« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

2006年4月30日 (日)

隣は何をする人ぞ―民主主義論6

前回の「日本には共産主義がふさわしい」の続きです。

以前にも一連の「民主主義論」の中で触れていると思いますが、僕はイデオロギーには必ず背景に宗教があると思っています。

「日本は無宗教国家だ」などと言われますが、僕の考え方としては「違う」と思っています。その点の考察については拙いながらも「日本は無宗教国家か」を参照していただくとして、端的に表現すると、
「日本独自の宗教観があまりにも深く根ざしているから、自覚症状がないだけだ」
というものです。

イザヤ・ベンダサン(故・山本七平氏)による「日本人とユダヤ人」では、僕とはアプローチの違いはあれど(当然、山本氏の方が僕なんかよりはるかに深い洞察をされております)、やはり日本には日本独自の宗教観がある、として、それを「ニッポン教」と名付けています。

僕も山本氏に敬意を払い、今後は「ニッポン教」と呼ばせていただきます。
ただし、借りるのは名称だけで、あくまでもアプローチの仕方は違います(と、自分では思っています)

さて、「ニッポン教」とはいかなるものか。

世界には様々な宗教があります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、道教、儒教…
それらの「宗教名」についてですが、ここはひとつ、人に置き換えて考えてみましょう。

世界に人類がたった1人しか存在しない状態を想像してみてください。
果たして「名前」は必要でしょうか。
「オレ」「ボク」「ワタシ」などといった一人称すら必要ないと思います。
でも、2人以上になると、他者と区別するための「名前」が必要となってくるわけです。

宗教でも同じことではないでしょうか。
ある民族がいる。
その民族は共通した宗教観を持っている。
そこに「我々の宗教は○○教だ」などと名前をつける必要などないはずです。

宗教の原始形態は、アニミズムですよね。いわゆる自然崇拝。
それはどの地域でも同じです。
崇拝の対象に名前をつけることはあっても、崇拝形態(いわゆる宗教)に名前をつける必要はなかった。

でも、そこに「唯一絶対神」を掲げる宗教が誕生した。
古い土俗宗教と、新興宗教とを区別する必要が生じた。
そこで、新しい宗教を「ユダヤ教」と呼ぶようになった。

ある時期に、ユダヤ教を発展させた「ユダヤ教の新派」が誕生しました。
その新派は、当初はあくまでも「ユダヤ教の一派」だったんですが、あらゆる経緯からユダヤ教からの独立を果たします。
それまでは「ユダヤ教キリスト派」でよかったんですが、ユダヤ教から独立したために、ユダヤ教と区別するため、「キリスト教」と名付けられることになりました。

要するに「名前」とは、あくまでも他者と区別するためのモノであって、区別する必要がなければ名前など付ける必要はない、と思いませんか?

日本という国はまさにそうだと思うんです。
「仏教」とか「神道」なんかがありますが、それ以上に深層心理に根付いている思想がある。
それは日本人すべてに共通する概念で、おまけに島国だったから、
「オレは○○教徒だが、あの人は△△教徒だ」
などと区別する必要がなかった。
だから「ニッポン教」には名前がつかなかった。

つまり、日本は「無宗教国家」ではなく、「名無し宗教国家」ということができると思います。
「宗教観」はあるんだけど、その「宗教」に名前がついていないし、つける必要もなかった、という意味。
でも、ややこしいので山本氏の言葉を借りて「ニッポン教」と呼ぶことにしよう、と。

さて、「ニッポン教」の”教義”をズバリ一言で表すと、
「隣の人と同じことをする」
というものではないかと思います。

アメリカには行ったことがないんですが、仄聞するところによると、
「いかに人と違うことをするか」
という点が大切だそうです。
「あいつはこんなことを考えているが、オレは違うことを考えている」
ということが言える環境があり、また、そうすることが大切なんだそうです。

言い換えれば「個性」こそが至上であって、「人と同じ」ではダメなんだ、ということですね。
だからこそ新形態のベンチャー企業が次々と登場する。

一方の日本では、とりあえず人と同じことをしていればいい。
「中学を卒業して、高校に入って、経済的に余裕があれば大学に入って、一般企業に就職する」
そのレールから外れた人間は「偉大」になるか「落伍者」の烙印を押されるかのどちらかでしかない。

過日、堀江氏が保釈されました。
「人と違うことをする」「既成概念をぶち破る」
最終的には…というか、現時点では「金儲け主義」と言われていますが、堀江氏の思想の根底にあるものは、
「人と違うことをする」
だったのではないかと思うんです。
だから、世論から袋叩きにされた。
僕は堀江氏は好きなタイプですが、逮捕以降、
「あいつキライ」
と拒絶反応を起こしている人も多いようです。

それもこれも、やはり
「堀江氏は人と同じことをしなかった」
ということが理由なのではないか、と思っています。

「人と同じことをする」
この端的な例が「隣百姓」だと思うんです。
「お隣さんが田植えを始めたから、うちも始める」
最初に田植えを始めたのが誰かは分からないけど、とりあえず、
「理由は分からなくても、人と同じことをしていれば、結果的には上手くいく」
ですね。

外食店に入って、
「オレ、カツどん」
「オレも、オレも」
「じゃ、オレも」
「それならオレも」
という場面には少なからず遭遇したことがあると思います。
これを「主体性がない」という人もいますが、僕は
「人と同じことをする」
という判断が働いている段階で十分に主体性があると思います。

もしも失敗すれば、全員が失敗する。
成功すれば、全員が成功する。
誰か一人だけ得をすることはない。
そうすることで、ねたみそねみ、嫉妬などのネガティブな感情は起こらない。

聖徳太子が唱えた
「和を以って貴しとなせ」
とは、一義的には

「話し合って物事を決めましょう」

ということで、その後に続く文章も
「話し合って合意したことはすべて上手くいく」
という内容なんですが、これも言い換えれば、
「話し合って、人と価値観を共有して同じことをすれば、全員が同じ結果を得ることになるから、ネガティブな感情は起こらない」
イコール、戦争などで国土を荒廃させることもなければ、政治闘争で血みどろの争いをすることもなくなる、ということなのではないのかな?

いいこと、悪いこと、全部ひっくるめて
「だって、あいつだってやってたじゃん」
に落ち着くわけですから。

居酒屋にて、
「とりあえずナマ」

これは、
「みんなが生ビールを飲むから、俺もそうしよう」
「俺も生を飲むから、みんなもそうするだろう」
などといった理由なんではないでしょうか。

上記の具体例は、書きながら思いついたことを挙げただけなので、他にも
「他の人と同じことをする」
という場面は、意識して観察すると、日常生活でとんでもなく多くあると思います。

かく言う僕自身も、いままでサイトをやっておきながら、ブログを始めたのは、
「とりあえず、みんながやってるから」
に他なりません。
そもそもパソコンだって、
「みんなが持ってるから」
買っただけの話。

メーデーの季節です。今回のテーマは「格差」だそうです。
資本主義社会において、「格差」なんて生じて当たり前。
なのに、「格差」がクローズアップされる。
なぜでしょう?
書きなぐソ陪審の「保護産業」にもありますが、

不況下の元では、労働者は必然的に労働環境の悪化を迫られることもしばしば起こります。
労働組合が「もっと保障を」と叫んだところで、企業業績が上がらなければ現実的に無理だからですね。

です。僕もまったく同意見です。それが資本主義の姿ではないでしょうか。
でも、今回のメーデーでは、

「パート従業員も正社員とほぼ同じ仕事をしているのに、給与格差が激しい」

などといった発言が見受けられました。
ここで注目すべきは、給料が高いだの低いだのではなく、
「ほぼ同じ仕事をしているのに」
の部分だと思います。
「同じことをしているのに結果が違う」
これは、日本人の宗教観から考えれば、
「理解できない現象」
でしょう。

「同じことをしていれば、同じ結果が得られるはずなのに、そうなっていない」

能力主義も資本主義も関係ありませんね。
「同じことをしているのに」
だけが問題なんです。
「同じことをしているのに、結果が違う」ということがニッポン教では「許されないこと」になる。

でもね、日本国内ではそれでいいと思うんです。
「隣の人と同じことをする」
という生き方で。
でも、国際世界で同じことをやっちゃったら、必ずひずみが生じる。
「欧米がやってるから日本もやろう」
という考え方で資本主義社会が導入されたけど、あちらの富裕層の持ってる金って半端じゃない一方、貧困層はすさまじい貧困にあえいでいる。
それが資本主義です。

「格差がイヤ」「隣と同じじゃなきゃイヤ」という日本人の精神性を考えると、資本主義社会は日本人には向いていないとしか言いようがないと思うんですが、どうでしょうか。

やはり共産主義がふさわしいのでは…
 

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年4月23日 (日)

宗教のゲーム化2

さて、以前に「宗教のゲーム化」なる記事を書きました。

「書きなぐソ陪審」の反応(てんやもの

新・えせ記者徒然 の 宗教のゲーム化 は、かなりセンシティブな問題を内包しつつ(どのメーカーも作らないことを見ても明らか)も、世界に向けて「問題提起」の意味で非常に良いものではないかなと賛同します。

なぜにセンシティブかというと、「霧の中の鈴」の反応(ゾロアスター教と『イラン的イスラーム』

それを受けて、このエントリーで宗教の話を書きました。
黄色い四角で囲まれた部分は、ストレートで少しショッキングですが、
おそらく現実にあったであろうことであり、考えさせられます。

宗教のゲーム化について、積極的に賛成しているわけでもありませんが、
少しでも宗教の話題に触れることで、
世界情勢を深く理解することに努めようと思います。

その「黄色い四角で囲まれた部分」とは以下の通り(再掲)。

1つ目。

プレイヤーは最初にユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒(ムスリム)、仏教徒など各宗教の中からどれかを選び、ある程度史実に沿って、例えばユダヤ教徒を選んだ場合は、キリストを処刑するイベントなども盛り込みながら、信者数を拡大していく。
宗教国家を造り、敵対宗派と戦争し、勝てば相手国に改宗を強制できる。
改宗した人たちは、その滅ぼされた地域の統治者になれるが、改宗しなかった人は奴隷として扱うことが可能で、それらの筋書きの中で、ボスニア紛争とか、コソボ紛争などといった宗教紛争が多発していく。
果たしてキリスト教は世界を席巻できるのか、はたまたイスラムが覇権を握るのか、もしくは宗教戦争とはほとんど縁がない仏教が世界宗教となるのか…

2つ目。

イスラムを選んだプレイヤーは、十字軍による侵攻で親や子どもを殺され、妻がレイプされるのを目の当たりにする。憎しみが憎しみを生み、キリスト教との徹底抗戦を選ぶ。
んで、テロ組織を結成し、各地でテロ活動を行う。
ある分岐点で
「自爆テロを行いますか」
との選択肢が提示されて、標的を選んで、テロを慣行する。
その時の信者数によって、成否が分かれ、成功すれば、「9・11イベント」が発生し、相手国が戦争を仕掛けてくる。その時に戦士として参加するか、テロ組織のメンバーとして、各地でテロ活動を活発化させるかを選ぶ。
エンディングは「天国」か「地獄」、という感じ。

霧鈴が「おそらく現実にあったであろうことであり…」「ショッキング」としている部分が具体的にどの部分を指しているのか不明なんですが、おそらく、

宗教国家を造り、敵対宗派と戦争し、勝てば相手国に改宗を強制できる。
改宗した人たちは、その滅ぼされた地域の統治者になれるが、改宗しなかった人は奴隷として扱うことが可能で、それらの筋書きの中で、ボスニア紛争とか、コソボ紛争などといった宗教紛争が多発していく。

イスラムを選んだプレイヤーは、十字軍による侵攻で親や子どもを殺され、妻がレイプされるのを目の当たりにする。憎しみが憎しみを生み、キリスト教との徹底抗戦を選ぶ。

の部分ではないかと。

これは「おそらく」ではなく、歴史上の出来事です。
軽く解説しておきます。あくまでも「軽く」ね。
間違ってる部分もあるかもしれないけど、大枠で。

まずボスニア
もともとはキリスト教圏でした。住人はスラブ系民族。
オスマントルコの侵攻により、ボスニアはオスマン帝国下に組み入れられました。
が、オスマン帝国が苛斂誅求を極める圧政を行いました。
支配者はムスリム(イスラム教徒)、被支配者はクリスチャン。奴隷状態。
そこで、一部クリスチャンはイスラムに改宗し、オスマン帝国に取り入る方法を考えました。
その方法は上手くいき、
「イスラムに改宗すれば支配者として振る舞える」
という図式が出来上がりました。改宗したスラブ人は、かつての同胞を情け容赦なく搾取しました。

その後、オスマン衰亡。ボスニアから撤退した帝国の庇護を受けられなくなった現地のイスラムは、本当はスラブ人なんだけど、過去の経緯から
「俺たちは『モスレム』という民族だ」
と主張し、クリスチャンたちと紛争を繰り返しました。

コソボ
ボスニアとほぼ同じ経緯をたどりました。
が、あまりの圧政にコソボ人はコソボから集団で逃げ出しました。
主なき地にオスマン帝国はアルメニア人を大量に入植させました。ムスリムです。
クロアチア人も入植させ、奴隷化しました。
オスマン撤退後、コソボ人が「もともとは俺たちの土地だ」と帰還。
コソボは、アルメニア人、クロアチア人、コソボ人(スラブ人)が血で血を洗う紛争を始めました。

第二次大戦下、ナチスの侵攻に対し、チトーがパルチザンを敢行。
複雑な民族状況に置かれた地域を、チトーのカリスマ性で統一し、ユーゴスラビア連邦が成立。
民族紛争が終結し、共存の時代が始まりました。

が、その数十年後、小役人・ミロシェビッチが登場。スラブ人に
「もう二度と君たちの頭を殴らせない」
とくだらん演説をしたことで、ユーゴは再び救いようのない内戦状態に。
過去の怨恨から、殺す、犯すは当たり前。
昨日までは隣人として仲良くやっていた人たちが、いきなり殺し合いを始めました。

次に十字軍。
エルサレム奪還が目的とされています。もちろん、それもあるんですが、真の目的は
「ムスリムの皆殺し」
パレスチナの地は、道に膝の高さまで血の川が流れるほど凄惨な殺戮が行われたといわれています。

西洋人が行うどのような「侵略」も同じなんですが、まず男を全て殺す。
そして女を犯す。
それによって、民族の純粋な血統を絶やす。
それが常套手段です。スペインのピサロがやったのもこれですね。

ついでに、以下の説については僕は多少、疑問を抱いているんですが、一応、参考までに書いておきます。
十字軍やらルネッサンスが起こった原因について。

ヨーロッパでは「暗黒の中世」と言われます。
「暗黒」の意味ですが、「魔女狩りが行われた悲惨な時代」というとらえ方もできますし、「記録が残っていない」というとらえ方もできます。
僕の知識、調べ方が足りないんでしょうが、僕は「暗黒の中世」=「記録が残っていない時代」と把握しています。

その原因には「魔女狩り」などもあります。
薬草を摘んで、民間医療を施すような知識、経験を持った老人を「魔女」(魔女、といいますが、男も含まれています)と称して異端審問にかけ、殺し尽くした。
ついでに、教会が認めた文献以外は全て焼き払ってしまった。

「死海文書」とかいまだに騒がれていますよね。
あれは当時、焚書を免れた貴重な文献です。
キリスト教にも多数の派があり、ある特定の派(名前は忘れた)が実権を握った。その派が認めたもの以外は全て「異端」として処分した。都合のいいものだけを採用し、時には捏造まで行ったといわれています。
つまり、今の新約聖書は、本当はもっと様々な内容が含まれるべきだったのに、教会側の都合で今のような形になり、歴史の真実は闇に葬り去られた。

文化が極端に後退したわけです。数学も哲学も医学も、全てが葬られた。
当然、国家も弱体化する。
そこにオスマン帝国が拡張し、ヨーロッパを支配下に置いた。
キリスト教徒にとっては屈辱的極まりない出来事です。

でも、ヨーロッパで花開いたイスラム文化はオスマン帝国の衰退とともに、キリスト教徒によって徹底的に破壊されました。
キリスト教側にはイスラム側に対する、拭いがたいルサンチマン(怨恨)があるわけです。
だから、徹底的に、何もかもを破壊した。

ルネッサンスを「復古運動」と呼びますが、あれは「昔の文化、芸術を見直そう」ではなく、
「イスラム色を徹底的に排除したら、残ったものは昔の文化、芸術しかなかった」
というものだそうです。

十字軍もそのルサンチマンから運動が起こります。
「やられたからやり返す。イスラムをこの世から抹殺する」
だから、とてつもなく凄惨な殺戮が行われた。

…と。まぁ、どこまで本当なのか、時間があるときに調べてみますが、十字軍に関しては
「聖地奪還など、どうでもよかった」
というのは本当らしいです。

でもって、十字軍の時のルサンチマンが残ってるから、イスラム側はキリスト教を「至高」と掲げる集団を毛嫌いし、警戒する。
「国際赤十字」は世界中で認知されている感がありますが、イスラム圏では「赤十字」は十字軍を連想させるので、絶対に使わないそうです。

「どこが軽い解説だ!」
などと言われてしまいそうですが…

いずれにせよ、そういった宗教絡みの不幸な経緯なども踏まえつつ、
「歴史と現状を理解し、解決策を模索するには」
というスタンスでゲームを作れないかな、と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本には共産主義がふさわしい―民主主義論5

僕は「イデオロギー」なるものの背景には必ず「宗教」が絡んでいると思っています。

4月22日(だったかな?)、訪米中の胡錦濤・中国主席がアメリカ某所での演説で、中国の民主化について
「中国には中国のやり方がある。アメリカ的な民主主義万能論は中国には当てはまらない」
といった旨の発言をしたとの報道がありました。
発言の正確な内容は覚えていませんが、そんな内容だったと記憶しています。

さて、僕は今までこのブログ「新・えせ記者徒然」で日本の社会システムについて、宗教を絡めた僕なりの考察を書いてきました。

1…「社会システム
2…「平等とは
3…「日本は無宗教国家か
4…「日本の常識は世界の非常識なのか

まだまだ書き足りない…というか、上掲4本の記事の続きを書いてから結論を書こうと思っていたのですが、急遽予定を変更して、一足飛びに結論を書きたいと思います。
というのも、「書きなぐソ陪審」の「てんやもの」に、僕が「結論」として準備していたものの一部があったからです。

筆者Mollyは堀江氏逮捕に関して
「天安門事件を思い出した」
といったことを書いております。

堀江貴文氏個人への好き嫌い感情は別として、
私はこの一連の捜査逮捕は「自由主義への弾圧」であると感じ、天安門事件に重なったのです。
先程「正義」について考察しましたが、日本の民主主義はやはり日本独自のムラ共同体的な社会主義・共産主義の上に成り立っており、日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

そして続けます。

「社会主義・共産主義」という言葉にアレルギーを起こす日本人が多いのは、ソ連や中国・東欧・北朝鮮といったマイナスイメージが強いからであって、元来の思想自体は決して悪いものではありません。

そこまで読んで、「これがオレの導き出したかった結論だ」と感じました。
いわば、「先に書かれてしまった」わけで、だから、とりあえず僕の「結論」を先に出して、検証は後回しにしよう、と。

その僕の結論ですが、
「日本に自由主義、民主主義はない。日本の実態は共産主義国家だ」
というものです。

「民主主義とは」
という部分については過去にもそれとなく触れてますし、今後もちらちらと触れていきたいと思いますが、いずれにせよ、日本の実態は共産主義国家、それも極めて理想的な共産主義国家だ、と思う次第です。
(自由主義については、書きかけの記事がありますので、完成次第掲載します)

まず、「共産主義」なるものを世界で最初に文献に記した人は誰か知っていますか。

言わずと知れたマルクスです。

…と言いたいところですが、実は違います。

歴史に名を残す”超変態”、SMというアブノーマルな性交を世に知らしめたマルキ・ド・サド侯爵です。
代表作は「悪徳の栄え〈上〉 」「悪徳の栄え〈下〉 」ですが、彼は「危険思想家」として、フランスのバスティーユ監獄に終生監禁されました。その中で数々の書を記しています。
サドの経歴はここでは関係ないので割愛しますが、彼が書いた書物の中に超大作「ジュスティーヌの冒険」なるものがあります。
確か、全文訳は日本では出版されていないと思うんですが、その中の一部を渋澤龍彦氏が「食人国旅行記 」として刊行しています。

主人公は「食人国」のタイトル通り、様々な「非文化的な土地」を訪れるのですが、その旅の中で「ユートピア」にも立ち寄ります。
人々は礼儀正しく、勤労を美徳とし、生産した食物などはいったん一ヵ所に集め、それを均等に分配する。
訪れた異邦人を手厚くもてなし、旅人が出発する際に、旅を続けるのに十分な食料を、皆がそれぞれ持ち寄って、旅の無事を祈りながらその食料などを手渡す。
主人公は「これこそ理想郷だ」と深く感動する。

…というシーンが描かれています。
その「理想郷」ですが、これはサド侯爵の想像の産物ではありません。
一部に脚色があるものの、モデルは明確に日本だと分かるような書き方をしています。

冒頭に戻ります。
中国主席の発言、「中国には中国のやり方がある」ですが、その通りなんですよね。
「民主主義」というのは「平等」という概念がなければ生まれてきません。
「平等」という概念は「唯一絶対なる神」が存在しなければ出てこない概念です。

でも、中国には「唯一絶対神」は存在しない。
だから、「アメリカ的民主主義」は絶対に根付かない。
それを胡錦濤は理解していた。
中国が民主化に進んだとしても、それはアメリカとはまったく違う形の民主主義になると思います。

日本だって同じです。
日本には日本流のイデオロギーがあってしかるべきはずなんです。
が、今ではどうでしょう。
日本にあるのは「アメリカ的民主主義」でしかない。

書きなぐソ陪審にもある、

「社会主義・共産主義」という言葉にアレルギーを起こす日本人が多いのは、ソ連や中国・東欧・北朝鮮といったマイナスイメージが強いからであって、元来の思想自体は決して悪いものではありません。

ですが、日本人が社会主義、共産主義という「言葉」を毛嫌いするのは、アメリカの誇大宣伝によるものでしょう。
かつてハリウッドでは「米国v.sソ連」という映画が量産されていました。
ソ連崩壊後は「米国v.s中国」という映画が連発されました。
このような「娯楽」映画を、深い考え方を持たずに見てしまうと、
「ソ連や中国は極悪非道な国だ」
というイメージが日本人に定着するのは当たり前です。
(映画を見るまでもなく、僕は中国は大嫌いですけど…)
さらに言えば「アメリカって素晴らしい」に行き着く。
一種の「洗脳」ですね。
アメリカが国策として映画産業を後押ししているのは、この「洗脳」の効果を期待しているのではないかと個人的には思っています。

だけど…

広島に原爆を落とした国、ベトナムに侵攻した国、明確な根拠もなくイラク、アフガンを「侵略」した国、世界で唯一、国際司法裁判所から「テロ国家」として有罪判決を受けた国、自国は地球を何度も滅ぼせるだけの核兵器を持っていながら、イランの核開発に異議を唱える国…

そんな国が果たして「素晴らしい国」なんでしょうか。
アメリカは「世界の警察」を自称していますが、国連安保理の決定など、どこ吹く風で他国に平然と戦争を仕掛ける。
僕に言わせれば「世界の警察」どころか、「世界の独裁者」です。

その「独裁国家」が他国に押し付けるイデオロギーが世界に通用するはずがありません。
つまり、日本における「民主主義」「自由主義」なんてものは、表面的なものにすぎず、根底に流れる日本独自の思想とは相容れないものです。

さて、

私はこの一連の捜査逮捕は「自由主義への弾圧」であると感じ、天安門事件に重なったのです。
(中略)日本の民主主義はやはり日本独自のムラ共同体的な社会主義・共産主義の上に成り立っており、日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

ですが、上記の通り、日本には民主主義はない。アメリカ産の自由主義もない。

従って、

日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

というのは、この一文だけをピックアップすれば、
「自由主義も民主主義もないのに、堀江氏はそれが存在するかのような錯覚を起こしてしまった」
と書き換えることも可能…というか、そう書き換えた方が妥当だと思うわけです。

それはなぜかというと、
日本は共産主義国家だからだ
という点に行き着くのではないでしょうか。

…なんだかまとまりのない文章ですみません。後日、あらためて筆を起こします。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

日本の常識は世界の非常識なのか―民主主義論4

様々な「余談」ばかりを挟んだばかりにかなり間が空いてしまいましたが、

1…「社会システム
2…「平等とは
3…「日本は無宗教国家か

の続きです。ずいぶん前に書いたものですので、現在の「書きなぐソ陪審」「霧の中の鈴」で進められている論調とは乖離してる感がありますが、せっかくなので掲載しておきます。

前回の「日本は無宗教国家か」で、僕は「違う」という結論を出しました。
それが正しいのかどうか、正直なところ分かりません。
他国で生活した経験がないので、人づてに聞いた話とか、海外旅行の際に見聞きした出来事をもとにそのような結論を導き出したわけです。

僕の海外旅行経験は、滞在期間が長い順に並べると、イギリスに1ヵ月、インドに2週間、チベットに10日間、イランに1週間、タイ(バンコク)に5日、トルコ(イスタンブール)に2日、ネパール(カトマンズ)に2日と、非常に限られています。
その限定された期間内で感じたこと。

チベット、タイは仏教国(地域)ですが、日本とはまったく雰囲気が違います。
なんというか、信仰というものに非常に敬虔なんだなぁ、という印象を受けました。

キリスト教圏のイギリスでも、教会のイヴニング・サービスなどは毎日のように行われており、時間を持て余したら教会に足を運んで、荘厳なキリスト教の世界を味わっていました。

イスラム圏のイラン、トルコでは定時になると街中にコーランの読誦が響き渡る。

インドに至っては、ヒンドゥー教に基づいていると思われるしきたりが非常に多い。
「左手は不浄」とか「牛は神様」とか。

「宗教は一種の生活規範」と考えている僕にとっては、「○○教の国ではこのようなしきたりがある」と、カルチャー・ショックを受けながらも「○○教の教えに基づけば、そうなるよな」と納得できるものが非常に多かった。

日本はどうなんでしょ。
「家に入る時には靴を脱ぐ」
これって、神道(と言っていいのかどうかは分かりませんが…)に基づくものだと思うんです。
あくまでも推測の域を出ないんですが、
「外界の穢れにまみれた靴を清浄な家屋に持ち込んではならない」
ではないかと。

さて、外国人が日本に来た時、ほとんどの日本人は
「人の家に入るときは靴を脱げ」
と言うと思います。自分の家に外国人が訪問した時に
「土足のままでいいよ」
という日本人家庭は極めて少ないんじゃないでしょうか。
もしかしたらゼロなんじゃないかと思ったりもします。

でも、それを「神道のしきたりだから」と言う人はいませんよね。
「日本はそういう国なんだよ。理屈じゃねーんだ」
ではないかと思うんです。

その「理屈じゃねーんだ」の部分が、要するに「宗教」そのものではないか、と。
例えば日本で「左手は不浄だから食事の際に使ってはならない」と言ったとしても、
「なんで?」
という言葉が返ってくると思います。
ヒンドゥー教では、それは「理屈じゃねーんだよ」になると思うんですが、日本人には理由が分からない。だから受け入れないのではないでしょうか。
食前に神様に祈りを捧げなさい、と言われても
「なんで?」
ですよね。
「いただきます、だけでいーんじゃねーの?」
だけど、キリスト教圏では「理屈じゃねーんだよ。そうするもんなんだよ」なんでしょう。おそらく。

日本人には感覚的に理解できない外国の「理屈じゃねーんだよ」は他にもたくさんあると思います。
当然、外国人にしてみれば、日本の「理屈じゃねーんだよ」は受け入れられないでしょう。

「日本の常識は世界の非常識」

そんな言葉で「グローバリゼーション」なるものを唱え、
「欧米ではこのようなことが行われている。日本もそれに倣え」
と言われましても、僕としては
「なんで?」
と言わざるを得ません。

そもそも宗教観が違うんだから、
「あの国では常識でも、日本では非常識」
「日本では常識でも、他国では非常識」
という構図は存在して当たり前なんです。

そこで前に書いた
「日本では神は人そのものである」
ですが、「あいつも神、オレも神」という思想があるわけだから、その思想からは当然、
「アメリカ人も神、インド人も神」
という思想が出てくるはずです。

さて「書きなぐソ陪審」の「日本の土壌」に以下のような記述がありました。

安定した画一的な社会と人間関係を築くための社会システムを改良しながら構築していく特徴を有している国ではないでしょうか。

僕もまったくもって同感です。
上古は「先進国」中華帝国の文化やシステムを積極的に輸入しつつも、丸ごとコピーすることはなく、巧みに改良して「和風」にしてしまう。
よく例に出されるのは鉄砲ですね。
戦国時代に種子島に鉄砲が渡来すると、あっという間に日本人の手で量産してしまった。
輸出して儲けようと思っていたポルトガル、輸送で利ざやを稼ごうと思っていた中国人が
「マジすげー」
とか言ってたそうな。

でも僕が一番感心するのは文字です。
表意文字である「漢字」から「万葉仮名」なるものをあみ出し、さらに表音文字である「ひらがな」「かたかな」をつくり、日本語の文法にあった形に変えてしまった。
漢字の渡来から、一般的に漢字が用いられるようになるまでに700年かかったといわれています。
それまでは非常に慎重に漢字を使っていたそうです。
逆に言えば和風にするために700年もかけて漢字を改良していった、ということ。

余談ですが、世界の文字。
大雑把に分けて「表意文字」と「表音文字」があります。
表意文字の代表は漢字、表音文字の代表はアルファベットといわれますが、アルファベットも、もともとは表意文字です。
文字を持たないローマが高度な文明を持つギリシアを滅ぼした時に、文字の存在を知り、ローマ音に適した26文字だけを抜き取ってほぼそのまま利用したのがローマ字。
文字は表音文字に変質したけど、文字の形は変わっていない。
日本の歴史からいえば、漢字の発音を使って日本語の音を表していた万葉仮名と似たようなもんですが、
「独自の改良」
はなされなかった。
「夜露死苦」
みたいな使い方ですね。
いまの日本語の文章が全部漢字で書かれていたらどうでしょう。
加多仮名、比良仮名賀間座留己戸出予巳屋素句奈津手留。
現代人の感覚から言えば「読めねーよ、トホホ」じゃないかな。

余談終わり。

要は、日本は「輸入物」を日本流に変質させていく特徴がある。
それはとりもなおさず、宗教観がもたらすものではないか、と。
「手先が器用」
というのもありますが、その前に、
「あちらの国の人(=神)がつくったものなら、オレたち(=神)も同じように(つまり、公平に)使おうではないか」
という発想が生まれるのではないか。
でも、根幹を流れる思想がまったく異なるから、そのままそっくり使うことができない。日本人の宗教観にそぐわない。
だから、使いやすいように変えていこう。

それが「改良しながら構築させていく特徴」を生み出しているんではないでしょうか。

でも、いまの日本の民主主義はどうでしょう。
「戦争に負けた」
だから、アメリカ的社会システムを押し付けられても、自らの宗教観に照らし合わせて改良する、ということがなくなってしまった。

音楽でいうところの「カヴァー」ではなく「完全コピー」ですね。

でも根底が違うから、ゆがんだ形で定着してしまう。
そして社会にひずみが生じる。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2006年4月21日 (金)

宗教のゲーム化

あることを考えております。
いま、僕の手元には「VisualBasic」なるものがあります。ついでに、少し前の「Visual C++」もあります。
知ってる人は知ってるだろうけど、「プログラム開発環境」と呼ばれるものです。

知らない人向けに説明すると、世の中には「PCソフト(アプリケーション)」なるものが星の数ほど存在しますが、それらは「C」とか「Basic」などと呼ばれるコンピュータ言語で作られています。
聞くところによると、マイクロソフトの「ワード」「エクセル」もC言語で作られているそうです。

言語にもいろいろありまして、自分のサイトを持っている人なら、たいていは
「HTML(Hyper Text Markup Language)」

「JavaScript」
ぐらいは聞いたことがあると思います。
HTMLがプログラム言語だとは思わないんですが、一応、僕としてはPCで使われる「言語」として認識しています。
サイトの体裁を整えるだけの機能しかありませんが…
それに比べると、JavaScriptってのは、簡単なゲームなら作れる。
これを「インタープリタ言語」と呼びます。

市販のパソコンを買っただけの状態では、僕が知っている範囲では上の2つの言語しか使えません。
他にもあるんでしょうが、僕は知りません。

つまり、(C++を含む)C言語やらBasicといった「コンパイラ言語」を使ったソフトの作成は、市販のパソコンだけでは不可能です。
この「コンパイラ言語」で作れるプログラムは、無茶苦茶に要約すると、「インストールが必要なソフト」です。
Vectorやら窓の杜なんかで配布されてるゲームやらといったアプリケーションは、ほとんどがC言語かVisualBasicで作成されています。
VBなんかは「高級言語」(より人間の言葉に近い言語)で、使用者が他の言語に比べて圧倒的に多いらしい。

さて、前置きはともかくとして、僕の手元にはC言語の開発環境とVBの開発環境の両方があるわけです。
正直、どちらも「持ってるだけ」で使えません。
なぜ、そんなものが手元にあるのかもよく分かりません。

が、ふと考えました。
「せっかく環境があるんだから、何か面白いものを作れないもんだろうか?」

僕にはプログラミングに関する知識はほとんどないんですが、それはこれから勉強するとして、問題は
「何を作るか」
です。

そんな大規模なものを作る気はありません。
最初はちょろちょろと、勉強がてら簡単なゲームでも作ってみようかな、と思って、過日、解説書を何冊か買い込んできました。

「わけ分かんねー…」
というのが今の印象なんですが、VC++に比べれば、VBの方がとっつきやすそうな気がする。
でも、それでも敷居が高い。

そこで、ここはひとつ、「オープンソース」なるものを利用して、方々からのお力を借りながら
「宗教ゲーム」
なるものを作れないか、と思案しております。
どのような形態にするか(RPGにするか、シミュレーションにするか…など)も含めて、いろいろ考えてるんですが、とりあえずは「宗教をモチーフにしたゲームを作る」というコンセプトで。

どのような筋書きにするか、というアウトラインを固めたら、ソースコードの入力開始、という方針。
その際には方々のプログラマの方々のお力を借りながら…と、都合のいいことを考えております。

問題はストーリーなんですが、やはりシミュレーションがいいかな、と。

プレイヤーは最初にユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒(ムスリム)、仏教徒など各宗教の中からどれかを選び、ある程度史実に沿って、例えばユダヤ教徒を選んだ場合は、キリストを処刑するイベントなども盛り込みながら、信者数を拡大していく。

宗教国家を造り、敵対宗派と戦争し、勝てば相手国に改宗を強制できる。
改宗した人たちは、その滅ぼされた地域の統治者になれるが、改宗しなかった人は奴隷として扱うことが可能で、それらの筋書きの中で、ボスニア紛争とか、コソボ紛争などといった宗教紛争が多発していく。

果たしてキリスト教は世界を席巻できるのか、はたまたイスラムが覇権を握るのか、もしくは宗教戦争とはほとんど縁がない仏教が世界宗教となるのか…

なんか漠然としすぎていますが、今までの「文化度によって、強国化していく」とか、「武力を増強して他国を攻める」などといった、単純なゲームではなく、露骨に「宗教」を前面に押し出すゲームを作れないかな、と。

RPGでもいいですね。
マルチシナリオシステムで。

イスラムを選んだプレイヤーは、十字軍による侵攻で親や子どもを殺され、妻がレイプされるのを目の当たりにする。憎しみが憎しみを生み、キリスト教との徹底抗戦を選ぶ。
んで、テロ組織を結成し、各地でテロ活動を行う。
ある分岐点で
「自爆テロを行いますか」
との選択肢が提示されて、標的を選んで、テロを慣行する。
その時の信者数によって、成否が分かれ、成功すれば、「9・11イベント」が発生し、相手国が戦争を仕掛けてくる。その時に戦士として参加するか、テロ組織のメンバーとして、各地でテロ活動を活発化させるかを選ぶ。
エンディングは「天国」か「地獄」、という感じ。

もの凄く不謹慎なゲームですが、いかがでしょう。
ということで、「こんな要素を盛り込んではどうか」とか、「俺がソース打ってやるぜ」という人、いませんか?
いたらTB送るか、コメント欄にでも書き込んでください。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2006年4月15日 (土)

相対性と絶対性6

相対性と絶対性5」の続き。
サイトでは未掲載だったと思います。
「相対性と絶対性1~6」までの一連の記事中には、サイトへのリンクも張られています。
とりあえず、ここだけ読めばある程度は分かるかな、と思った範囲で抜粋しましたが、その前段に興味があればサイト「心象風景」のリンク集から「歴史と信仰」を探してみてください。
「心象風景」へのリンクはこのブログの右下の方にあります。

これでようやく、書きなぐソ陪審「おさかな天国」の補足終了です。
できれば「相対性と絶対性1」から順に読んでください。

相対性と絶対性1
相対性と絶対性2
相対性と絶対性3
相対性と絶対性4
相対性と絶対性5

No.26 ニッポン編15 神と人、人と人

◆基本的人権

何かを買う、という権利はすべての人に平等に与えられています。
逆に「お前は買っちゃダメ」という方が平等性を害する差別行為になります。
そして、人が買ったものを破壊するという行為はある意味では確かに「みんなが公平」にはなるけれど、決して「みんなが平等」になることではありません。小型除雪機を使う権利を奪う行為であり、これも平等を損なう行為です。

また、「自分勝手な行動」も、単に「あいつはみんなで決めたことに従わない自分勝手なことをしている」と感じるだけにすぎず、絶対的に、誰が見ても「自分勝手」という行動は、違法行為でない限りありえません。

「自分勝手な行動を許す」ことこそ真の平等なわけです。

思想・信条の自由は国家の最高法に定められており、個人の思想や信念に基づく行為なら、どのような行動を取ろうがその人の自由だからです。

加えて、「平等でなくなる」ことと「平穏な生活が奪われる」ことに因果関係はありません。「平穏な生活」とは、小型除雪機に関して言えば、「嫉妬心を抱かずに、心穏やかに日々をすごすこと」であり、他人の嫉妬心のために自分の基本的人権が剥奪されることは著しい違憲行為です。

ということで、公平と平等とはまったく違う概念だ、と言い切ることができます。

◆相手は「神」と「人」

ちなみに「平等」とは何かというと、「神様との距離がみな同じ」、ということです。大統領も一般市民もホームレスも、神にとってはすべての人が「塵」に過ぎないので、その距離はいかなる集団に属しようとも同じ神を信じる範囲において、変わることはありません。
だから同じ権利を有するわけです。
たとえ荒野で一人ぼっちになったとしても、神との距離は人口密集地の人と変わらず「平等」なわけです。

これは根本に一神教がなければ発生しない考え方です。「誰もが大統領になれる」という民主主義も一神教のもとで発展したシステムです。
日本に本当の民主主義が根付かないのはここに原因があります。

一方、公平性とは「他の人と同じ」ということで、これは「人と人との関係」を重視することで生まれる思想だと思います。荒野で一人ぼっちになったとき、それでも都市部の人と「公平だ」とはいえません。

少なくとも2人以上の人がいる場所において、はじめて「公平」という概念が発生するわけです。

平等は「神と人」、公平は「人と人」。

日本では「平等」も「公平」もほぼ同義に使われますが、根本はまったく違います。
これが「和」を解くカギになると思うので、次回は「公平性」についてもうちょっと考えてみたいと思います。

2006年9月27日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相対性と絶対性5

これも前回「相対性と絶対性4」の続き

No.25 ニッポン編14 善悪の境界線
◆見えない線

小型除雪機の続きです。

この善悪の狭間は非常にあいまいです。法治国家のはずなのに、違法行為を行っても周囲が黙認してしまう。黙認ならまだしも、「善」に変わってしまう。

善悪の境界線は、特定の集団にはハッキリと見えるけれども、よそ者には見えません。
それは「日本人にとっての善悪は日本人にしか分からない」というところに発展していくと思います。
さらに突き詰めると、「日本人は日本人独自の思想に基づき、善悪の境界線を引いている」ともいえます。

しつこいようですが、日本に「絶対悪」は存在しない。「相対悪」しかない。したがって「絶対善」も存在せず、あるのは「相対善」だけ、ということになります。

なぜなのか、といえば、それが「和の力」です。上に書いた「善悪すり替えの論理」に「和」という言葉をあてはめてみましょう。

「公平性を乱すことはすなわち『和』を乱す行為で『悪』になる。『悪』を破壊し、『和』を取り戻せば『平和』になるので『悪』の破壊行為は『善』である」

さてさて、とりあえず「小型除雪機」を外して書き換えてみました。
いかがでしょう。なんとなく、正論っぽくないですか?

◆善悪の相対性理論

さらに別の言葉を使って書き換えてみます。

「自分勝手な行動を許せば『和』すなわち秩序が乱れ、みんなの平穏な生活が奪われるので『悪』だ。したがって、勝手な行動を行う者には何らかの制裁を加えることが望ましく、その際の制裁行為は『善』である」

小型除雪機の放火が悪だということに疑いを抱く人はいないでしょう。でも、上の論理に反論できる人はいるでしょうか。
いないんじゃないかな?
反論どころか、賛同する人の方が多いのではないでしょうか。
でもこれはあくまでも小型除雪機放火の話です。

「悪」と思っていたことも、表現を変えれば「善」にすり変わってしまう。
いかに論理展開するかで、一つの行為が「善」にも「悪」にもなり得る。

なぜかというと、「和」という守らなければならないものに「比べれば」、放火行為は「相対的に」善になるからです。それが日本の「正義」です。

「放火は悪いことだが、公平性を乱すことはそれ以上に悪い」

相対論、極まれり、ですね。
「善悪の相対性理論」とでも名づけますか。

◆公平と平等

「公平性を乱す」という言葉を使いましたが、日本ではやたらと「公平性」が重視される傾向が強いと思います。

憲法には「人は生まれながらにして平等である」として、基本的人権の尊重が謳われています。「善悪の相対性理論」からも、日本では「公平性」が最重要なのだと考えることができます。

しかし、人が平等であり、基本的人権を生まれながらにして持っているなら、小型除雪機を買う権利、使う権利も保障されるはずで、放火される理由などどこにも存在しない。
だけど、現実問題として放火を「善」とする論理は筋が通っているように感じる。
そこで、もう一度、今度は「平等」という言葉で上の相対性理論を書き換えて見ます。

「みんなが持っていないものを買うということは平等性を乱す『悪』であり、それを破壊することは、みんなが平等になる行為だから『善』になる」

さらに、

「自分勝手な行動を許せば平等ではなくなり、みんなの平穏な生活が奪われるので『悪』だ。したがって、平等性を乱す行動をとる者には何らかの制裁を加えることが望ましく、その際の制裁行為は『善』である」

いかかでしょう。なんとなく違和感がありませんか。

2005年9月26日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相対性と絶対性4

やはり前回「相対性と絶対性3」の続き

No.24 ニッポン編13 「悪」が「善」に変わるとき
◆結局は相対論

侵略しようが虐殺しようが、勝っていれば今のようにアメリカにへつらう必要もなかったわけだし、台湾も朝鮮半島も日本の領土のままだったでしょう。
おまけに満州も加わり、北方四島も樺太南部もロシア(ソ連)に奪われることはなかった。
「誇り高き無敵の大和民族」のままでいられた。大東亜共栄圏が成立していれば、アジアの真のリーダーになっていた。
過去に日本を「東夷(東の野蛮な民族)」と呼び、蔑んでいた中国人は日本人の足元にひれ伏していたかもしれない…などなど。

勝っていればいいことづくめだったはずなのに、負けたから卑屈にならざるを得なかった。中国ごときに頭を下げなければならなくなった。すべては、あいつらが負けたからだ、といったところでしょうか。

管理人は「中国さまが怒ってらっしゃる。韓国さまもおかんむりだ」といった報道に、逆に反中、蔑韓の思いが込められているような気がします。

「あの程度の連中に言われちゃってさぁ、もう…。腹立つだけだから参拝、やめとこうよ」みたいなニュアンス。

そんな卑劣な大人たちを見て育った人間は、どんな人間になるんでしょう。
公のために尽くしても、一点の曇りがあれば全否定される世の中で、「国のために何かしよう」と思うでしょうか。
「絶対悪」ではないものを「絶対悪」のように報じる連中がいて、それを擁護するアホどもがいるおかげで、日本のモラルはどんどん低下していく。
「本当に悪なのか」という疑問を差し挟むと、徹底攻撃される。

「俺たちは『絶対正義』だから、異論を挟むお前らは『絶対悪』だ」と。

◆「絶対正しい」ことは間違っている

でも、靖国が「絶対悪」でない以上、それに反対する連中も「絶対正義」ではないため、あくまでも比較論でしかものが言えないはずなんですよね。

「俺たちの方がお前らより正しいと思う」といった程度。

でも、「靖国OK」という人たちの方が理論的だから、靖国反対の人たちはヒステリックに叫ばなければ、周囲に声が届かない。
だから自分を「絶対正義」だと言い切ってしまう。

管理人の独断によると、議論の場ではたいがい、ヒステリックに叫んでる方が比較的間違っていることが多い。
自分がどの立場をとるか迷ったときは、冷静な論調の方を選びましょう。

そもそも殺人すら「絶対悪」にはならない日本において、対極となる「絶対正義」は存在しないため、「自分は『絶対正義』だ」と言い切った時点で、そいつは間違っている、と言うこともできます。

つまり、日本に「絶対的な悪」は存在しない。
あくまでも「相対的な悪」しかない。

これをひるがえせば、「絶対正義」「絶対善」も存在しない、あるのは「相対正義」「相対善」だけだ、と言えると思います。

◆もちょっと小さなスケールで

管理人が今、住んでいる場所は豪雪地帯です。積雪時、一般家庭の多くは、シャベルを使って人力で除雪を行うのですが、家庭用の小型除雪機なるものが売っています。見ているとすごく便利そうです。

ある冬のこと、ある家庭がその除雪機を購入しました。
が、納品された日の夜、その除雪機は放火され使い物にならなくなりました。

小さな集落での話なので、絶対に目撃者がいるはずですし、管理人は誰が放火したのか、その集落の人から「うわさ」は聞いています。でも犯人は捕まっていません。

小型除雪機は冬の生活の不自由さを少しでも解消する「良い」道具で、隣家が持っていれば貸してもらうことも可能なのに、放火しちゃった。

その集落では他に除雪機を持っている家庭はありません。嫉妬心から放火した、と考えられなくもないんですが、目撃情報が警察に寄せられないことを見ると、「放火」という行為を集落が黙認している、ということになります。

「みんなが持っていないものを買うということは公平性を乱す『悪』であり、それを破壊することは秩序を回復する行為だから『善』になる」

そういう理屈も成り立つのではないでしょうか。

放火は第三者から見れば「絶対悪」のように感じますが、相対的な価値判断からは「悪」ではないどころか、「善」に変わってしまうわけです。

2005年9月24日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相対性と絶対性3

前回「相対性と絶対性2」の続き

No.23 ニッポン編12 「悪」という思い込み
◆報道の巨悪

なぜ謝罪に関する誤認が生まれるのか、というと「みんな(というか、中国人と朝鮮人、及びそれらとつるんでる朝日新聞)がそう言うから」、それを「真実だ」と思い込みたい朝日新聞がそれを「真実だ」と思い込んで喧伝し、それに洗脳された朝日新聞が「みんながそう言ってる」と書くからそうなるんでしょう。

それを読んだ一般読者は本当に「みんなが言ってる」と思い込んで、「ダメじゃん」と言い、それを聞いた朝日新聞が「ダメじゃん、って言ってる人がいる」と書く。んで、それを読んだ人が「みんなが言ってるんならダメじゃん」になる。

結局は「みんなが言うから」に落ち着くわけで、それこそ「悪」という思い込みに対する「相対的判断」の最たるものです。

でもちょっと考えてみてください。日本国内で「戦争責任」が問題視され始めたのって、80年代あたりからでしょ。管理人が子どものころです。
それまでは男の子にとって実際に戦地に赴いた人って「英雄」でした。ある日突然、「英雄」が「畜生」に変わったんです。

もっと具体的に書くと、82年の教科書問題で、中国で一気に反日機運が盛り上がってからです。でも、これだって実際は「侵略」を「進出」と書き換えた教科書は存在せず、朝日新聞の虚報だったことが発覚してます。

もしも日本に絶対悪が存在するとすれば、それは「国益を損なう行為」しかないと思います。なぜなら日本人全員が巨大な精神的、金銭的な損失を被るから。
そういう意味では朝日のような売国新聞は「悪」以外のなにものでもないですね。

しかし…さんご礁に傷をつけて写真を撮った自作自演といい、最近の長野県知事の新党立ち上げに関する虚報といい、あんなことを繰り返していながら、なぜあの新聞を購読し続ける人がいるのか、なぜあの新聞社がつぶれないのか、不思議でなりません。

「誤報」じゃないですよ。「虚報」です。

管理人が「昨日はこんなことを想像しながらオナニーしました」って書いてるのと同じレベルです。
過日、朝日新聞の記者に「なんであんなことが起きたのか」を聞いてみたら、「社会が変わっていって、組織の在り方がおかしくなっているから」と答えてました。
「全部社会が悪いのさ」って、あんた、そりゃ中途半端なパンク・ロッカー以下じゃねーの? 19歳のセックス・ピストルズだってもっとカッコイイよ。

◆戦争は?

「悪」としては戦争も挙げられると思います。

でも、なぜ戦争をしてはいけないのか、論理的に説明できる人って存在するんでしょうか。

管理人は「勝ち目のない戦争ならば、国民に負担を強いるだけなのでやってはいけない」と思います。
だから、管理人の価値観からは、日米戦争は「悪」です。

でも、同時並行的に行われた日中戦争は、大局的には勝っていたわけで、アメリカとの戦争を始めなければ、おそらく勝利を収めていたでしょう。
すなわち「悪ではない」ということになります。

「いや、あれはアジアに対する侵略行為であって、許されることではない」

などといった反論がありそうですが、そのような主張をする人たちが日清戦争や日露戦争をどう考えているのか、ぜひ知りたいところです。

今年が日本海海戦100周年で、各地で記念行事が開催されていることは知ってますか?
その記念行事そのものの報道は寡聞にして聞いたことがないのですが、あの戦争だって一種の侵略行為であり、太平洋戦争を否定するなら、日清・日露戦争だって否定されてしかるべきです。

でも、記念行事への大々的な反対運動は起きていない。起きていれば、派手に報道されているはずです。
かの朝日新聞すら書いていない、ということは許容しているということでしょう。

日清・日露戦争は良くて、日中・日米戦争はダメ。

この価値判断はいったい何が基準になっているんでしょう。

結局は「勝ったからOK」と「負けたからダメ」でしかないんじゃないでしょうか。

すなわち、相対的判断であって、日本人にとって戦争は「絶対悪ではない」ということになります。

◆靖国って…

今の日本で戦争が「悪」とされる風潮にあるのは、原爆などで過去に痛い目にあった経験が生々しく残っていることや、アジアの周辺諸国(というか、中国人と朝鮮人と朝日新聞だけ)から責められているため、

「みんなが悪というから悪」

になっているように感じます。つまり、「相対悪」ですね。
その観点から首相の靖国神社参拝を見れば、当然、「悪」というとらえ方しかできません。

でも、論理的に、誰もが納得できる言葉で「靖国参拝はダメだ」と言える人は残念ながら見たことがありません。
だからその時期になるとテレビで論争が始まる。

管理人が思うに、「靖国参拝」=「絶対悪」ではないから、「なぜダメなのか」が明確に説明できないのではないでしょうか。
「相対悪」に過ぎないから、「A級戦犯を分祀しろ」とか「中国が怒ってる」などという、わけの分からない感情論でしか賛同者を責められない。

「分祀」など不可能だということは、以前にも書いた「人は死ねば個性のない集合的な神霊の集まりに帰る」という点から考えてもらえば理解できると思います。
http://homepage1.nifty.com/ksk628/religion/religion14.html

また、中国や韓国が何をどう言おうが関係ない。単なる内政干渉です。
真の政教分離など不可能なわけで、「自由の国」アメリカでさえ、大統領就任時には聖書に手を置いて宣誓します。

靖国は明治期にキリスト教に対抗するためにつくられた国家神道に基づくもので、確かに純粋な日本の宗教観に基づくものではありません。でもそこに日清・日露戦争の戦没者も祀られているわけで、太平洋戦争だけダメ、というのは何かヘンです。

「坂の上の雲」を追いかけた時期の戦争は賞賛されて、「大東亜共栄圏」という理想を追い求めた時期の戦争は否定される。

日清、日露、日中、日米の4つの戦争とも、戦没者は「お国のため、子孫のため」と死んでいった点に違いはないんです。
今の日本が本当に「いい国」だとすれば、その国は4つの戦争で死んでいった人たちの人柱の上に成り立っている。なのに日中・日米戦争の戦没者だけはなぜか足蹴にされる。

理由はおそらく、「負けたから」でしょう。あくまでも相対的判断です。

2005年9月23日

| | コメント (0) | トラックバック (1)

相対性と絶対性2

前回の「相対性と絶対性」の続き。

No.22 ニッポン編11 「悪」と人道
◆人道とは

前回、「人道的に許されない」という表現を使いましたが、この「人道」という概念は以下の通りです。

【人道】人のふみ行うべき道。人の人たる道。人倫。
【人倫】(1)人と人との秩序関係。君臣・父子・夫婦など、上下・長幼などの秩序。転じて、人として守るべき道。人としての道。
(2)人。人間。人々。人類。
(3)ヘーゲルの用語。客観化された理性的意志。その実体は家族・市民社会・国家。
(広辞苑)

第二次大戦後、極東裁判で「人道に対する罪」というものがでっち上げられました。

人道に対する罪

戦争犯罪の一つ。一般人民に対する殺戮(さつりく)・虐待・追放その他の非人道的行為,および政治的・人種的・宗教的理由に基づく迫害行為をいう。第2次大戦後,ニュルンベルク・極東の両国際軍事裁判所条例で新たに規定されたもので,犯行の行われた時期は戦時・戦前を問わず,また自国民や自国の同盟国国民に対する犯行も含まれ,その行為が現地では国内法上合法であっても罪とされた。法理上,事後立法であることから罪刑法定主義に違反するという説もある。⇒ジェノサイド条約
マイペディア(C)株式会社日立システムアンドサービス

これらの説明から日本における「人道」を別の言葉で明確に規定できる人がいたとしたら、すごいと思います。管理人にはわけがわかりません。何が分からないのかというと、

「人のふみ行うべき道」とは、いったい誰が決めたのか。

という点です。

一神教のもとでは、辞書をひくまでもなく、簡単に説明できると思います。

「神様が人に課した掟」

ということになるでしょう。
厳密には「教会が決めた」ですが、それは後ほど、一神教のところで述べたいと思います。

いずれにせよ、日本では「誰が決めたのか分からない『人道』なるものに基づいて、何をもって罪とするかが判断される」ということになり、もっといえば「殺人が罪とされる根拠は分からないけど、なんとなく悪い」であり、「みんなが認めた代表が『悪い』って言うから悪いんだろう」です。

でもって、その「代表」は何を基準に「悪い」と決めたのかというと、刑法に関してはドイツから学んでますから、「ドイツ人が悪いことだって決めてるから悪い」です。「相対悪」でしかないですね。

◆大量虐殺は本当に「悪」なのか

「人道に対する罪」はキリスト教国が敗戦国に押し付けた「冤罪」です。ナチスによるホロコーストは日本人から見れば「悪」ですが、キリスト教徒にとっては「悪」ではありません。

それはカトリック教会が黙認したことや、ドイツ以外の他国が、国を挙げてユダヤ人救出を行わなかったことからも明らかでしょう。
その罪悪感が後にイスラエル建国につながっていったのではないかと思っているのですが、それはさておき。

なぜユダヤ人は虐殺され、他国は黙認したのか。

学校で習う歴史ではまったく分かりません。日本人の目には、ヒトラーの個人的な妄想による狂信的行為としか映らないでしょう。管理人も長い間、そう思っていました。

でも、実際は、ホロコーストは非常に冷静な政治的判断のもとに行われた行為です。「戦争犯罪」と誤認されていますが、ナチス政権下でホロコーストが始まったのは開戦前です。徐々にエスカレートして、ピークに達したのが戦時中だったにすぎません。「戦争犯罪」ではなく、「政治犯罪」です。

なぜなのか。

答えは宗教です。
「宗教」を毛嫌いして学ぼうとしない一般的日本人の感覚では分からないと思います。
その「分からない」という理由からホロコーストを「悪」だと思い込むのではないでしょうか。
明確な理由を説明できない以上、日本人にとって殺人行為が「相対悪」であるのと同じように、ホロコーストも「相対悪」でしかないわけです。

ローマ法王はいまだに黙認したことを謝罪していません。ホロコーストが宗教的な理由だということはこの事実だけで分かると思います。
前法王は「遺憾に思う」つまり「まったくもって残念だ」としか言ってない。
まぁ、「遺憾」と言っただけでも大きな前進なんですが…

◆「人道に対する罪」

もしもホロコーストが「絶対悪」であり、「全人類に対する普遍的・人道的な犯罪行為」であるならば、ドイツだけでなく、アメリカもイギリスもロシアもフランスも、いわゆるキリスト教国を主とする戦勝国すべてが「黙認した」という、刑法でいうところの「不作為による殺人行為」で裁かれなければおかしいはずです。

少なくともキリスト教国にとっては「第三者」である日本からそのような主張が出てもおかしくない。というか、それを言えるのは第三者だけだから、誰かが言わなければならないはず。

でも、どの国も誰も裁こうとしないし、そうすべきだとも言わない。日本人は「分からない」から何も言えない。

この点からも日本人にとってホロコーストとは「相対悪」だといえるのではないでしょうか。

話が前後しますが、「人道に対する罪」とは、要するに
「敗戦国を裁きたいから裁く。でも罪状がなかったから罪状をつくった」
としか言えないわけです。

それに文句もつけず唯々諾々と従い、60年経った今なお「A級戦犯がどうのこうの」と言っている日本人にとって、「A級戦犯」なる存在も、やはり「相対悪」に過ぎない。

◆「大虐殺」の違い

ちなみにホロコーストとジェノサイドは違う、ということは頭の片隅にでも入れといてください。
ホロコーストはユダヤ教における生贄を神に捧げる儀式からとった名称であり、「ホロコースト」=「大量虐殺」ではありません。「ホロコースト」=「ユダヤ人の大量虐殺」、すなわちユダヤ人限定です。

ジェノサイドは一般的な虐殺行為のことを指します。
カンボジアでかつて行われたポル・ポト政権による大虐殺や、今なお続く中華人民共和国によるチベット人虐殺のことを「ジェノサイド」と呼びます。チベット人虐殺については、「TIBET2000」の方で触れていますので興味のある方は読んでみてください。あれが「ジェノサイド」であり、「エスニック・クレンジング(民族浄化)」です。
http://homepage1.nifty.com/ksk628/travels/tibet/abouttibet.html

中国側が主張する南京大虐殺も、実際に行われていたとすれば「ジェノサイド」になります。ホロコーストではありません。

ドイツの謝罪はホロコーストに対する、つまり政治犯罪に関してのユダヤ人に対する謝罪であって、他国への侵略行為に対して謝罪しているわけではありません。

だから「ドイツは『戦争犯罪を』謝罪したのに、日本は謝罪しない」という指摘はあらゆる角度から間違っています。

2005年9月23日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相対性と絶対性1

書きなぐソ陪審「おさかな天国

堀江貴文はたしかに、景気低迷で失速していた日本経済・日本社会において 「まだまだ誰でも頑張れば成功できる」 との希望の光をもたらしたわけですが、自由主義思想者にとっては残念なことに都市部以外の多くの日本人(もちろん都市部の社会主義的思想者にも)にとっては、その 「功績」 と思われる行為ですら 「秩序を乱す」 行為であったわけです。

類似の話として、旧・えせ記者徒然 に 「雪国で単独で除雪機を買ったら放火された」 というような話があったかと記憶しております。

ここで筆者が触れている「除雪機放火」に関してですが、これは僕が過去にブログではなく、サイトでやっていた「歴史と信仰」の中の記述です。

これは、このブログの「平等とは」にも書いたように、

「日本には絶対性はない。あるのは相対性だけだ」

ということを僕なりに考察したものの中に書いた事例で、「書きなぐソ陪審」だけ読んでいてはよく分からない上に、サイトの「歴史と信仰」も中断したままなので、当該部分に至るまでの一連の「相対性と絶対性」について、サイトから抜粋しておきます。

「歴史と信仰」第二部 ニッポン編―「和」

No.21 ニッポン編10 「悪」はあるか
◆「和」の論理

「和」について。何回かに分けて書いてみたいと思います。

「和」は「和む(ナゴム)」とか「和らぐ(ヤワラグ)」などと訓読みされます。「和」という言葉には、なんとなくやわらかいイメージがありますね。

一言で表すと、「話し合い至上主義」だと井沢元彦氏は書いておられます(逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 参照)。前にもちょっとだけ触れましたが、「話し合って決めたことは正しい」という論理です。なぜ正しくなるのか、という点は前回に管理人なりの解釈を書いているので省略します。

「和」を重んじる、つまり、みんなと話し合って決めたことを守っていれば、みんながそれに従うわけですから、不安を感じることはありません。だから、心が「和らぐ」し、対人関係も「和む」。

「和」を考える場合、逆の観点から考えた方が分かりやすいかもしれません。
つまり、「正しい」とか「正義」「善」の対極にある「悪」から逆照射することで、日本における「正義」がどういったものかが分かるのではないか、と。

ということで、「日本人にとっての悪」というところから考えてみたいと思います。

「悪」とはどのようなイメージでしょう。

◆相対性と絶対性

物事には、「相対性」と「絶対性」という尺度があると思います。

「何か(誰か)と比べて、こっちの方が正しい(悪い)」が「相対性」。
「何か(誰か)と比べるまでもなく、これは正しい(悪い)」が「絶対性」。

その「絶対性」に基づいて「悪」と判断する、いわゆる「絶対悪」は、果たして日本に存在するんでしょうか。

「絶対悪」があるなら、日本人の価値判断基準に「絶対性」がある、ということができるわけですから、逆に「絶対善」「絶対正義」も存在するはずです。

ちなみに、管理人が言おうとしている「絶対悪」「絶対善」とは、太陽が東から昇って西に沈むぐらい当たり前のこととして受け入れられている「善」と「悪」の概念です。一応、念のため。

◆殺人は「絶対悪」か

さて、日本に「絶対悪」は存在するのか。
「悪」の端的な例が「人殺し」だと思うんですが、これは「絶対悪」でしょうか。

「なぜ人を殺してはいけないのですか」

以前、殺人を犯した少年が大人たちに問いかけた言葉です。これに対する管理人なりの考え方は、このサイトでも書いたことがあります。
http://homepage1.nifty.com/ksk628/etc/etc20020125.html

人類が今まで培ってきた英知をもってしても、この問い掛けに論理的な回答を出すことは不可能だと言われています。
ちなみに上記ページでは管理人は「相対的」判断から「殺してはいけない」としています。今でもその考え方は変わっていません。

「悪いことではあるが、絶対悪ではない」
という考え方です。

仮に、みんなが「こんな奴、殺すべきだ」と言えばどうでしょう。

これは死刑存廃論にもつながる非常に難しい問題です。
「死刑」とは国家による殺人行為です。が、死刑存続論者の管理人としては、

「社会から司法権を委ねられた裁判所がそう判断するなら、殺人行為も許される」

と考えます。

また、人道的に許されない凶悪犯罪に対しては極刑をもって報いるべきであり、制度として「死刑」という極刑が用意されているなら、つまり、社会がその制度を許容しているなら、死刑は執行しても構わないと思います。

その極刑を制度化したのが立法府、つまり政府です。この政府も「合議の上で」法を定めた。要するに

「みんなで話し合った結果、刑罰としての死刑を導入することに決めた」

ということになります。誰か一人が強権的に決めたものではない。要するに、死刑制度には絶対的な根拠はない=国家による殺人行為に明確な根拠はない、と言えます。

「話し合って決めた」というのは「他の罪よりこっちの方が重そうだから、重い罰をつくって適用しよう」という比較論になります。相対的判断ですね。
ただし、これは死刑廃止につながる部分ではないのであしからず。管理人はあくまでも死刑「存続」派です。

「悪」の話、続く。

2005年9月22日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月14日 (金)

メディア・リテラシー

前回の「メディアと正義」に関してですが、あまりの長文とまとまりの悪さから、僕が感じている「メディアの凶暴性」について十分に伝えきれてないように感じたので補足しておきます。

つまり、小兄のフィルターを通した
「なんか変だぞ」
と感じたから、つまり自分が
「これは間違ってるんじゃないのか」
と思った
ことが含まれているかもしれない
「ある角度から見た時の事実の断片」
が最終的には世論の支持を得たわけですよね。
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50085058.html

違うんです。
ある事象が起きる。そこには仮に自治体の首長を含めた10人の人間が関わっていたとしましょう。
その事象の「事実」を完璧に把握するためには、そこに関わる10人の思想や、その背景を作り出した生活環境など、総括的に情報を収集しなければならないわけです。

ここでひとつの大きな壁があります。
人の心の中は覗き込めない。
だから、ある人の発言や行動が、本音なのか建前なのか、外部から見ている者には理解できない。
「事実」「真実」を真の意味で把握するには、「神の視点」が必要となってきます。

そんなこと、可能なのか?
というと、絶対に不可能です。
だから、その事象の中心にいる人に話を聞き、それを記事として表に出す。
だからこそそれは「事実の断片」でしかない。

「事実の断片」というのはどういうことかというと、Aという「断片」は間違いなく存在することが確認できたんだけど、BとかCとかいうものは確認できなかった。
ジグソーパズルの1つのピースでしかなくて、それをもってパズル全体を組み立てることは不可能なわけです。

昨今、話題になってる「メディア・リテラシー(メディアの表現能力)」は、ここで限界を迎える。
いくら自分が真摯に取材しても、それは「断片」でしかなく、僕がつかんだ「断片」は「A」というものだったけど、もしも「B」という断片をつかんでいれば、まったく違う「事実の側面」が浮かび上がってくる。

それをひとつの側面だけで書けば、その側面においては「事実」でも、他の側面においては「事実」ではなくなる。

僕は自分の価値観に照らし合わせて
「これは変だ」
と思い、取材し執筆したわけですが、「変だ」と思ったきっかけは、何らかの「事実の断片」を拾ったからであり、もしも別のものを拾っていたら記事の内容もまったく別のものになっていた可能性がある。
僕が自分が書く記事の中で、善悪の判断をしないのは、それが偏った情報だと認識しているからです

前にもチラッと触れましたが、太平洋戦争。
日本には日本の正義が、アメリカにはアメリカの正義がありました。
いまの日本ではアメリカの正義だけを鵜呑みにして
「日本は間違っていた」
と言い、「中国を侵略した」などと言っています。
ですが、「事実」を見る時にはやはり、あらゆる観点から見なくてはいけない。

日本の正義とはなんだったのか。
アメリカは本当に正義か。
中国の言い分は正しいのか。
朝鮮半島は本当に植民地だったのか。

アメリカの言い分だけを聞いて「これが事実だ」などというのはおかしい。
韓国の言い分だけを聞いて日本が謝罪するのは変ではないでしょうか。
そもそも、韓国が経済発展できたのは、かつて日本領だった時に、日本人の血税で整備したインフラが残っていたからだといわれています。
それでも日本が悪いのか。

そこで自己体験に戻るんですが、ある記事を書きました。
その記事には複数の人物が脇役として登場します。
その脇役が公の場で発した発言をもとに首長にインタビューしたんですが、実は一番悪い奴はその脇役だったりするんです。
汚職すれすれのことをやっていた。神戸市議があちこちに圧力をかけていたとの報道が続いていますが、それと似たようなことをやっていた。
そこで、僕は「議員の口利きを止めさせる方法はないのか」と思い、首長に取材しました。
「圧力に屈する自治体側にも問題があるんじゃないのか」
という考え方です。

微妙ですね。
圧力をかける側が悪いのか、それに屈する方が悪いのか、それともグルでやっていたのか。
僕は「屈する方が悪い」という観点で取材し、執筆しました。
いま話題の神戸市議に関する報道とは逆の視点ですね。

そこで問題提起のつもりで
「このような実態があります」
と記事を書きました。
要するに、「議員の圧力に自治体が屈している」と。
それを読んだ人たちは、「自治体ケシカラン」と騒ぎ立て、口利きをほとんどしたことのない議員も
「自治体ケシカラン」
となって、首長辞職。

逆の記事、つまり「口利きケシカラン」という切り口だったらどうなっていたでしょう。
「議員ケシカラン」
で、リコール請求が出ていたと思います。

僕が読者に望んでいたのは、

「口利きしている議員がいます。それに屈して言いなりになっている自治体があります。どちらが悪いとはいいませんが、自治体は本来、住民のものではないのでしょうか。このような状態を続けていていいのか、考えてみてください」

というもので、記事の内容もそのようなものでした。

ですが、住民側は僕の記事を鵜呑みにし、「自治体ケシカラン」になったんです。
「屈した方が悪い」
という判断ではなくて、
「屈したという報道があったから悪い」
でした。
議員に矛先が向かうことはありませんでした。
その自治体では、いまだに議員の口利きが横行しています。

口利きの内容は
「ワシの親戚を役所で雇え」
などというもの。
そこで再び筆を取りました。
「無茶苦茶な雇用をしている。理由は議員の口利き」
と。
そこでもやはり、「屈する自治体が悪い」という世論に流れました。

これは「世論の支持を得た」といえるのか。
僕が本当に悪いと思っているのは、議員の口利きです。
「何のために議員になったんだ?」
なんですが、あえて「屈した自治体」を主人公に記事を書いた。
そしたら世論が沸き立った。

だから、

つまり小兄は経験則的に世論を感受してい(ると仮定し)て、自身の感じた 「変」 や 「間違い」 を
「見たこと、聞いたことをそのまま書いただけ。それが正しいとか間違ってるなどといったことは一切書いていない」
という極めて中立的な姿勢で 「ある角度から見た時の事実の断片」 として問題提起(それが問題かどうかを含め)し、結果的に世論の支持を得たわけです。
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50085058.html

ではなく、正直なところ、予想外の方向に世論が走っていっただけなんです。
「俺が書いたことは『全て』ではない」
と自分では理解しているんですが、読者はそれを「全て」と勘違いしてしまった。

そして僕という「一人の記者」を「正義の味方」と持ち上げて支持した

支持してくれるのは嬉しいんだけど、僕に言わせれば、
「俺は正義の味方なんかじゃない」
ってとこですかね。
なぜならそこには「メディア・リテラシー」が存在するからです。

新聞に書いてあることは、あくまでも「事実の断片」であって、「事実の全容」ではない
全容など書ききることは不可能。
それを理解していない読者が多過ぎる。
メディアの限界、読者の限界、というやつですかね。
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年4月11日 (火)

メディアと正義

ちょっと民主主義論から話がズレます。長文です。加えてつぎはぎだらけの文章で、まとまりがありませんので、あらかじめご了承を。

書きなぐソ陪審の「ヒーローって何ですか。」に引っかかる言葉がありまして、今回は
「正義ってなんだ?」
というお話。

書きなぐソ陪審のエントリーでは、

「正義」っていったい何なんでしょうね。

その厳密な定義や個別の判断は各々でしていただくとして、
東京大学名誉教授六本佳平氏の「秩序の定義」を一部拝借して、
ここでは簡単に

大多数の「場合意識的な善」の行為

と定義させていただきます。私もそう思います。

という書き出しから入っております。「場合意識的な善」なるものに関する説明がないので、具体的にどう思っているのか分からない部分もあるんですが、字面からみるに、
「その場その場でみんなが正しいと思っていること」
と判断していいのかな、と。

とりあえず、そんな感じのとらえ方でいいとすれば、要するに
「世論が正義」
ということになりますね。
その「世論」はどこで作り出されるか、というと、マスコミでしょう。

と、マスコミ業界で働いている僕が書くと、必ずと言っていいほど、どこかしらから反発を受けます。
どうも世の中には「マスコミ」と聞いただけでアレルギーを起こしてしまう人が多いようで。

かつて、あるサイトの掲示板で、そこの管理人さんがあるニュースに関して感想を書いておられました。
内容を要約すると、
「道路建設予定地に数本の古木がある。近隣の一部住民が伐採に反対してる」
という話題に対し、
「公共の利益を考えると切った方がいいんじゃないのか。何を考えてこんな原稿を書いてるんだ?」
という感想。

僕が書き込んだ内容は
「記者も切った方がいいと思ってるんだけど、善悪の判断を押し付けるべきではないと考え『こういう人たちがいます』とだけ書いて、どう思うかは読者の判断に任せようとしたのではないか」
でした。
これは僕が困った時によく使う手法です。
そこの管理人さんは、僕が業界人であることを知ってるので、「なるほど」みたいなレスがついてましたが、僕の仕事を知らない訪問者から総攻撃されてしまいました。
いわく、
「マスコミに毒されてる」
「お前の考え方は間違ってる」
「マスコミ関係者はそんなに良心的ではない」
「正義の押し付け」
「人間性を疑う」

などなど。

そりゃ、業界人が「報道のひとつの手段として、そういう方法をとることもあるんだよ」と書けば、業界側の言い分にしかならないですわな。
こちらとしては
「報道されていることが『正義』だとは限らない。読み手は報道を真に受けずに、何が正しいのかを考えるクセをつけてほしい」
ということを伝えたかっただけなんだけどね。
でも、マスコミ側の肩を持つ書き込みだっただけに、僕の「人間性」にまで触れられてしまいました。

「なんでこんなにヒステリックな反応をするのかな?」

と疑問に感じたんですが、僕の率直な感想を書かせてもらうと、
「権威を批難することがカッコいい」
と感じてる人が多いからではないか、と。
でも、権威を批判できるほどの知識も理論もないから、ヒステリックに反応してしまうのかな?

ここでまた
「じゃ、マスコミは権威なのか」
などという反発が出てきそうですが、少なくとも日本に新聞文化が定着して以来、今までのところは「権威」といっていいと思います。
いや、「権威」だと思い込んでいる人が多いから、自然と「権威」になってしまっている、と表現した方が適切でしょうか。

実際はエラくもなんともないのに、周りの人たちが「マスコミはエラい」と思い込んでるから、マスコミの人間も自分がエラくなったような錯覚を起こして、エラそうな報道をする。
それを読んだ人たちが、「エラい人たちが書いたから、そうなんだろう」と勝手に思い込むから、世論がマスコミの論調に流れてゆく
その流れができてしまうから、一般の人たちはますます「マスコミはやっぱりエラい」と思い込んで、んでもってマスコミの人間はますます「俺たちってエラい」と思い込んで…
というスパイラルが続いてきた結果、いつの間にか「権威」として定着してしまったのではないかと思っています。

僕の実体験ですが、選挙報道などで、
「自分の筆ひとつで地域の政治情勢がガラリと変わる」
という実態を経験しています。
国政選挙は残念ながら一度しか経験したことがないので、よく分からないんですが、地方の市長、町長選は過去に何度もやってきました。
明らかにA候補の方が優勢だったのに、僕が立候補者インタビューでA候補が明言を避けようとした地域最大の課題について、しつこく食い下がって質問したところ、相手が折れて本音を漏らしました。
「書くからね」
と念押しした上で書いたら、突然B候補に風が吹いて当選しました。

また、ある事を知りたくて、某自治体の首長にインタビューしたところ、その首長は
「なんでそんなにくだらないことばかり質問するんだ? そんな記事、誰が読むんだ?」
などと言ってましたが、そのインタビュー記事が掲載された数ヵ月後、その首長は僕の記事が原因で失脚しました。

僕という、たった一人の人間の思いが、世論を動かしてしまった。
その、僕が作り出した「世論」が正しいのかどうか、いまだに分かりません。
ただ、詭弁と言われようが、なんと言われようが、僕としては
「見たこと、聞いたことをそのまま書いただけ。それが正しいとか間違ってるなどといったことは一切書いていない」
と断言しておきます。

もちろん、インタビューしたのは、僕自身が
「なんか変だぞ」
と感じたから、つまり自分が
「これは間違ってるんじゃないのか」
と思ったからで、そこで既に「僕」という人間のフィルターを通ってるわけだから、それが多角的に、どの角度から見ても「真実」というわけではないんだけど、
「ある角度から見た時の事実の断片」
であることは揺るがないと思っています。

問題はここからです。

僕が書いた記事というのは、あくまでも
「一定の角度から見た事実の断片」
に過ぎないんですが、それを「真実」と思い込んでしまう人が非常に多い。
だから「世論」≒「正義」が、たった一人の筆で決められてしまう。
一本の原稿で地域(時には国)を激変させたり、人の人生を狂わせてしまう、極めて凶暴な性質を持っているのがマスメディアです。

僕はメディアの〈独裁制〉〈凶暴性〉を感じてるから、仕事する時には努めて慎重に筆を運んでいますが、時によって、どうしても「善悪の判断」を迫られてしまうことがあります。
行政の不祥事なんかがそうですね。

過日の兵庫県宝塚市長の汚職、そこから浮上した神戸市議の汚職などでは、書き手は
「ダメだ」
と断罪しなきゃいけない。
談合もそうです。そして、ライブドアの堀江氏もそうです。
やっぱ
「ダメだ」
という論調で紙面を展開しなくてはいけない。

でも、問いたい。
本当にダメなんでしょうか?
「法的にダメ」なことと「人道的にダメ」なこととは、性質がまったく異なります。
上に挙げたような事例は「法的にダメ」なことであって、「人道的にダメ」なことではない。
でも、法を破ったから「正義ではない(≒悪)」とされてしまった。

じゃ、法律さえ守っていれば「正義」なんでしょうか。
世論に判断を委ねれば「正義」なんでしょうか。

ナチスのホロコーストは、ナチス政権下で定められた「ユダヤ人を殺せ」という法律です。
ユダヤ人虐殺は、ナチスの法律に違反していません。
それでも「正義」と言える人は存在しないんではないでしょうか。

堀江氏に関しては最たるものだと思います。
書きなぐソ陪審の同エントリーにありますが、堀江氏は

① 景気低迷で失速していた日本経済・日本社会において、 「まだまだ誰でも頑張れば成功できる」 との希望の光をもたらした。

② エスタブリッシュメント (既存権力・既存権益) に果敢に立ち向かう勇気を自ら率先して示した。

③ クローズド (閉鎖空間) で行われていた一部権益の手法を、多くの人にわかりやすく開示した。

という「功績」があります。それがいきなり「あいつはダメだ」と断罪された。
それまで「ホリエモン」などという愛称をつけてさんざん持ち上げたマスコミが、いきなり手のひらを返して
「あいつはダメだ!」
と大合唱。
それを読んだ読者も、
「裏切られた…」
という反応。

でも僕は
「堀江氏は本当に悪いことをしたのか」
という点が疑問でなりません。
「金さえあれば何でもできる」という考え方は、僕としてはいただけないものなんですが、それを
「間違っている」
などと誰が言い切れるんでしょう。
「法に触れた」から「悪」?
じゃ、その「法に触れた」行為は何だったのかというと、人道的な問題ではなかった。
それでも、一時期、堀江氏という御輿を持ち上げた人たちは「裏切られた」と騒ぎ、「奴に正義はない」と騒ぐ。
じゃ、お前らの「正義」ってなんだ? ソフトバンク?

「金では買えないものがある」
という論調も一部で見受けましたが、正直、
「はぁ?」
ですよね。
金で買えないものって何ですか?
そんな論調って、金を持ってない奴らのひがみじゃねーの?

…ちょい軌道修正(汗

マスコミが世論をつくる。その中で堀江氏は天国から地獄に突き落とされた。
「時代の寵児」から「金の亡者」に一気に転落した。
それは、「正義」という価値判断が一夜にして逆転した瞬間でした。

でもね、「正義」なんてものは人の数だけ存在するわけですよ。
永遠不滅の「正義」があったとしたら、それは虚像だと思うんです。
大東亜戦争(太平洋戦争)だって、当時の日本にとってみれば「絶対的正義」だったんです。
でも、負けたとたんに「絶対悪」に変質した。

もしも、本当にマスコミがつくる「世論」が「正義」だとしたら、これほど危ういものはない。
「正義」は時代とともに変遷し、そして人によって異なる。
つまり、「普遍的な正義」なんてものは、この世に存在しない、と思うんです。
そこにあるのは「個人にとっての正義」だけ。
自分が正しいと思ったことが、その人に限定された「正義」になる。
「みんなが言ってるから、これは『正義』だ」
という考え方は何かがおかしい。

仮面ライダーだって、見方を変えれば
「ショッカー連中は理想の世の中を築こうとして日夜奮迅してるのに、『変身』という特殊能力で超人的強さを身に付けた仮面ライダーはショッカーを殺しまくってる。弱い者いじめの典型。仮面ライダーは人々に『正義』の美名を押し付け、実は独裁者の席を狙ってる真の悪者」
ということだってできるわけです。

それを、マスコミは
「仮面ライダーは正義の味方」
とはやし立てる。
でも、それって情報操作ですよね。
もしも新聞の見出しに

「仮面ライダーが連続殺人/ショッカー数百人を撲殺」
「改造者『まさか…』絶句/凶行、止められず」
「校長『おとなしい子』/教育委員会に衝撃」

などという言葉が踊っていたらどうなんでしょう。

そういう視点で見たとき、「仮面ライダー」を「アメリカ」に、「ショッカー」を「イラク人」に置き換えるとどういう感想を抱くでしょう。

「アメリカが大量殺人/イラク人数百人を爆殺」
「国連『まさか…』絶句/凶行、止められず」
「米政府『普段はおとなしい』/同盟国に衝撃」

要するに、
「マスコミがつくる世論は『正義』ではない」
ということです。
「正義のヒーロー」も見る角度で「凶悪犯罪者」になる。
「仮面ライダー」を「アメリカ」に置き換えることで、その意味はある程度理解してもらえると思います。

そして、「正義」などどこにも存在しない。
強いていえば、
「時と場所と人によって『正義』は変わる」
ということであり、ある人が
「何を『正義』とするか」
という点に関しては、
「マスコミの報道を鵜呑みにせず、常に自らの頭で考え続けるしかない」
ということだと思う次第です。

読み手も人なら書き手も人。書かれる人もまた人なわけだから、価値判断がズレることだってある。
それでも「世論はマスコミが形成する」という構図ができてしまっている。
その中で、マスコミ批判を展開する人たちがいる。
マスコミも確かに無責任ですが、最も無責任なのは、自らの頭で判断せず、マスコミに一方的に責任を押し付け、毛嫌いする人たちではないでしょうか。

僕は業界の末端に席を置く者として、
「マスコミは正義ではない」
と言い切ってしまいますが、自らは世論に流され、漂うままに漂って、明確な価値判断基準も形成できず、各社の報道内容や報道のスタンスを理解しないままマスコミ批判をして悦に入っている人たちについては
「正義のカケラもない人々」
との烙印を押させていただきたいと思います。

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年4月 2日 (日)

日本は無宗教国家か―民主主義3

またまた大仰なタイトルをつけていますが、前回の「平等とは」、前々回の「社会システム」の続きです。

宗教とは直接関係ない言葉なんだけど、僕がこよなく愛してやまない言葉(漢詩)にこんなのがあります。

「年々歳々、花相似たり、歳々年々、人同じからず」
(年月が経ても咲く花は同じだけど、その同じ花を見る人は年月とともに変わっていくんだなぁ、という意)

小学校の時に出会った漢詩でした。その意味を知って深く感銘を受け、今では座右の銘…というと大げさですが「好きな言葉トップ3」には入ってますね。
(ちなみに座右の銘は「彼も人也、我も人也」です。人にできることは自分にもできる、という意)

「年々歳々~」とは何とも無常観を漂わせる言葉ではないでしょうか。
自然の営みは半永久的に変わらない。でも世代が変われば、その自然の営みを眺める人も変わっていく。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」
にもどこか似た雰囲気があります。

平家物語の冒頭のこの言葉、これを聞いて「無常」という感覚、あらゆるものは移ろいゆくものなのだ、という感覚を抱かない人は、日本人には存在しないと勝手に思ってます。

問題はその「無常」という感覚なんですが、これは仏教独特のもの。
いわば外来宗教が日本に深く根ざし、意識せぬ間に定着してしまった。
【追記・4月3日】そのような感覚を受け入れやすい精神的土壌があった、ということです。

要するに、日本における「宗教」とは、非常に感覚的なもので、僕が感じるに
「自然の成り行きには逆らわない」
というものではないかと。

さて、今の日本は「無宗教国家」などと呼ばれています。
果たしてそうなんでしょうか。

それを考える際に「宗教とは何か」を考えるべきではないかと思うわけです。

日本にはもともと「神道」なるものが存在しました。
仏教はインドで誕生し、中国の道教思想と混合し、「中国仏教」に変質しました。
それが朝鮮半島を経て日本に渡来し、「神道と仏教の融合」が図られました。
聖徳太子の「本地垂迹説」です。

そのような流れから、「日本仏教」なるものを解体してみると、
オリジナル仏教+中国道教+神道
となります。

では日本古来にあった「神道」とはいかなるものか。

これはもともと「神惟(カンナガラ)」と呼ばれていたものです。
仏教の伝来により、仏教と区別するために「神道」という言葉に置き換えられた。
つまり、「神道」とは字句通りの「神(が定める)道」ではなく、
「神とともに生きる」
という意味ではないかと推測しています。

さて、その「神道」ですが、天皇を頂点として、天皇を崇める宗教だと誤解されがち。
でも、この考え方は、明治維新後、「国家神道」が成立してからのものだと考えています。
(首相の靖国参拝が問題視されるのは、「国家神道」と「神道」の区別がついてないからではないかと…)

しかし、いろいろと調べていると、どうもそうではないらしい。
天皇は単なる祭祀者であって、
「天皇を崇める宗教」
ではなかったのではないか、と感じられる。

そこで
「じゃ『神道』における『神』ってなんだ?」
という疑問が沸いてくると思うんですが、古来、日本人は人間のことを「分霊(わけみたま)」と呼んでいました。
「神」とは「霊(たま)」が渾然一体となっている状態のこと。
言ってみればユングが提唱した「集合的無意識」みたいなもんで、その巨大な集合的「霊」が分離して実態を持ったのが「人間」である。だから「分霊」。
従って、「神」という字句よりも「カミ」と書いた方がより理解しやすいかと思います。
「別物なんだ」
という意味で。
(ここではあえて「神」と表記していますが)

つまり、何を言いたいのかというと、日本人のDNAには、その「分霊」思想が刷り込まれているんじゃないか、ということ。
「人とは神(霊の集合体)から分離したもの」
という思想。

神道の解説書なんかを読んでいると、人の根本的性質は
「赤き、清き、直き、正しき(存在)」
とされていた、とあります。

要するに、日本では「人」=「神の分身」であり、「神」とは「人」の内部に存在するもの。
外部に「神」を求める一神教とはものの考え方がまったくもって違う。180度違う。

一神教…「神が人を創った」
日 本…「神とは人そのものである」

ここから民主主義論に入っていきます。

前回にも書いた通り、
「『平等』とは唯一絶対神との距離を指す言葉で、『神』と『人』との距離が同じである、という思想に基づくもの」
です。

じゃ、日本はどうか。
「『神』=『人』である以上、『神』と『人』との〈距離〉なるものは存在しない」
といえるのではないでしょうか。
日本にあるのは
「『神』イコール『人』であるなら、そこにあるのは『人』と『人』との関係だけ」
となるはず。

つまり、神は唯一絶対であり、そこから人との距離を測ることは可能。なぜなら、そこに揺るぎない
「絶対性」
があるから。
でも、神があちこちに存在する日本では、神と人との距離は測れない。なぜなら、そこには
「絶対性」
は存在せず、
「相対性」
しか存在しないから。

「平等」という概念が「絶対性」に基づくものであれば、「相対性」しかない日本では「平等」はない、と僕は結論づけてるわけです。

「あいつも神、オレも神なんだから、同じように扱え」
それが日本人の根幹を流れる思想。
だから、隣人の顔ぶれが変われば、
「同じように扱え」
の内容が異なってくる。
そこには「隣の人と同じ」という「公平性」はあっても、「みんな同じ」という「平等性」はない。

前回の冒頭に書いた

「彼は足が遅いから、速い人と一緒にゴールさせましょう」

ですが、それは「足が遅い人も速い人も『人』という名の『神』だから、同じように扱いましょう」という発想ではないんでしょうか。
日本人はすべからく「霊」、つまり「神」の分身なんだから、同じように扱わなければならない、と。

日本人の根底にそのような思想があるからこそ日本では
「お手々つないで一緒にゴール」
が、感覚としては正しいような気になり、それを実践してしまう。

ということで、「日本は無宗教国家か」という点については、
「日本古来の宗教があまりにも感性に密着しすぎているため、宗教を意識できないレベルになっている」
言い換えれば、
「日本人の宗教観は他国に例を見ないほどに強烈」
といえるのではないかと思う次第です。

ちょっと民主主義とは離れているような気がしますが、民主主義が宗教観に基づいたものである以上、宗教を語らずして社会システムを考えることはできないのではないか、と思って書いてみました。

まだまだ僕が「日本における民主主義の否定」に至る道筋の半分も書ききれていませんので、非常に分かりにくい論旨になっていますが、しばらくはこんな調子で続く予定です。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »