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2006年3月 8日 (水)

死刑。その4

さてさて、「書きなぐソ陪審」の「死刑制度④

私は「感情を外して法律論議する」流れを「論理詰めで理系的」などと言うことそのものがいかにも文系的な思考そのものだと思いますが。
つまり
「1億人の人がいれば1億人の感情があって、それらの感情を全て分析し平均化を取ることが難しすぎるから(「画一的」との印象を持たせて)「理系的」や「合理的」と言い切ってしまうことによってそこら辺の議論は終わらせておこう。」
と言っているようにしか聞こえないのですよ。

これは僕が以前に書いた死刑に関する一連の記事の中の

刑法というのは全て論理詰めで構成されるもの。民法のように1つの条文に複数の解釈が成り立つような性質の法律ではありません。
例えていうなら、民法が文系であれば刑法は理系。全て理詰めでいかなければ議論は成り立たないはずなのに、廃止論者は感情に訴える。

という部分を受けてのものです。

ふむ。
そもそもからして僕自身が文系であり、理系の思考回路は持ち合わせていないので、
「民法は文系的、刑法は理系的」
という表現をしたわけですが、詰まるところ、

「刑法」に複数の解釈を成り立たせては法の存在意義がなくなる

ということを表現したかったわけであります。
1+1=2
であるように、
人を殺せば殺人罪
という、数式的なものが存在し、そこの部分は画一的でなければならないわけです
議論すべきはここからであって、「これで打ち切り」というものではない。

もりーが(霧鈴もだが)指摘しているのは「刑事訴訟法」の範疇であって、僕がいわんとしている「刑法」とは微妙なズレがあるわけです。
それは「死刑制度③

感情的な面は極力入れるべきだと思いますし、それが社会的に行き過ぎないように、もしくは足りな過ぎないように社会性に照らし合わせて監視するのが元来の報復刑の役割だと思うからです。

という部分からも読み取れる。

つまりですな、殺人罪についての条文があります。これを「構成要件」と呼びます。
構成要件該当性を満たしていれば(ex.人を殺せば)刑法に記された刑罰を科することは「あり得る」。
刑法を土俵に論じることができるのはここまで。
ここに感情を差し挟んではいけない。ここまでは理詰めでいかなければならない。
でも、その後に続く刑訴法には感情的側面を取り入れなければならない。
このあたりをもりーは混同しているように感じる。

【刑法】人を殺す(被疑者)→殺人罪が適用される(容疑者)→
【ここから刑訴法】→裁判で審議する(被告)→犯罪が成立し刑罰が確定される(犯人)
             
です。
刑罰が確定される(犯罪が成立する)には他にも様々な要件が必要となってきます。
おぼろげな記憶ですが、「構成要件該当性」「予見可能性」「責任能力」の3つ。

最初の「構成要件該当性」は「刑法の条文に当てはまるかどうか」だけで、「人を殺した」というのが事実かどうかのみが争われます。
この点では、構成要件該当性が満たされていなければ裁判にはならないので、ほとんど争点になりません。

「予見可能性」(期待可能性とも呼ばれる)は、「このような行為に及べばどうなるか予測できたかどうか」です。
「ナイフで刺せば人が死ぬかもしれない」ということは容易に推測できるので、これもほとんど争点になりません。
でも、例えばビルの屋上から故意に物を落としたとき、まず「人が死ぬかもしれない」ということはごく稀なケースで予見しにくい。だけど、落とした人が「こんな程度で死ぬはずがないけど、もし誰か死んでも構わないや」と思っていた場合は「未必の故意」として殺人罪が適用されます。

最後の「責任能力」が裁判の争点として最も多く挙げられます。
これは要するに「まともな精神状態だったか」というものです。
構成要件該当性は満たしていても無罪になることがあるのは、この「責任能力」と上記の「予見可能性」をクリアできないから、ということが多いようですね。
従って、

もし本当に「1つの条文に複数の解釈が成り立つような性質の法律ではない」のなら、検察は有罪の、被告は無罪の、それぞれに精一杯の証拠が集まった時点で「条文と過去の判例と改訂箇所の詰まったコンピューター」に入力すれば1秒で裁判は終わるはずです。

は、僕が刑法を主軸に刑事訴訟法を絡ませている部分に対し、もりーは刑事訴訟法を主軸に刑法を絡ませているために納得できない部分が出てくるのではないでしょうか。

加えて、犯罪というのは多種多様で、証拠と判例だけでは判断できない側面がある。だから個別具体的に判断する必要がある。証拠と判例だけで簡単に誰もが納得できる判決を得られる事案は簡易裁判所で結審、というケースが多いように感じます。

>現在の世界的な流れとして「教育刑」という思想がある。
これ↑は今回「死刑」に絞った話と捉えていいでしょうか。

違います。
全てにおいて、です。
それを死刑廃止論者は「死刑制度の是非」を議論する際に持ち出してきているだけです。

僕はあくまでも刑罰とは「報復刑」が基本になっているものであり、それを「人権擁護」の観点から「教育刑」とするなら、現在存在する、刑法も含めた全ての司法制度を根幹から洗いなおす必要があると考えています。
でも、現実として今の刑罰制度は「教育刑」が基本となっています。
そして、それは認めざるを得ない側面があることも事実です。

例えば貧困のためにパンを一切れ盗んだ人がいたとしましょう。盗まなければ餓死していたとしましょう。
日本人の情緒的な感性からは
「それだけ貧しかったのならば仕方ないな。でも法治国家だから、一定の刑罰は科す」
という理屈は納得ができるんではないでしょうか。
そういう人には刑事訴訟法において情状酌量の余地が認められます。執行猶予がつくでしょう。そこで「教育刑」論が出てくるわけです。
でも、刑法ではあくまでも「窃盗罪」です。

仮にその人が刑務所に入ったとして、画一的に「犯罪者」として扱っていいものかどうか。
職業訓練を受けさせて、定期的に安定収入を得られるよう「教育」して、二度と物を盗まない人間に「更生」させることは可能です。
だから、

そんな法学者が自分達の飯の種を稼ぐべくキリスト教的な隣人愛を都合よく持ち出し「死刑」をやめて「教育刑」にしろなどとはよく言えたもんです。

はちょっと違う。
「教育刑にしろ」ではなく、「人間の善性を信じよう」です。
そして!
それは死刑制度に直結するものではありません。
上にも書いたとおり、死刑廃止論者が「教育刑」を「更生の可能性がない計画的凶悪犯罪者にもその概念を当てはめるべき」と援用しているだけです。

んでもって、法学者の全てが死刑廃止論者ではありません。
教育刑は認めつつも、計画的凶悪犯に対しては死刑を適用すべきと唱える法学者も多く存在します。
だから、再犯、常習犯に対しては「教育刑は無意味」という。
刑訴法でも常習犯には情状酌量を認めない、などといったシステムが存在しています。

さてさて、女子高生コンクリ事件ですが、

被告人Aを懲役二〇年に、
同Cを懲役五年以上九年以下に、
同Dを懲役五年以上七年以下にそれぞれ処する。
被告人A、同C、同Dに対し、原審における未決勾留日数中三五〇日をそれぞれその刑に算入する。
被告人Bに関する本件各控訴を棄却する。

これは「軽すぎる」と言われてもしょうがない。
司法に権限を委任しこんな判決が出たのは、
私が親なら間違いなく
「リリースするからしっかり私刑しろ」
と言われていると解釈してしまう。

と、まぁ、もりーらしい解釈(^^;
確かに、僕も軽すぎると思います。
が、日本で科せられる懲役は、複合犯であっても(つまり、懲役15年クラスが2つあっても)懲役の上限は無期か15年。
その中で「懲役20年」という判決が出たのは画期的なことです。
おまけに少年法(だったと思う)で守られている未成年には「責任能力はない」とされているにも関わらず、大人と同じ刑罰を科す。
当時としては、これ以上ないほど厳しい刑罰でした。

だけど、一般的な感覚からみれば、この量刑は軽すぎる。

さて、そこでちょっと考えてみなければならないことがあると思います。
1.加害者の畜生どもは本当に更生するのか。
2.死刑にすればそれで済むのか。

1に関しては更生したとしても、レッテルは貼られる。
一生涯、人を殺した、しかも普通では想像もつかないような残虐な殺し方をした、ということを心に刻み付けて、人に後ろ指を指されながらこそこそと生きていくことになる。
これは、社会的に抹殺されることを意味します。
更生しなければ再犯の可能性がある。それを放置することを許容していいのか。

2については、僕としては(更生したと仮定して)、生涯を使って罪をあがなうべきであり、贖罪のためだけに一生を費やすべきではないのか、と思います。
死刑にしてしまえば、そいつの罪、被害者の人権、遺族の立場は、加害者が死んだ時点で「守られた」ということになります。

ちょっと話がそれますが、僕の兄は小学校1年の時に車にはねられて死んでしまいました。
民事裁判で慰謝料50万円。加害者は交通刑務所に入所。
それで解決。
遺族としてはとうてい納得できる話ではありません。
加害者の一族を根絶やしにしても飽き足りないほどの怒りを感じます。

では、どうすればいいのかというと、死刑にしてもらっては困る。
奴には一生「人を殺した」という罪悪感を持って、命を奪うというのはどういうことなのかを何年も、何十年もかけて考えてほしい。
「自分は人殺しだ」という意識を死ぬまで抱き続け、もだえ苦しみながら精神の地獄に落ちてほしい。
肉体的苦痛はやがて消えます。また、死ねばそれで終わります。
でも、精神的な十字架は一生涯消えません。
それを背負い続けて、苦しんで苦しんで苦しみぬいて生きていけ、と思っています。
僕の価値観からは、これこそがもりーが言うところの

「残虐刑」

だと思う。
だから、刑務所で「お前は人殺しだ、許されない罪を犯したんだ」ということを徹底的に教育してほしい。

従って、僕は積極的な死刑存続論者ではなく、
「制度が確立され、容認されている以上は尊重すべき」
という緩やかな存続論者なわけです。

あと、もりーが書いてた

もしくは「それを超える罪」には残虐刑を復活させるべきですね。
手と足と舌と一部の神経をもぎ取ってしまうとか

なんだけど、それをすると世界中からバッシングされる。
特に中国や韓国、北朝鮮という「特定アジア」は鬼の首を取ったように大喜びするでしょう。

「ほれ、やっぱり日帝は残虐だ」

などと。

そもそも、日本には手足をもぎ取る、などという残虐刑は存在したことがありません。
笞、杖、徒、流、死
の5つ。鞭打ち、杖打ち、強制労働、流刑、死刑。

一方、中国では、去勢や足切り、鼻切り、入墨のほか、手足と目、舌、耳をそいで胴体と首だけにして便器の壺に入れて糞尿を食わせる「人豚」とか、罪人の子どもを切り刻んで料理して罪人に食わせるとか、車裂きとか、およそ日本人では想像もつかないような刑罰を考案しては実践していました。

ついでに書いておくと、中国が主張する南京大虐殺で日本軍が行った「残虐行為」の中には、数百人の手を針金で縛って一列に並べ、万人坑と呼ばれる穴に放り込んで生きたまま埋める、などといったものがありますが、これは古代中国から伝わる処刑方法のひとつです。

その他、南京事件で行われた蛮行のあらゆるものが中国起源の処刑法であり、僕としては、
「南京大虐殺があったとすれば、中国人が中国人を殺したのではないのか」
と思っているわけであります。
なんせ、あの国ではいまだにカニバリズム(人肉食)が行われているといいますからな。

…話がそれましたが、要するに、「残虐刑を復活させる」というのはちょっと違う。
過去に残虐刑などなかったのだから、「復活」ではなく、「創設」という言葉でなければならない。
だけど、そんなことをすれば日本人のメンタリティーは中国人や朝鮮人と同じような低レベルになってしまう。

ここはひとつ、死刑存続でとどめてくれまいか。

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