廃論は、刑法を超えた部分の議論なわけです。
だから、結局は刑法云々ってのは、さほど問題にはならない。
「刑法の理念」が問題になってくる。

その理念とはすなわち、「教育刑」か「報復刑」か、なわけです。
「無限の可能性を~」とか、「感情的な側面を~」
などといった議論ではないのであります。

僕が書いたもの、特に最初の「死刑。その1」には、刑法云々の話よりも「国政は国民が委任したものであり~」などといった点に主眼を置いているのは、
「死刑制度は刑法とはほとんど関係ない」
と考えているからなのです。
その後はグタグタになりましたが…。

ま、端的に表現すると、
「刑罰は報復刑。そして現在、死刑制度がある。だから認める」
です。
そして、死刑制度を論じるには、まず「報復」か「教育」かに決着をつけなければならない。
霧鈴やもりーが書いてるような「刑法には幅があって云々」などという小難しい話ではない。

ということで、眠い頭で書いてるので隙だらけではありますが、今回はこの辺で。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月12日 (日)

死刑。その5

書きなぐソ陪審死刑制度⑤」から

>刑法を土俵に論じることができるのはここまで。
>ここに感情を差し挟んではいけない。ここまでは理詰めでいかなければならない。
>でも、その後に続く刑訴法には感情的側面を取り入れなければならない。
>このあたりをもりーは混同しているように感じる。

これがまず根本的におかしいと感じる。
刑法と刑訴法のダブルスタンダードと解釈してよろしいのでしょうか?

ちやいます。

刑法…「人を殺しちゃダメ」
→違反すると…死刑とか懲役とかの刑罰が待ってるぞ。

これが刑法です。
刑法には
「これこれ、こういったことをしてはいけない。その約束事を破ったらAかBかCのお仕置きをする」
という基本ルールが定められております。

んじゃ、破った場合に誰がどこでどのように、刑法で定められたA、B、Cというお仕置きの種類の中からひとつをピックアップするのか、というと、裁判官が裁判所で裁判をもって決めるわけです。
そのお仕置きを選ぶ際のルールを定めたのが刑事訴訟法。

前にも出した例えですが、ここに非常に貧しい人がいます。
何かを食わなければ、明日にでも餓死するかもしれません。
その遠因は、過去に隣の家の火災が延焼して自分の全財産を失ってしまったからだとしましょう。

その人がパンを盗みました。
さて、この人はどうなるでしょう。

感情的にみれば、誰もが「可哀想」と感じるのではないでしょうか。
じゃ、可哀想だから窃盗の現行犯で逮捕するのはやめておこう。

一方で、パン屋さんのパンを盗んで、自分の店先に並べて売ってる人がいたとしましょう。
仕入れ値はゼロ円。売り上げは全部自分の懐に入れていたとしましょう。
その人がある日、いつものようにパンを盗みました。
さて、この人はどうなるでしょう。

感情的にみれば、「悪人」ですよね。
じゃ、悪人だから窃盗の現行犯で逮捕しよう。

刑法に感情を差し挟めば、このようなケースが起こり得ます。
でも実際はどうかというと、2人とも窃盗で逮捕されます。
これは「構成要件該当性を満たしているから」、つまり、物を盗んだから。

でも、だからといって犯行に及んだ動機に関してはまったく別のものです。
それを警察で聴取して、検察に送致するか否かを決めます。

そこから裁判の手続きに入っていきます。
刑訴法の範疇ですね。
起訴すべきか否か、検察が聴取して判断します。
その時に初めて「感情」というものが考慮されるわけです。

「こんな可哀想な人に罰金刑を科すのは可哀想」
と検察側が感じれば、論告求刑で懲役1年なんてものが出てくるでしょう。
「このやろう、人のふんどしで相撲取りやがって悪質」
と判断すれば、懲役3年などの厳罰を求刑するかもしれません。

さて、そこで裁判官は考えます。
「窃盗に対する刑罰には数種類ある。さて、どれを適用すべきか」
そこで裁判官が
「これって…ちょっと可哀想じゃねーの?」
と感じれば、無罪にはならなくても情状酌量の余地あり、として「執行猶予1年、懲役6月」などといった判決が出る。
これは「1年間、犯罪行為を行わなければ、その後に続く懲役刑には服さなくていい」です。

一方で裁判官が
「ダメじゃん。それ」
と感じれば、情状酌量なし。懲役2年などといった判決が出る。
ここで被告が控訴を断念すれば刑が確定し、被告は即、服役囚となります。

もりーはこれら一連の流れを「ダブルスタンダード」のように感じてるみたいだが、それは違う。
刑法においては
「物を盗めば逮捕される」
単にそれだけのこと。
基準は1つしかない。その基準とは
「刑法に違反したかどうか」

だけ。

違反していなければ逮捕されない。
違反すれば逮捕される。
=画一的

ここまでは理解してもらえたでしょーか。

次。
ここからが刑訴法。
つまり、裁判のルールが適用される。
そこで、犯罪成立の諸要件を満たしていれば、犯罪が確定する。
そこで刑法に戻る。

刑法に違反した

逮捕(ここまで刑法)

裁判(ここから刑訴法)

犯罪成立

罪状確定

刑法に定められた罰則適用

という流れ。

サッカーで例えてみましょう。
試合は社会生活に相当します。
そこには一定のルール(刑法)があります。
それを破れば反則を取られます。
反則の内容によって、イエローカード(執行猶予)かレッドカード(懲役)かを審判(裁判官)が判断します。
その審判の判断によって、反則(逮捕)をとられた選手が退場するかどうかが分かれます。

刑法(ルール)がある以上、それを破れば逮捕されるわけです。
それがどのような状況であろうとも、です。
でも、なぜ反則したのか、どのような反則だったのかによって、ジャッジは変わるんです。
時にはレッドカード、時には注意のみ、またあるときにはイエローカード。

サッカーで、フェアジャッジが行われている時、それを
「ダブルスタンダードだ」
という人はいるでしょうか。
僕はいないと思いますが。

そもそも刑法と刑訴法は違うわけです。
刑法は社会生活において「やってはいけないこと」を定めたもの。
それに違反すれば裁判するよ、というもの。
つまり、「社会のルール」です。

刑訴法は、どのように裁判を進めるか、という、いわば「特別ルール」で、そのルールが適用されるのは刑法に違反した時なわけです。
つまり、「刑事裁判のルール」です。

さて、刑法にダブルスタンダードを取り入れるとどうなるでしょう。
「こいつはOKだけど、あいつはNG」
などということが起こってしまいます。

「もりーがパンを盗んだら窃盗の最高刑を、小兄がパンを盗んだら逮捕しない」

これならダブルスタンダードともいえましょうが、実際は違います。
これは「不当差別」としか言いようがないですね。
だから、刑法の適用は画一的でなければならない。
要するに、2人とも逮捕しなければならない。

その後に、裁判のルール(刑訴法)に従って、量刑を決める。
そこには上にも書いたように、「動機」だとか「感情」というものが入り込んでくる。
でも、その刑訴法は、あくまでも「裁判のルール」だから、日常生活で刑訴法のお世話になることは皆無。

「入れるべき入れないべきを一緒にしちゃこまるんだぜ」
とはぐらかされたような気になったので書いてみました。

といわれても・・・です。
まったく違う性質の法律なわけですから、感情を入れるべき法律(というか、裁判)と、感情を入れてはいけない「刑法」は「ダブルスタンダード」なのではなく、手続き上の問題であり、刑法には刑法のスタンダードが存在する。刑訴法には刑訴法のスタンダードが存在する。

・・・そう書くと「やっぱダブルスタンダードぢゃねーか」といわれそうですが、適用される状況や、法がカバーする範囲・立脚点が違うし、刑法、刑訴法ともに一貫した理念がある以上、ダブルスタンダードとはいえないと考えております。

さて、「霧の中の鈴
「死刑について(2)」から。

従って、「えせ記者徒然」や「書きなぐソ陪審」で述べられていることは、
すべて「法律(刑法)の運用」に関することであり、
抽象的に、「将来の、想像を絶する罪悪」を仮定する、
ぼくの立場とは根本的に異なります。
さらに、「死刑制度の存廃」という論点とは外れています。

死刑制度の存廃に関して僕は一貫して「廃止するなら司法の洗い直し」を主張しているわけです。
また、法というのは「将来の、想像を絶する罪悪」によって創設されるものではなく、「過去の、想像を絶する罪悪」によって規定されていくものです。

僕は「現状として死刑制度がある以上、その根底には報復刑の理念があることは明白」と考えています。
でも、現在は「教育刑」が一般的な考え方とされています。
そこに「将来に起こり得るかもしれない犯罪に関して一定の規定を設けよう」となると、それは「教育刑論」に基づいた罰則規定になるので、それこそ、ひとつの法律に「ダブルスタンダード」が設けられることになるわけです。

「殺人放火」は確実に死刑です。
では、将来起こり得るかもしれない「○○罪」には何が適用されるのでしょうか。

また、霧鈴の「仮定」に基づけば、「将来の、想像を絶する罪悪」について、どの時点でその罪悪に相応する条文を挿入するのか、が課題になってきます。
「想像を絶する」ということは、つまり、「まさかこんな罪を犯す者はいないだろう」という前提ですね。
ということは、その「想像を絶する罪悪」というのは現段階で規定されていないわけです。
ならば、罪悪が行われた時点で法改正が行われることになる。
霧鈴はしきりと「罪刑法定主義」を持ち出していますが、罪刑法定主義とは、「事後法を認めない」というものです。
つまり、現段階で条文がなければ、それを超える凶悪犯罪が起きた時には、現行刑法の範囲で裁かなければならない。

要するに、「将来の、想像を絶する罪悪」に関しては、現段階で起きていない以上、現行刑法で裁かなければならない。
「想像を絶する将来の罪悪には死刑を適用しよう」
という論旨は罪刑法定主義、及び現在主流の「教育刑論」とは著しく反するものだと考えます。

さらに言うなれば、僕ともりーの論が「法運用に関すること」としていますが、法を運用する中で、「教育刑か報復刑か」という議論がなされているものである以上、死刑の存廃は「どのように法を運用するか」を論じないことには始まらないわけです。
「教育刑をもって運用するなら死刑廃止、報復刑をもって運用するなら死刑存続」です。

分かりやすく(?)表現すると、
「現行の法運用は教育刑論をもとにしている」
という派と
「いやいや、報復刑論をもとにしている」
という派があるわけです。
前者は当然、死刑廃止論に、後者は死刑存続論にたどり着く。
法をいかに運用するかを論じることなく、死刑存廃論は語れない、と思うのですがいかがなものか。

そしてまた「書きなぐソ陪審」に戻ります。「死刑制度⑤」から。

「死刑」は「責任の取り方」の一つとして被害者側が指定できる選択肢の一つであるべきだ、という1点です。

ですが、現在の法制度上、被害者が罪を指定する、という制度は認められていませんし、今後も認めるべきではないと思います。
仮にそれを認めてしまったら、裁判所なんて必要ない、という結論にたどり着く。
被害者にとってみれば、自分や家族の生命、財産を侵害されたわけだから、多くの被害者は極刑を求めるでしょう。
でも、その前に「社会的背景」を考慮しなければならないわけです。

前にも書きましたが、国家が行うことは全て「国民が委託している」という大前提で社会が成り立っているわけです。
その中で被害者が「極刑を望む」と主張することは認められていますが、それを判断するのは司法でなければならない。
納得できるか否かは別問題。
判決に不服であれば、その裁判官を罷免できる権利があるのに、裁判官の信任投票はさほど話題にならない。

「被害者」と一律に括っていますが、狭量な被害者もいれば、寛容な被害者もいます。
100円のパンを盗まれたから、といってその背景も考えずに「最高刑を」と主張する人もいれば、「仕方ないから許してやるよ」という被害者もいます。

そのため、量刑を被害者に委ねると、
「あの人は優しいから、これからはあの人の店で盗もう」
などとなってしまいます。だから、量刑は第三者に決めてもらうしかない。
その量刑を世論が「間違っている」と感じたら信任投票でダメ出しできるにも関わらず、その権限を行使しない有権者。

ということで、2人の主張をそのまま受け入れてしまえば、「日本国崩壊」「無政府状態」に陥ってしまうわけです。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年3月 8日 (水)

死刑。その4

さてさて、「書きなぐソ陪審」の「死刑制度④

私は「感情を外して法律論議する」流れを「論理詰めで理系的」などと言うことそのものがいかにも文系的な思考そのものだと思いますが。
つまり
「1億人の人がいれば1億人の感情があって、それらの感情を全て分析し平均化を取ることが難しすぎるから(「画一的」との印象を持たせて)「理系的」や「合理的」と言い切ってしまうことによってそこら辺の議論は終わらせておこう。」
と言っているようにしか聞こえないのですよ。

これは僕が以前に書いた死刑に関する一連の記事の中の

刑法というのは全て論理詰めで構成されるもの。民法のように1つの条文に複数の解釈が成り立つような性質の法律ではありません。
例えていうなら、民法が文系であれば刑法は理系。全て理詰めでいかなければ議論は成り立たないはずなのに、廃止論者は感情に訴える。

という部分を受けてのものです。

ふむ。
そもそもからして僕自身が文系であり、理系の思考回路は持ち合わせていないので、
「民法は文系的、刑法は理系的」
という表現をしたわけですが、詰まるところ、

「刑法」に複数の解釈を成り立たせては法の存在意義がなくなる

ということを表現したかったわけであります。
1+1=2
であるように、
人を殺せば殺人罪
という、数式的なものが存在し、そこの部分は画一的でなければならないわけです
議論すべきはここからであって、「これで打ち切り」というものではない。

もりーが(霧鈴もだが)指摘しているのは「刑事訴訟法」の範疇であって、僕がいわんとしている「刑法」とは微妙なズレがあるわけです。
それは「死刑制度③

感情的な面は極力入れるべきだと思いますし、それが社会的に行き過ぎないように、もしくは足りな過ぎないように社会性に照らし合わせて監視するのが元来の報復刑の役割だと思うからです。

という部分からも読み取れる。

つまりですな、殺人罪についての条文があります。これを「構成要件」と呼びます。
構成要件該当性を満たしていれば(ex.人を殺せば)刑法に記された刑罰を科することは「あり得る」。
刑法を土俵に論じることができるのはここまで。
ここに感情を差し挟んではいけない。ここまでは理詰めでいかなければならない。
でも、その後に続く刑訴法には感情的側面を取り入れなければならない。
このあたりをもりーは混同しているように感じる。

【刑法】人を殺す(被疑者)→殺人罪が適用される(容疑者)→
【ここから刑訴法】→裁判で審議する(被告)→犯罪が成立し刑罰が確定される(犯人)
             
です。
刑罰が確定される(犯罪が成立する)には他にも様々な要件が必要となってきます。
おぼろげな記憶ですが、「構成要件該当性」「予見可能性」「責任能力」の3つ。

最初の「構成要件該当性」は「刑法の条文に当てはまるかどうか」だけで、「人を殺した」というのが事実かどうかのみが争われます。
この点では、構成要件該当性が満たされていなければ裁判にはならないので、ほとんど争点になりません。

「予見可能性」(期待可能性とも呼ばれる)は、「このような行為に及べばどうなるか予測できたかどうか」です。
「ナイフで刺せば人が死ぬかもしれない」ということは容易に推測できるので、これもほとんど争点になりません。
でも、例えばビルの屋上から故意に物を落としたとき、まず「人が死ぬかもしれない」ということはごく稀なケースで予見しにくい。だけど、落とした人が「こんな程度で死ぬはずがないけど、もし誰か死んでも構わないや」と思っていた場合は「未必の故意」として殺人罪が適用されます。

最後の「責任能力」が裁判の争点として最も多く挙げられます。
これは要するに「まともな精神状態だったか」というものです。
構成要件該当性は満たしていても無罪になることがあるのは、この「責任能力」と上記の「予見可能性」をクリアできないから、ということが多いようですね。
従って、

もし本当に「1つの条文に複数の解釈が成り立つような性質の法律ではない」のなら、検察は有罪の、被告は無罪の、それぞれに精一杯の証拠が集まった時点で「条文と過去の判例と改訂箇所の詰まったコンピューター」に入力すれば1秒で裁判は終わるはずです。

は、僕が刑法を主軸に刑事訴訟法を絡ませている部分に対し、もりーは刑事訴訟法を主軸に刑法を絡ませているために納得できない部分が出てくるのではないでしょうか。

加えて、犯罪というのは多種多様で、証拠と判例だけでは判断できない側面がある。だから個別具体的に判断する必要がある。証拠と判例だけで簡単に誰もが納得できる判決を得られる事案は簡易裁判所で結審、というケースが多いように感じます。

>現在の世界的な流れとして「教育刑」という思想がある。
これ↑は今回「死刑」に絞った話と捉えていいでしょうか。

違います。
全てにおいて、です。
それを死刑廃止論者は「死刑制度の是非」を議論する際に持ち出してきているだけです。

僕はあくまでも刑罰とは「報復刑」が基本になっているものであり、それを「人権擁護」の観点から「教育刑」とするなら、現在存在する、刑法も含めた全ての司法制度を根幹から洗いなおす必要があると考えています。
でも、現実として今の刑罰制度は「教育刑」が基本となっています。
そして、それは認めざるを得ない側面があることも事実です。

例えば貧困のためにパンを一切れ盗んだ人がいたとしましょう。盗まなければ餓死していたとしましょう。
日本人の情緒的な感性からは
「それだけ貧しかったのならば仕方ないな。でも法治国家だから、一定の刑罰は科す」
という理屈は納得ができるんではないでしょうか。
そういう人には刑事訴訟法において情状酌量の余地が認められます。執行猶予がつくでしょう。そこで「教育刑」論が出てくるわけです。
でも、刑法ではあくまでも「窃盗罪」です。

仮にその人が刑務所に入ったとして、画一的に「犯罪者」として扱っていいものかどうか。
職業訓練を受けさせて、定期的に安定収入を得られるよう「教育」して、二度と物を盗まない人間に「更生」させることは可能です。
だから、

そんな法学者が自分達の飯の種を稼ぐべくキリスト教的な隣人愛を都合よく持ち出し「死刑」をやめて「教育刑」にしろなどとはよく言えたもんです。

はちょっと違う。
「教育刑にしろ」ではなく、「人間の善性を信じよう」です。
そして!
それは死刑制度に直結するものではありません。
上にも書いたとおり、死刑廃止論者が「教育刑」を「更生の可能性がない計画的凶悪犯罪者にもその概念を当てはめるべき」と援用しているだけです。

んでもって、法学者の全てが死刑廃止論者ではありません。
教育刑は認めつつも、計画的凶悪犯に対しては死刑を適用すべきと唱える法学者も多く存在します。
だから、再犯、常習犯に対しては「教育刑は無意味」という。
刑訴法でも常習犯には情状酌量を認めない、などといったシステムが存在しています。

さてさて、女子高生コンクリ事件ですが、

被告人Aを懲役二〇年に、
同Cを懲役五年以上九年以下に、
同Dを懲役五年以上七年以下にそれぞれ処する。
被告人A、同C、同Dに対し、原審における未決勾留日数中三五〇日をそれぞれその刑に算入する。
被告人Bに関する本件各控訴を棄却する。

これは「軽すぎる」と言われてもしょうがない。
司法に権限を委任しこんな判決が出たのは、
私が親なら間違いなく
「リリースするからしっかり私刑しろ」
と言われていると解釈してしまう。

と、まぁ、もりーらしい解釈(^^;
確かに、僕も軽すぎると思います。
が、日本で科せられる懲役は、複合犯であっても(つまり、懲役15年クラスが2つあっても)懲役の上限は無期か15年。
その中で「懲役20年」という判決が出たのは画期的なことです。
おまけに少年法(だったと思う)で守られている未成年には「責任能力はない」とされているにも関わらず、大人と同じ刑罰を科す。
当時としては、これ以上ないほど厳しい刑罰でした。

だけど、一般的な感覚からみれば、この量刑は軽すぎる。

さて、そこでちょっと考えてみなければならないことがあると思います。
1.加害者の畜生どもは本当に更生するのか。
2.死刑にすればそれで済むのか。

1に関しては更生したとしても、レッテルは貼られる。
一生涯、人を殺した、しかも普通では想像もつかないような残虐な殺し方をした、ということを心に刻み付けて、人に後ろ指を指されながらこそこそと生きていくことになる。
これは、社会的に抹殺されることを意味します。
更生しなければ再犯の可能性がある。それを放置することを許容していいのか。

2については、僕としては(更生したと仮定して)、生涯を使って罪をあがなうべきであり、贖罪のためだけに一生を費やすべきではないのか、と思います。
死刑にしてしまえば、そいつの罪、被害者の人権、遺族の立場は、加害者が死んだ時点で「守られた」ということになります。

ちょっと話がそれますが、僕の兄は小学校1年の時に車にはねられて死んでしまいました。
民事裁判で慰謝料50万円。加害者は交通刑務所に入所。
それで解決。
遺族としてはとうてい納得できる話ではありません。
加害者の一族を根絶やしにしても飽き足りないほどの怒りを感じます。

では、どうすればいいのかというと、死刑にしてもらっては困る。
奴には一生「人を殺した」という罪悪感を持って、命を奪うというのはどういうことなのかを何年も、何十年もかけて考えてほしい。
「自分は人殺しだ」という意識を死ぬまで抱き続け、もだえ苦しみながら精神の地獄に落ちてほしい。
肉体的苦痛はやがて消えます。また、死ねばそれで終わります。
でも、精神的な十字架は一生涯消えません。
それを背負い続けて、苦しんで苦しんで苦しみぬいて生きていけ、と思っています。
僕の価値観からは、これこそがもりーが言うところの

「残虐刑」

だと思う。
だから、刑務所で「お前は人殺しだ、許されない罪を犯したんだ」ということを徹底的に教育してほしい。

従って、僕は積極的な死刑存続論者ではなく、
「制度が確立され、容認されている以上は尊重すべき」
という緩やかな存続論者なわけです。

あと、もりーが書いてた

もしくは「それを超える罪」には残虐刑を復活させるべきですね。
手と足と舌と一部の神経をもぎ取ってしまうとか

なんだけど、それをすると世界中からバッシングされる。
特に中国や韓国、北朝鮮という「特定アジア」は鬼の首を取ったように大喜びするでしょう。

「ほれ、やっぱり日帝は残虐だ」

などと。

そもそも、日本には手足をもぎ取る、などという残虐刑は存在したことがありません。
笞、杖、徒、流、死
の5つ。鞭打ち、杖打ち、強制労働、流刑、死刑。

一方、中国では、去勢や足切り、鼻切り、入墨のほか、手足と目、舌、耳をそいで胴体と首だけにして便器の壺に入れて糞尿を食わせる「人豚」とか、罪人の子どもを切り刻んで料理して罪人に食わせるとか、車裂きとか、およそ日本人では想像もつかないような刑罰を考案しては実践していました。

ついでに書いておくと、中国が主張する南京大虐殺で日本軍が行った「残虐行為」の中には、数百人の手を針金で縛って一列に並べ、万人坑と呼ばれる穴に放り込んで生きたまま埋める、などといったものがありますが、これは古代中国から伝わる処刑方法のひとつです。

その他、南京事件で行われた蛮行のあらゆるものが中国起源の処刑法であり、僕としては、
「南京大虐殺があったとすれば、中国人が中国人を殺したのではないのか」
と思っているわけであります。
なんせ、あの国ではいまだにカニバリズム(人肉食)が行われているといいますからな。

…話がそれましたが、要するに、「残虐刑を復活させる」というのはちょっと違う。
過去に残虐刑などなかったのだから、「復活」ではなく、「創設」という言葉でなければならない。
だけど、そんなことをすれば日本人のメンタリティーは中国人や朝鮮人と同じような低レベルになってしまう。

ここはひとつ、死刑存続でとどめてくれまいか。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2006年3月 7日 (火)

憲法改正

大仰なタイトルをつけてみましたが、憲法そのものに対してイエスとかノーとかいう話ではありません。
いま読んでる保守系の書籍の中に「半世紀以上も憲法を変えていないのは日本だけ」という文があったので、前々から漠然と感じていることをメモっておこうと思っただけです。

今回のメインテーマは
「何かを変える」
という行為について。

憲法の内容に関しては、機会があれば書くことがあるかもしれませんが、今回はできるだけ触れないようにしたいと思っています。

さて、現行の日本国憲法ですが、昨今、改憲の是非をめぐる論議が活発化しております。
僕としては改憲賛成なんだけど、なんだかんだいっても最終的には憲法が変わることはないんじゃないかと考えております。

なぜそう考えるのかというと、
「他人がつくったものを変えるのは非常に難しいから」
だと思うわけです。

過去に世界の言語の成り立ち…というか、まぁ大きく括って言語学と言って差し支えないと思うんですが、そっち方面にハマっていた時期がありました。
数冊の専門書を読む中で、ある特徴に気づきました。
例えば英語。
今は「英語」といえば「アメリカで使われている言葉」という認識が強いと思うんですが、「英語」という文字が示す通り、もともとはイギリスの言葉ですね。
一時期、英会話の勉強をしていたのですが、「英語」には「American English」と「Queen's(King's) English」の2種類があるんです。
つまり、「アメリカ英語」と「イギリス英語」。 「アメリカ英語」と「イギリス英語」が存在する、というのは知識として知ってはいたんですが、「同じ英語なのに、なぜ区別するんだろう」という疑問は抱いていました。

さてさて、今から10年近く前の話ですが、イギリスを1ヵ月ほど放浪したことがありました。
日本には「和英辞書」「英和辞書」というのがありますが、イギリスには「米英辞書」「英米辞書」が売っていました。

すげー違和感…

これって要するに、
「アメリカ人とイギリス人が英語で会話しても通じない言葉がある」
という意味なのではないのか、と。

僕が勉強していたのは、日本で広く普及している「英会話」です。「R」と「L」の発音の違いとか、「subway(地下鉄)」とはどういう意味なのか、とか。
その勉強を経てイギリスに行ったわけですが、その時に初めて、僕が学んでいた「英会話」なるものが「アメリカ英語」であることを知りました。
日本の教育機関で教える英語も基本的にアメリカ英語です。だから、その知識をもってイギリスを回ると、通じない言葉・発音が意外にたくさんある。

アメリカって国はもともとイギリスの植民地だったわけで、そこで使われる言葉は当然、英語。
独立から200年という月日が流れても、やはり英語。
なのに通じない言葉がある。なぜなのか。

その後、言語学の勉強をしてみてちょっとした驚きを覚えました。
いま、アメリカで使われている英語は200年前にイギリスで使われていた言葉だそうです。
つまり、英語の本場、イギリスでは200年の間に、言葉の意味や発音がどんどん変わっていった。
だけど、アメリカでは200年前に独立した当時の「古い英語」がいまだに使われている。

つまり、アメリカでは200年前のイギリスの言葉が〈冷凍保存〉されていたわけです。
そして、日本の英語教育現場では、その〈冷凍保存された言葉〉を学んでいる。

翻って日本。
日本では文章は漢字かな混じりで表記されます。
その漢字は中国で発明されたもの。数年前に中国に行った時、中国語を喋れない僕は
「中国では英語はほとんど通用しない」
という話を聞いて、
「筆談でなんとかなるだろう」
という程度の気持ちで行ったんですが、まずもって中国人が書く漢字は読めない。
「簡体字」といって漢字がどんどん簡略化されています。

聞くところによると、中国人も簡体字以外の漢字は読めないそうです。
だから中国人が中国古典を読解する際には、今の日本で使われている漢字を「逆輸入」しなければ不可能。
要するに、日本に留学して日本で使われている漢字を読めるように勉強するんだとか。

つまり、日本は千数百年前に中国で使われていた漢字を〈冷凍保存〉している国なわけです。

僕が読んだ言語学の本には(正確な記述は忘れましたが)、ある特定の言葉が生み出された地域では、その言葉は時代とともに変化していくけれども、それを「輸入」した国では、時代が変わっても言葉・文字が変わることはないそうです。

さて、そこで日本国憲法に戻りますが、議論は分かれるところだと思います。
「あれはGHQの押し付け憲法だから変えるべきだ」
だとか、
「追認した以上、有効だ」
とか。
僕は「押し付け憲法だけど有効。でも改憲はするべき」という立場なんですが、議論しても最終的には「やはり、今のままでいきましょう」(改憲はやめましょう)という結論に至るのではないかと思っている根拠は、上記の言語学的観点からの推測です。
なぜか。

ある言葉を「発明」した人たちは、その言葉の生い立ちやら構造、つまり「言葉の設計図」が頭の中に刷り込まれているから、どこをどう触ればどのように変わるのかが深く考えなくても感覚的に分かる。
でも、それを「輸入」した人たちは、言葉の設計図が理解できないから変えられないのではないんでしょうか。

これは憲法も同じです。現行憲法はGHQの草案をもとに布告されました。
つまり日本人は日本国憲法の「設計図」を理解していない。
大日本帝国憲法(明治憲法)は日本人がつくったものだから、設計図は把握しているけど、現行憲法は日本人が「つくった」ものではなく「追認」したものであって、設計図が分からないから、〈改造〉したくてもできない。

建築物でも同じですね。自分たちが住んでいる家。改築したくても、どの柱がどのような役割を担っているのか理解できていないから、下手に触ることができない。
自分で設計した家屋であれば、「この柱は必要ないから撤去。でもあの柱を取っ払えば家屋が崩れかねないから邪魔だけど残しておく」などとという判断は容易だと思います。
でも、大工さんでもない限り、自分の家の設計は業者任せ。
だから、自分の希望はあっても自分の手で改築することはできない。

話があちこちに飛びますが、日本語の口語体はどんどん変化しています。
僕が小学生から中学生ぐらいの頃って「全然」という言葉は「全然~ない」という用法でなければなりませんでした。
「全然」という言葉が冒頭にくれば、文末は「ない」しか使ってはいけなかった。
つまり「全然」という言葉は、ある状態を否定する時に使うものだったわけです。

今ではどうでしょう。
「全然平気」
「全然大丈夫」
などという言葉はごく普通に使われています。「全然」に否定的意味合いが消えてしまった。 これは日本人の中に「日本語の設計図」が存在するからです。
だから、日本語という範疇においては、本来は別の意味であっても、転用して別の意味として使うことができる。
仮に、どこかの国が日本語を公用語として規定したとします。おそらく、その国では「日本語の設計図」がないので、言葉の転用・変化は起きないでしょう。

なんだか、まとまりのない文章になってしまいましたが、要するに
「自分でつくったものはいくらでも改造できる。でも、人がつくったものを改造するのは非常に難しい」
ということを考えている次第であります。

だから、「改憲したいけどできない」と。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月 6日 (月)

死刑。その3

今回は
霧の中の鈴
の中の
死刑制度について

及び、ハンムラビ法典について。

たとえば、便宜的に、「無罪判決」を「0刑(ゼロけい)」、
「死刑判決」を「100刑(最大)」の刑罰であると考えてください。
対して、「罪の重さ」も便宜的に「○○罪」と数値で表すこととします。
すると、死刑制度が廃止された状態は、
刑罰は「99刑」までしかないことになります。

ですが、「100刑」がなくなると「99刑」まで。その「99刑」は無期懲役、ということになりますね。
でも多くの犯罪者は15年ほどで出所します。
これでは「99刑」どころか「60刑」ぐらいにしかなりません。
そこで、前回にも書きましたが、「無期限懲役」が代用になるわけです。懲役250年。酌量されたとしても出所までにかかる年数は100年近く。これなら実質的な死刑と同じですね。「一生涯、社会に出られない」という点で。

僕としては、あっさりと死刑にしてしまうよりは、死ぬまで牢獄に閉じ込められる方が精神的にきついのではないかと考えています。

さてさて、いよいよハンムラビ法典ですが、霧鈴は

このハンムラビ法典の法文がつくられた背景としては、
「目を潰されたから相手を殺す」
「歯を折られたから相手を殺す」というような、
混沌とした社会の現状があったという風に理解しています。
そのような行為に歯止めをかけるため、
「目を潰された仕返しは、相手の目を潰すところまで」
「歯を折られた仕返しは、相手の歯を折るところまで」
という、「復讐の最大限」を規定したものです。
http://ayzad-khast.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_86f8.html

もりーは

つまり「死をもたらした者は死をもって償え」てことです。それ以上でも以下でもありません。連鎖も生まれません。http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50074414.html

これは一般的なハンムラビ法典の解釈ですね。僕が知っている限りでは
「目には目を」
というのは
「相手に何らかの損失を与えた場合、同等の価値のあるものをもって罪を償え」
ということであり、
「失明させたから、犯罪者も失明させる」
というものではないらしいです。

ちょっと引っ越しのどさくさで資料をどこにしまいこんだのか忘れてしまいましたが、基本的に
「人を殺した者は死刑」
という単純なものではない、と聞いたことがあります。
だからハンムラビ法典には「目には目を」と確かに書かれているんですが、補足文がついていたはずです。
「それがいやなら家畜を何頭」とか、そんなやつ。

そもそも、ちょっと考えれば分かることなんだけど、例えば自分の腕が折られたとしますね。
相手の腕を折れば満足するんでしょうか?

違いますね。
多くの人はむしろ慰謝料がっぽりの方がいいはずです。
「目には目を、歯には歯を」の言葉のインパクトによってそればかりがクローズアップされていますが、実はそれほど単純な法ではないんだ、ということは意外と知られていないようです。
資料が出てきたらまた書きます。

え~っと…
ちょっと粗っぽい内容でしたが、とりあえず、ということで。

ちなみに法哲学において、法の存在意義とは
「法律とは法律が必要ない社会をつくるためにつくられるもの」
であって、あらゆる人々が犯罪を犯さないように刑事罰を設けて、犯罪数の減少を狙っているわけです。
従って、法哲学的観点から見れば、全ての刑事罰には抑止効果があるのだ、ということができるわけで、「死刑には威嚇効果がない」という主張は、法哲学を無視しているのではないかと思うところです。

余談ではありますが、罪刑法定主義というのは、「あとから刑罰を作ってはならない」というものであり、

「パンを万引きして死刑にするのは無茶だ」ということ。
http://ayzad-khast.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_86f8.html

を平気でやっちゃったのが、かの有名な東京裁判であります。

と、3回に分けて書きましたが、今のところは以上です。
異論反論おぶじぇくしょん、お待ちもうしあげておりますです。>もりー&霧鈴

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 5日 (日)

死刑。その2

さて…何から始めましょうか。
とりあえず、「死刑制度の是非

3. 矯正を目的とする近代刑事政策に死刑はなじまない
誰が「近代刑事政策」を「矯正を目的とする」だけと決めたのか。
たしかに現代の日本人の思考でごくごく常識的に考えるとその文意はなんとなく理解できなくもないのだが、
しかしその「矯正」の思想こそもっと危険ではないだろうか。

にある「誰が決めたのか」という部分ですが、法学者です。
現在の世界的な流れとして「教育刑」という思想がある。これは復讐がどうだとかいった観点ではなく、再犯の可能性がない者も確かに存在する。全てが全て極悪人ではない、刑務所に入れて教育すればかなりの確率でまともな社会生活を送れる者が存在するという事実を踏まえて生まれてきたものです。

一方で新派というのもあって、犯罪を犯しそうな人間は犯行に及ぶ前に刑務所にぶち込んでしまえ、という過激な内容。映画「マイノリティー・リポート」が確かそんな内容だったと思います。
僕はこの思想に一定の理解は示しますが、非常に危険な思想だと考えています。

いずれにせよ、「報復刑」という考え方は古いのだ、ということは頭に入れておくべきでしょう。
それが正しいかどうかはともかくとしてね。

次に「死刑制度
全般にわたって「報復刑」を前提として話を進めていますが、これは
霧の中の鈴」の中の
死刑制度について
にも指摘があるように、被害者側からの視点であり、かつ
「司法の存在がなかった場合にどうするか」
というシチュエーションも含まれており、妙に説得力はあるんだけど、ロジックの構築が多少、弱い気がする。
が、一番重要な部分は

もし社会が応報刑を保障してくれず、かつ遺族自身に復讐する体力も無いときには②の「あきらめる」を選ぶしか残されていないわけです。
現行の法制度はまだ「加害者の人権」と言ってるくらいですから、どちらかといえば全然弱者保護がなっておらず負の連鎖を起こさせる法制度だと思いますが。

だと思いますね。
前にも書いたように今の社会では「報復刑」は許容されていません。一方で加害者の人権は尊重され、被害者は泣くしかない、という、どうしようもない状況にあるわけです。
それでも「負の連鎖」は起きません。

なぜなんでしょう。

これはあくまでも僕なりの考えですが、どのような凶悪犯も人である以上、加害者に被害者(遺族など)が復讐行為に及ぶとそこに待っているのは刑事罰だけです。
殺し方が残忍であればあるほど、復讐した人までもが死刑に処される可能性が高まる。
「復讐」である以上、計画性があるわけですから、一定の情状酌量はあったとしても、重罪が科されることになる。
被害者、遺族はそれが分かっているから復讐したいのは山々だけどできない。
従って、法の裁きを待つしかない、ということになる。

そこで、有難いことに(?)日本には死刑制度がある。司法に権限を委任し、死刑制度を適用してもらうことで、一定の「復讐」が完遂する、というシステムなわけです。

では、死刑制度がなければどうなるのか、というと、一生刑務所から出られないアメリカのような「懲役250年」といった刑事罰を科すしかない。

死刑制度を廃止するなら、上限のない懲役刑。
僕としては、どちらでもいいと思います。
どちらでもいいけど、どちらかは必要であり、現在、死刑制度がある以上はそれを存続すればいいんじゃないのか、というのが僕の考え方ですね。

で、つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 4日 (土)

死刑番外編

これから死刑に関してちょろちょろと考察していきますが、元になっているのは以下のブログの記事です。

書きなぐソ陪審
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/
の中の
「死刑制度の是非」http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50073963.html
「死刑制度」http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50074414.html

霧の中の鈴
http://ayzad-khast.cocolog-nifty.com/blog/
の中の
「死刑制度について」http://ayzad-khast.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_86f8.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

死刑。その1

僕は法学部出身でして、その中でも刑法専攻。
死刑存廃論はさんざんやりました。ただ、授業にはほとんど出なかったので、とりあえず「書きなぐソ陪審」と「霧の中の鈴」のもりーと霧鈴の考察については次回に譲るとして、死刑制度に関する私見。

まず最初に僕の立場を明確にしておきます。

死刑存続派。

ただし、それは
「死刑という制度が確立されている以上、それは尊重すべきではないのか」
という緩やかな存続派。
もしも現行刑法に「死刑」という罰則規定が盛り込まれていなかったのなら、あえて死刑制度を新たに創設する必要はないが、現行刑法に認められているということは、それなりの根拠があると考えています。

それらを踏まえた「死刑存続派」。

ちょっと分かりにくいかもしれませんが、死刑廃止にはまず刑法改訂。様々な議論がありましょうが、その議論の中で仮に死刑廃止論者が多数を占めるならば、制度廃止も構わない、と思っています。
でも、存廃論が活発化する中、いまだに死刑制度が存続しているという現状を踏まえれば、廃止論者の主張には「感情論」とでも言えるような部分が含まれているように感じます。

刑法というのは全て論理詰めで構成されるもの。民法のように1つの条文に複数の解釈が成り立つような性質の法律ではありません。
例えていうなら、民法が文系であれば刑法は理系。全て理詰めでいかなければ議論は成り立たないはずなのに、廃止論者は感情に訴える。
だから、どれほど騒いでも、現在行われている議論において説得力が乏しく、従って、死刑廃止は現段階では無理だ、と思っている次第であります。

さて、ここで「書きなぐソ陪審」がどこかから引用してきたものに対する僕なりの考察を示しておきたいと思います。

1. 死刑は戦争と同様、国家が合法的に犯す殺人であり、人道上許されない

→戦争は外交の手段であり、国際法では「戦争のルール」が定められている。
また、形式上、司法権、立法権は国民が委任したものであり、両府が死刑という制度を認めているということは、国民の大多数がそれを認めている、ということになります。

従って、「国家が合法的に犯す犯罪」=「国民が委任した司法府が合法的に犯す殺人」ということができます。
この部分を「戦争と同様」という観点で見ること自体がおかしい。

そして「人道上許されない」との主張に対しては、

「ならば、再犯の可能性がある真の凶悪犯罪者の命を救うことは果たして『人道上』許されることなのか」

という問題が浮上してくるはず。
「国家の行う殺人行為」→国民が委任した殺人権
「再犯の可能性がある凶悪犯を救う」→個人による非合法な殺人が繰り返されるおそれがある

つまり、死刑を廃止するということは、自分が被害者になり得る可能性を秘めている、ということになります。

2. 死刑には存置論者が言うような威嚇作用はない

→死刑の適用もあり得る殺人については衝動殺人が多い。
衝動犯罪には確かに威嚇作用はない。
だが、仮に「立ちションしたら死刑」などと軽犯罪を含む全ての犯罪行為に死刑を適用したらどうなるか。
いかなる刑罰よりも抜群に威嚇作用を発揮すること間違いなし。

衝動的な殺人行為は情緒の乱れなどによって引き起こされるもので、そこにはいかなる威嚇作用も働きません。
が、「凶悪犯」と呼ばれる多くの殺人犯罪には計画性がある。 すなわち、「死刑」という威嚇から逃れる術を考慮した上で犯行に及んでいるケースがある。
それでも「威嚇効果はない」と断言するならば、それは明らかな論理のすり替え、つまり、衝動犯罪と計画犯罪の区別をつけていない、ということになります。

3. 矯正を目的とする近代刑事政策に死刑はなじまない

→教育刑か報復刑かで意見が分かれるところ。
今は教育刑が主流となっているが、もともと刑罰とは一種の報復行為であり、犯罪予防のための「見せしめ」の要素が含まれている。
その「見せしめ」の観点から作られた現行刑法に教育刑論を当てはめると当然、無理が出てくる。

現行刑法が教育刑的な観点に基づいたものであれば、死刑制度は「存在してはならない制度」。

それが存在するということは、現行刑法が報復刑の観点に基づいたものだと想定することは容易。

4. 誤審の場合死刑確定囚を救済できない

→そのための三審制。人が人を裁く以上、どこかで過ちは起きる。
だが誤審が起きる「可能性」を根拠に死刑廃止を論じるならば、現在の裁判制度や警察、検察の制度など全てを見直す必要があるのではないか。

といったところでしょうか。
言葉足らずな部分や分かりにくい部分があるのでややこしい話になっていますが、現在のところ、そのように考えています。

まとめると、

現行刑法は報復刑を根拠に作られており、そこに教育刑の概念を持ち出すと制度的矛盾が出てくる。
すなわち、「矯正を目的とする近代刑事政策」を主張するのであれば、死刑制度だけではなく、刑法の理念そのものを変更する必要がある。

「国家が行う行為」とはすなわち、国民の委任を受けて行う行為であり、国民が死刑制度を受け入れている以上は、それは「国家による殺人行為」ではなく、「国民が委任した殺人行為」である。
それを否定することは、「国民は国家に権限を委任していない」という、国家の存続基盤そのものを否定する行為である。

威嚇効果はあるにも関わらず、それを踏まえた上での死刑に相当する犯罪を犯した者は定められた処刑されてしかるべきである。 誤審の可能性はどのような裁判においても起こり得ることであり、それに対処するには司法制度の見直ししかない。

ですね。

つまり、死刑制度を単純に廃止することは、国家の存続基盤を大きく揺るがしかねないことだ、ということです。 ということでつづく。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »