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2006年4月14日 (金)

メディア・リテラシー

前回の「メディアと正義」に関してですが、あまりの長文とまとまりの悪さから、僕が感じている「メディアの凶暴性」について十分に伝えきれてないように感じたので補足しておきます。

つまり、小兄のフィルターを通した
「なんか変だぞ」
と感じたから、つまり自分が
「これは間違ってるんじゃないのか」
と思った
ことが含まれているかもしれない
「ある角度から見た時の事実の断片」
が最終的には世論の支持を得たわけですよね。
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50085058.html

違うんです。
ある事象が起きる。そこには仮に自治体の首長を含めた10人の人間が関わっていたとしましょう。
その事象の「事実」を完璧に把握するためには、そこに関わる10人の思想や、その背景を作り出した生活環境など、総括的に情報を収集しなければならないわけです。

ここでひとつの大きな壁があります。
人の心の中は覗き込めない。
だから、ある人の発言や行動が、本音なのか建前なのか、外部から見ている者には理解できない。
「事実」「真実」を真の意味で把握するには、「神の視点」が必要となってきます。

そんなこと、可能なのか?
というと、絶対に不可能です。
だから、その事象の中心にいる人に話を聞き、それを記事として表に出す。
だからこそそれは「事実の断片」でしかない。

「事実の断片」というのはどういうことかというと、Aという「断片」は間違いなく存在することが確認できたんだけど、BとかCとかいうものは確認できなかった。
ジグソーパズルの1つのピースでしかなくて、それをもってパズル全体を組み立てることは不可能なわけです。

昨今、話題になってる「メディア・リテラシー(メディアの表現能力)」は、ここで限界を迎える。
いくら自分が真摯に取材しても、それは「断片」でしかなく、僕がつかんだ「断片」は「A」というものだったけど、もしも「B」という断片をつかんでいれば、まったく違う「事実の側面」が浮かび上がってくる。

それをひとつの側面だけで書けば、その側面においては「事実」でも、他の側面においては「事実」ではなくなる。

僕は自分の価値観に照らし合わせて
「これは変だ」
と思い、取材し執筆したわけですが、「変だ」と思ったきっかけは、何らかの「事実の断片」を拾ったからであり、もしも別のものを拾っていたら記事の内容もまったく別のものになっていた可能性がある。
僕が自分が書く記事の中で、善悪の判断をしないのは、それが偏った情報だと認識しているからです

前にもチラッと触れましたが、太平洋戦争。
日本には日本の正義が、アメリカにはアメリカの正義がありました。
いまの日本ではアメリカの正義だけを鵜呑みにして
「日本は間違っていた」
と言い、「中国を侵略した」などと言っています。
ですが、「事実」を見る時にはやはり、あらゆる観点から見なくてはいけない。

日本の正義とはなんだったのか。
アメリカは本当に正義か。
中国の言い分は正しいのか。
朝鮮半島は本当に植民地だったのか。

アメリカの言い分だけを聞いて「これが事実だ」などというのはおかしい。
韓国の言い分だけを聞いて日本が謝罪するのは変ではないでしょうか。
そもそも、韓国が経済発展できたのは、かつて日本領だった時に、日本人の血税で整備したインフラが残っていたからだといわれています。
それでも日本が悪いのか。

そこで自己体験に戻るんですが、ある記事を書きました。
その記事には複数の人物が脇役として登場します。
その脇役が公の場で発した発言をもとに首長にインタビューしたんですが、実は一番悪い奴はその脇役だったりするんです。
汚職すれすれのことをやっていた。神戸市議があちこちに圧力をかけていたとの報道が続いていますが、それと似たようなことをやっていた。
そこで、僕は「議員の口利きを止めさせる方法はないのか」と思い、首長に取材しました。
「圧力に屈する自治体側にも問題があるんじゃないのか」
という考え方です。

微妙ですね。
圧力をかける側が悪いのか、それに屈する方が悪いのか、それともグルでやっていたのか。
僕は「屈する方が悪い」という観点で取材し、執筆しました。
いま話題の神戸市議に関する報道とは逆の視点ですね。

そこで問題提起のつもりで
「このような実態があります」
と記事を書きました。
要するに、「議員の圧力に自治体が屈している」と。
それを読んだ人たちは、「自治体ケシカラン」と騒ぎ立て、口利きをほとんどしたことのない議員も
「自治体ケシカラン」
となって、首長辞職。

逆の記事、つまり「口利きケシカラン」という切り口だったらどうなっていたでしょう。
「議員ケシカラン」
で、リコール請求が出ていたと思います。

僕が読者に望んでいたのは、

「口利きしている議員がいます。それに屈して言いなりになっている自治体があります。どちらが悪いとはいいませんが、自治体は本来、住民のものではないのでしょうか。このような状態を続けていていいのか、考えてみてください」

というもので、記事の内容もそのようなものでした。

ですが、住民側は僕の記事を鵜呑みにし、「自治体ケシカラン」になったんです。
「屈した方が悪い」
という判断ではなくて、
「屈したという報道があったから悪い」
でした。
議員に矛先が向かうことはありませんでした。
その自治体では、いまだに議員の口利きが横行しています。

口利きの内容は
「ワシの親戚を役所で雇え」
などというもの。
そこで再び筆を取りました。
「無茶苦茶な雇用をしている。理由は議員の口利き」
と。
そこでもやはり、「屈する自治体が悪い」という世論に流れました。

これは「世論の支持を得た」といえるのか。
僕が本当に悪いと思っているのは、議員の口利きです。
「何のために議員になったんだ?」
なんですが、あえて「屈した自治体」を主人公に記事を書いた。
そしたら世論が沸き立った。

だから、

つまり小兄は経験則的に世論を感受してい(ると仮定し)て、自身の感じた 「変」 や 「間違い」 を
「見たこと、聞いたことをそのまま書いただけ。それが正しいとか間違ってるなどといったことは一切書いていない」
という極めて中立的な姿勢で 「ある角度から見た時の事実の断片」 として問題提起(それが問題かどうかを含め)し、結果的に世論の支持を得たわけです。
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50085058.html

ではなく、正直なところ、予想外の方向に世論が走っていっただけなんです。
「俺が書いたことは『全て』ではない」
と自分では理解しているんですが、読者はそれを「全て」と勘違いしてしまった。

そして僕という「一人の記者」を「正義の味方」と持ち上げて支持した

支持してくれるのは嬉しいんだけど、僕に言わせれば、
「俺は正義の味方なんかじゃない」
ってとこですかね。
なぜならそこには「メディア・リテラシー」が存在するからです。

新聞に書いてあることは、あくまでも「事実の断片」であって、「事実の全容」ではない
全容など書ききることは不可能。
それを理解していない読者が多過ぎる。
メディアの限界、読者の限界、というやつですかね。
 

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