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2006年3月12日 (日)

死刑。その5

書きなぐソ陪審死刑制度⑤」から

>刑法を土俵に論じることができるのはここまで。
>ここに感情を差し挟んではいけない。ここまでは理詰めでいかなければならない。
>でも、その後に続く刑訴法には感情的側面を取り入れなければならない。
>このあたりをもりーは混同しているように感じる。

これがまず根本的におかしいと感じる。
刑法と刑訴法のダブルスタンダードと解釈してよろしいのでしょうか?

ちやいます。

刑法…「人を殺しちゃダメ」
→違反すると…死刑とか懲役とかの刑罰が待ってるぞ。

これが刑法です。
刑法には
「これこれ、こういったことをしてはいけない。その約束事を破ったらAかBかCのお仕置きをする」
という基本ルールが定められております。

んじゃ、破った場合に誰がどこでどのように、刑法で定められたA、B、Cというお仕置きの種類の中からひとつをピックアップするのか、というと、裁判官が裁判所で裁判をもって決めるわけです。
そのお仕置きを選ぶ際のルールを定めたのが刑事訴訟法。

前にも出した例えですが、ここに非常に貧しい人がいます。
何かを食わなければ、明日にでも餓死するかもしれません。
その遠因は、過去に隣の家の火災が延焼して自分の全財産を失ってしまったからだとしましょう。

その人がパンを盗みました。
さて、この人はどうなるでしょう。

感情的にみれば、誰もが「可哀想」と感じるのではないでしょうか。
じゃ、可哀想だから窃盗の現行犯で逮捕するのはやめておこう。

一方で、パン屋さんのパンを盗んで、自分の店先に並べて売ってる人がいたとしましょう。
仕入れ値はゼロ円。売り上げは全部自分の懐に入れていたとしましょう。
その人がある日、いつものようにパンを盗みました。
さて、この人はどうなるでしょう。

感情的にみれば、「悪人」ですよね。
じゃ、悪人だから窃盗の現行犯で逮捕しよう。

刑法に感情を差し挟めば、このようなケースが起こり得ます。
でも実際はどうかというと、2人とも窃盗で逮捕されます。
これは「構成要件該当性を満たしているから」、つまり、物を盗んだから。

でも、だからといって犯行に及んだ動機に関してはまったく別のものです。
それを警察で聴取して、検察に送致するか否かを決めます。

そこから裁判の手続きに入っていきます。
刑訴法の範疇ですね。
起訴すべきか否か、検察が聴取して判断します。
その時に初めて「感情」というものが考慮されるわけです。

「こんな可哀想な人に罰金刑を科すのは可哀想」
と検察側が感じれば、論告求刑で懲役1年なんてものが出てくるでしょう。
「このやろう、人のふんどしで相撲取りやがって悪質」
と判断すれば、懲役3年などの厳罰を求刑するかもしれません。

さて、そこで裁判官は考えます。
「窃盗に対する刑罰には数種類ある。さて、どれを適用すべきか」
そこで裁判官が
「これって…ちょっと可哀想じゃねーの?」
と感じれば、無罪にはならなくても情状酌量の余地あり、として「執行猶予1年、懲役6月」などといった判決が出る。
これは「1年間、犯罪行為を行わなければ、その後に続く懲役刑には服さなくていい」です。

一方で裁判官が
「ダメじゃん。それ」
と感じれば、情状酌量なし。懲役2年などといった判決が出る。
ここで被告が控訴を断念すれば刑が確定し、被告は即、服役囚となります。

もりーはこれら一連の流れを「ダブルスタンダード」のように感じてるみたいだが、それは違う。
刑法においては
「物を盗めば逮捕される」
単にそれだけのこと。
基準は1つしかない。その基準とは
「刑法に違反したかどうか」

だけ。

違反していなければ逮捕されない。
違反すれば逮捕される。
=画一的

ここまでは理解してもらえたでしょーか。

次。
ここからが刑訴法。
つまり、裁判のルールが適用される。
そこで、犯罪成立の諸要件を満たしていれば、犯罪が確定する。
そこで刑法に戻る。

刑法に違反した

逮捕(ここまで刑法)

裁判(ここから刑訴法)

犯罪成立

罪状確定

刑法に定められた罰則適用

という流れ。

サッカーで例えてみましょう。
試合は社会生活に相当します。
そこには一定のルール(刑法)があります。
それを破れば反則を取られます。
反則の内容によって、イエローカード(執行猶予)かレッドカード(懲役)かを審判(裁判官)が判断します。
その審判の判断によって、反則(逮捕)をとられた選手が退場するかどうかが分かれます。

刑法(ルール)がある以上、それを破れば逮捕されるわけです。
それがどのような状況であろうとも、です。
でも、なぜ反則したのか、どのような反則だったのかによって、ジャッジは変わるんです。
時にはレッドカード、時には注意のみ、またあるときにはイエローカード。

サッカーで、フェアジャッジが行われている時、それを
「ダブルスタンダードだ」
という人はいるでしょうか。
僕はいないと思いますが。

そもそも刑法と刑訴法は違うわけです。
刑法は社会生活において「やってはいけないこと」を定めたもの。
それに違反すれば裁判するよ、というもの。
つまり、「社会のルール」です。

刑訴法は、どのように裁判を進めるか、という、いわば「特別ルール」で、そのルールが適用されるのは刑法に違反した時なわけです。
つまり、「刑事裁判のルール」です。

さて、刑法にダブルスタンダードを取り入れるとどうなるでしょう。
「こいつはOKだけど、あいつはNG」
などということが起こってしまいます。

「もりーがパンを盗んだら窃盗の最高刑を、小兄がパンを盗んだら逮捕しない」

これならダブルスタンダードともいえましょうが、実際は違います。
これは「不当差別」としか言いようがないですね。
だから、刑法の適用は画一的でなければならない。
要するに、2人とも逮捕しなければならない。

その後に、裁判のルール(刑訴法)に従って、量刑を決める。
そこには上にも書いたように、「動機」だとか「感情」というものが入り込んでくる。
でも、その刑訴法は、あくまでも「裁判のルール」だから、日常生活で刑訴法のお世話になることは皆無。

「入れるべき入れないべきを一緒にしちゃこまるんだぜ」
とはぐらかされたような気になったので書いてみました。

といわれても・・・です。
まったく違う性質の法律なわけですから、感情を入れるべき法律(というか、裁判)と、感情を入れてはいけない「刑法」は「ダブルスタンダード」なのではなく、手続き上の問題であり、刑法には刑法のスタンダードが存在する。刑訴法には刑訴法のスタンダードが存在する。

・・・そう書くと「やっぱダブルスタンダードぢゃねーか」といわれそうですが、適用される状況や、法がカバーする範囲・立脚点が違うし、刑法、刑訴法ともに一貫した理念がある以上、ダブルスタンダードとはいえないと考えております。

さて、「霧の中の鈴
「死刑について(2)」から。

従って、「えせ記者徒然」や「書きなぐソ陪審」で述べられていることは、
すべて「法律(刑法)の運用」に関することであり、
抽象的に、「将来の、想像を絶する罪悪」を仮定する、
ぼくの立場とは根本的に異なります。
さらに、「死刑制度の存廃」という論点とは外れています。

死刑制度の存廃に関して僕は一貫して「廃止するなら司法の洗い直し」を主張しているわけです。
また、法というのは「将来の、想像を絶する罪悪」によって創設されるものではなく、「過去の、想像を絶する罪悪」によって規定されていくものです。

僕は「現状として死刑制度がある以上、その根底には報復刑の理念があることは明白」と考えています。
でも、現在は「教育刑」が一般的な考え方とされています。
そこに「将来に起こり得るかもしれない犯罪に関して一定の規定を設けよう」となると、それは「教育刑論」に基づいた罰則規定になるので、それこそ、ひとつの法律に「ダブルスタンダード」が設けられることになるわけです。

「殺人放火」は確実に死刑です。
では、将来起こり得るかもしれない「○○罪」には何が適用されるのでしょうか。

また、霧鈴の「仮定」に基づけば、「将来の、想像を絶する罪悪」について、どの時点でその罪悪に相応する条文を挿入するのか、が課題になってきます。
「想像を絶する」ということは、つまり、「まさかこんな罪を犯す者はいないだろう」という前提ですね。
ということは、その「想像を絶する罪悪」というのは現段階で規定されていないわけです。
ならば、罪悪が行われた時点で法改正が行われることになる。
霧鈴はしきりと「罪刑法定主義」を持ち出していますが、罪刑法定主義とは、「事後法を認めない」というものです。
つまり、現段階で条文がなければ、それを超える凶悪犯罪が起きた時には、現行刑法の範囲で裁かなければならない。

要するに、「将来の、想像を絶する罪悪」に関しては、現段階で起きていない以上、現行刑法で裁かなければならない。
「想像を絶する将来の罪悪には死刑を適用しよう」
という論旨は罪刑法定主義、及び現在主流の「教育刑論」とは著しく反するものだと考えます。

さらに言うなれば、僕ともりーの論が「法運用に関すること」としていますが、法を運用する中で、「教育刑か報復刑か」という議論がなされているものである以上、死刑の存廃は「どのように法を運用するか」を論じないことには始まらないわけです。
「教育刑をもって運用するなら死刑廃止、報復刑をもって運用するなら死刑存続」です。

分かりやすく(?)表現すると、
「現行の法運用は教育刑論をもとにしている」
という派と
「いやいや、報復刑論をもとにしている」
という派があるわけです。
前者は当然、死刑廃止論に、後者は死刑存続論にたどり着く。
法をいかに運用するかを論じることなく、死刑存廃論は語れない、と思うのですがいかがなものか。

そしてまた「書きなぐソ陪審」に戻ります。「死刑制度⑤」から。

「死刑」は「責任の取り方」の一つとして被害者側が指定できる選択肢の一つであるべきだ、という1点です。

ですが、現在の法制度上、被害者が罪を指定する、という制度は認められていませんし、今後も認めるべきではないと思います。
仮にそれを認めてしまったら、裁判所なんて必要ない、という結論にたどり着く。
被害者にとってみれば、自分や家族の生命、財産を侵害されたわけだから、多くの被害者は極刑を求めるでしょう。
でも、その前に「社会的背景」を考慮しなければならないわけです。

前にも書きましたが、国家が行うことは全て「国民が委託している」という大前提で社会が成り立っているわけです。
その中で被害者が「極刑を望む」と主張することは認められていますが、それを判断するのは司法でなければならない。
納得できるか否かは別問題。
判決に不服であれば、その裁判官を罷免できる権利があるのに、裁判官の信任投票はさほど話題にならない。

「被害者」と一律に括っていますが、狭量な被害者もいれば、寛容な被害者もいます。
100円のパンを盗まれたから、といってその背景も考えずに「最高刑を」と主張する人もいれば、「仕方ないから許してやるよ」という被害者もいます。

そのため、量刑を被害者に委ねると、
「あの人は優しいから、これからはあの人の店で盗もう」
などとなってしまいます。だから、量刑は第三者に決めてもらうしかない。
その量刑を世論が「間違っている」と感じたら信任投票でダメ出しできるにも関わらず、その権限を行使しない有権者。

ということで、2人の主張をそのまま受け入れてしまえば、「日本国崩壊」「無政府状態」に陥ってしまうわけです。

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さらなる意見を述べます。このエントリーは、「えせ記者徒然」の、「死刑。その1~そ [続きを読む]

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» 死刑制度⑨ [書きなぐソ陪審]
そんなわけで えせ記者徒然の 死刑。その6 へ。 と、その前に 死刑。その5 の >>「死刑」 は 「責任の取り方」 の一つとして被害者側が指定できる選択肢の一つであるべきだ、という1点です。 >ですが、現在の法制度上、被害者が罪を指定する、という制度は認....... [続きを読む]

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