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2006年4月11日 (火)

メディアと正義

ちょっと民主主義論から話がズレます。長文です。加えてつぎはぎだらけの文章で、まとまりがありませんので、あらかじめご了承を。

書きなぐソ陪審の「ヒーローって何ですか。」に引っかかる言葉がありまして、今回は
「正義ってなんだ?」
というお話。

書きなぐソ陪審のエントリーでは、

「正義」っていったい何なんでしょうね。

その厳密な定義や個別の判断は各々でしていただくとして、
東京大学名誉教授六本佳平氏の「秩序の定義」を一部拝借して、
ここでは簡単に

大多数の「場合意識的な善」の行為

と定義させていただきます。私もそう思います。

という書き出しから入っております。「場合意識的な善」なるものに関する説明がないので、具体的にどう思っているのか分からない部分もあるんですが、字面からみるに、
「その場その場でみんなが正しいと思っていること」
と判断していいのかな、と。

とりあえず、そんな感じのとらえ方でいいとすれば、要するに
「世論が正義」
ということになりますね。
その「世論」はどこで作り出されるか、というと、マスコミでしょう。

と、マスコミ業界で働いている僕が書くと、必ずと言っていいほど、どこかしらから反発を受けます。
どうも世の中には「マスコミ」と聞いただけでアレルギーを起こしてしまう人が多いようで。

かつて、あるサイトの掲示板で、そこの管理人さんがあるニュースに関して感想を書いておられました。
内容を要約すると、
「道路建設予定地に数本の古木がある。近隣の一部住民が伐採に反対してる」
という話題に対し、
「公共の利益を考えると切った方がいいんじゃないのか。何を考えてこんな原稿を書いてるんだ?」
という感想。

僕が書き込んだ内容は
「記者も切った方がいいと思ってるんだけど、善悪の判断を押し付けるべきではないと考え『こういう人たちがいます』とだけ書いて、どう思うかは読者の判断に任せようとしたのではないか」
でした。
これは僕が困った時によく使う手法です。
そこの管理人さんは、僕が業界人であることを知ってるので、「なるほど」みたいなレスがついてましたが、僕の仕事を知らない訪問者から総攻撃されてしまいました。
いわく、
「マスコミに毒されてる」
「お前の考え方は間違ってる」
「マスコミ関係者はそんなに良心的ではない」
「正義の押し付け」
「人間性を疑う」

などなど。

そりゃ、業界人が「報道のひとつの手段として、そういう方法をとることもあるんだよ」と書けば、業界側の言い分にしかならないですわな。
こちらとしては
「報道されていることが『正義』だとは限らない。読み手は報道を真に受けずに、何が正しいのかを考えるクセをつけてほしい」
ということを伝えたかっただけなんだけどね。
でも、マスコミ側の肩を持つ書き込みだっただけに、僕の「人間性」にまで触れられてしまいました。

「なんでこんなにヒステリックな反応をするのかな?」

と疑問に感じたんですが、僕の率直な感想を書かせてもらうと、
「権威を批難することがカッコいい」
と感じてる人が多いからではないか、と。
でも、権威を批判できるほどの知識も理論もないから、ヒステリックに反応してしまうのかな?

ここでまた
「じゃ、マスコミは権威なのか」
などという反発が出てきそうですが、少なくとも日本に新聞文化が定着して以来、今までのところは「権威」といっていいと思います。
いや、「権威」だと思い込んでいる人が多いから、自然と「権威」になってしまっている、と表現した方が適切でしょうか。

実際はエラくもなんともないのに、周りの人たちが「マスコミはエラい」と思い込んでるから、マスコミの人間も自分がエラくなったような錯覚を起こして、エラそうな報道をする。
それを読んだ人たちが、「エラい人たちが書いたから、そうなんだろう」と勝手に思い込むから、世論がマスコミの論調に流れてゆく
その流れができてしまうから、一般の人たちはますます「マスコミはやっぱりエラい」と思い込んで、んでもってマスコミの人間はますます「俺たちってエラい」と思い込んで…
というスパイラルが続いてきた結果、いつの間にか「権威」として定着してしまったのではないかと思っています。

僕の実体験ですが、選挙報道などで、
「自分の筆ひとつで地域の政治情勢がガラリと変わる」
という実態を経験しています。
国政選挙は残念ながら一度しか経験したことがないので、よく分からないんですが、地方の市長、町長選は過去に何度もやってきました。
明らかにA候補の方が優勢だったのに、僕が立候補者インタビューでA候補が明言を避けようとした地域最大の課題について、しつこく食い下がって質問したところ、相手が折れて本音を漏らしました。
「書くからね」
と念押しした上で書いたら、突然B候補に風が吹いて当選しました。

また、ある事を知りたくて、某自治体の首長にインタビューしたところ、その首長は
「なんでそんなにくだらないことばかり質問するんだ? そんな記事、誰が読むんだ?」
などと言ってましたが、そのインタビュー記事が掲載された数ヵ月後、その首長は僕の記事が原因で失脚しました。

僕という、たった一人の人間の思いが、世論を動かしてしまった。
その、僕が作り出した「世論」が正しいのかどうか、いまだに分かりません。
ただ、詭弁と言われようが、なんと言われようが、僕としては
「見たこと、聞いたことをそのまま書いただけ。それが正しいとか間違ってるなどといったことは一切書いていない」
と断言しておきます。

もちろん、インタビューしたのは、僕自身が
「なんか変だぞ」
と感じたから、つまり自分が
「これは間違ってるんじゃないのか」
と思ったからで、そこで既に「僕」という人間のフィルターを通ってるわけだから、それが多角的に、どの角度から見ても「真実」というわけではないんだけど、
「ある角度から見た時の事実の断片」
であることは揺るがないと思っています。

問題はここからです。

僕が書いた記事というのは、あくまでも
「一定の角度から見た事実の断片」
に過ぎないんですが、それを「真実」と思い込んでしまう人が非常に多い。
だから「世論」≒「正義」が、たった一人の筆で決められてしまう。
一本の原稿で地域(時には国)を激変させたり、人の人生を狂わせてしまう、極めて凶暴な性質を持っているのがマスメディアです。

僕はメディアの〈独裁制〉〈凶暴性〉を感じてるから、仕事する時には努めて慎重に筆を運んでいますが、時によって、どうしても「善悪の判断」を迫られてしまうことがあります。
行政の不祥事なんかがそうですね。

過日の兵庫県宝塚市長の汚職、そこから浮上した神戸市議の汚職などでは、書き手は
「ダメだ」
と断罪しなきゃいけない。
談合もそうです。そして、ライブドアの堀江氏もそうです。
やっぱ
「ダメだ」
という論調で紙面を展開しなくてはいけない。

でも、問いたい。
本当にダメなんでしょうか?
「法的にダメ」なことと「人道的にダメ」なこととは、性質がまったく異なります。
上に挙げたような事例は「法的にダメ」なことであって、「人道的にダメ」なことではない。
でも、法を破ったから「正義ではない(≒悪)」とされてしまった。

じゃ、法律さえ守っていれば「正義」なんでしょうか。
世論に判断を委ねれば「正義」なんでしょうか。

ナチスのホロコーストは、ナチス政権下で定められた「ユダヤ人を殺せ」という法律です。
ユダヤ人虐殺は、ナチスの法律に違反していません。
それでも「正義」と言える人は存在しないんではないでしょうか。

堀江氏に関しては最たるものだと思います。
書きなぐソ陪審の同エントリーにありますが、堀江氏は

① 景気低迷で失速していた日本経済・日本社会において、 「まだまだ誰でも頑張れば成功できる」 との希望の光をもたらした。

② エスタブリッシュメント (既存権力・既存権益) に果敢に立ち向かう勇気を自ら率先して示した。

③ クローズド (閉鎖空間) で行われていた一部権益の手法を、多くの人にわかりやすく開示した。

という「功績」があります。それがいきなり「あいつはダメだ」と断罪された。
それまで「ホリエモン」などという愛称をつけてさんざん持ち上げたマスコミが、いきなり手のひらを返して
「あいつはダメだ!」
と大合唱。
それを読んだ読者も、
「裏切られた…」
という反応。

でも僕は
「堀江氏は本当に悪いことをしたのか」
という点が疑問でなりません。
「金さえあれば何でもできる」という考え方は、僕としてはいただけないものなんですが、それを
「間違っている」
などと誰が言い切れるんでしょう。
「法に触れた」から「悪」?
じゃ、その「法に触れた」行為は何だったのかというと、人道的な問題ではなかった。
それでも、一時期、堀江氏という御輿を持ち上げた人たちは「裏切られた」と騒ぎ、「奴に正義はない」と騒ぐ。
じゃ、お前らの「正義」ってなんだ? ソフトバンク?

「金では買えないものがある」
という論調も一部で見受けましたが、正直、
「はぁ?」
ですよね。
金で買えないものって何ですか?
そんな論調って、金を持ってない奴らのひがみじゃねーの?

…ちょい軌道修正(汗

マスコミが世論をつくる。その中で堀江氏は天国から地獄に突き落とされた。
「時代の寵児」から「金の亡者」に一気に転落した。
それは、「正義」という価値判断が一夜にして逆転した瞬間でした。

でもね、「正義」なんてものは人の数だけ存在するわけですよ。
永遠不滅の「正義」があったとしたら、それは虚像だと思うんです。
大東亜戦争(太平洋戦争)だって、当時の日本にとってみれば「絶対的正義」だったんです。
でも、負けたとたんに「絶対悪」に変質した。

もしも、本当にマスコミがつくる「世論」が「正義」だとしたら、これほど危ういものはない。
「正義」は時代とともに変遷し、そして人によって異なる。
つまり、「普遍的な正義」なんてものは、この世に存在しない、と思うんです。
そこにあるのは「個人にとっての正義」だけ。
自分が正しいと思ったことが、その人に限定された「正義」になる。
「みんなが言ってるから、これは『正義』だ」
という考え方は何かがおかしい。

仮面ライダーだって、見方を変えれば
「ショッカー連中は理想の世の中を築こうとして日夜奮迅してるのに、『変身』という特殊能力で超人的強さを身に付けた仮面ライダーはショッカーを殺しまくってる。弱い者いじめの典型。仮面ライダーは人々に『正義』の美名を押し付け、実は独裁者の席を狙ってる真の悪者」
ということだってできるわけです。

それを、マスコミは
「仮面ライダーは正義の味方」
とはやし立てる。
でも、それって情報操作ですよね。
もしも新聞の見出しに

「仮面ライダーが連続殺人/ショッカー数百人を撲殺」
「改造者『まさか…』絶句/凶行、止められず」
「校長『おとなしい子』/教育委員会に衝撃」

などという言葉が踊っていたらどうなんでしょう。

そういう視点で見たとき、「仮面ライダー」を「アメリカ」に、「ショッカー」を「イラク人」に置き換えるとどういう感想を抱くでしょう。

「アメリカが大量殺人/イラク人数百人を爆殺」
「国連『まさか…』絶句/凶行、止められず」
「米政府『普段はおとなしい』/同盟国に衝撃」

要するに、
「マスコミがつくる世論は『正義』ではない」
ということです。
「正義のヒーロー」も見る角度で「凶悪犯罪者」になる。
「仮面ライダー」を「アメリカ」に置き換えることで、その意味はある程度理解してもらえると思います。

そして、「正義」などどこにも存在しない。
強いていえば、
「時と場所と人によって『正義』は変わる」
ということであり、ある人が
「何を『正義』とするか」
という点に関しては、
「マスコミの報道を鵜呑みにせず、常に自らの頭で考え続けるしかない」
ということだと思う次第です。

読み手も人なら書き手も人。書かれる人もまた人なわけだから、価値判断がズレることだってある。
それでも「世論はマスコミが形成する」という構図ができてしまっている。
その中で、マスコミ批判を展開する人たちがいる。
マスコミも確かに無責任ですが、最も無責任なのは、自らの頭で判断せず、マスコミに一方的に責任を押し付け、毛嫌いする人たちではないでしょうか。

僕は業界の末端に席を置く者として、
「マスコミは正義ではない」
と言い切ってしまいますが、自らは世論に流され、漂うままに漂って、明確な価値判断基準も形成できず、各社の報道内容や報道のスタンスを理解しないままマスコミ批判をして悦に入っている人たちについては
「正義のカケラもない人々」
との烙印を押させていただきたいと思います。

 

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» a momentary digression(閑話休題) [書きなぐソ陪審]
さて現在執筆中のエントリー本編が、当初予定していた客観的考察を削っていっても、まだまだずいぶん長くなりそうでありますので、ここいらでちょいとばかし、3者ブログレスを挟みつつ。 新・えせ記者徒然 の メディアと正義 「場合意識的な善」なるものに関する説明が....... [続きを読む]

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