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2006年4月30日 (日)

隣は何をする人ぞ―民主主義論6

前回の「日本には共産主義がふさわしい」の続きです。

以前にも一連の「民主主義論」の中で触れていると思いますが、僕はイデオロギーには必ず背景に宗教があると思っています。

「日本は無宗教国家だ」などと言われますが、僕の考え方としては「違う」と思っています。その点の考察については拙いながらも「日本は無宗教国家か」を参照していただくとして、端的に表現すると、
「日本独自の宗教観があまりにも深く根ざしているから、自覚症状がないだけだ」
というものです。

イザヤ・ベンダサン(故・山本七平氏)による「日本人とユダヤ人」では、僕とはアプローチの違いはあれど(当然、山本氏の方が僕なんかよりはるかに深い洞察をされております)、やはり日本には日本独自の宗教観がある、として、それを「ニッポン教」と名付けています。

僕も山本氏に敬意を払い、今後は「ニッポン教」と呼ばせていただきます。
ただし、借りるのは名称だけで、あくまでもアプローチの仕方は違います(と、自分では思っています)

さて、「ニッポン教」とはいかなるものか。

世界には様々な宗教があります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、道教、儒教…
それらの「宗教名」についてですが、ここはひとつ、人に置き換えて考えてみましょう。

世界に人類がたった1人しか存在しない状態を想像してみてください。
果たして「名前」は必要でしょうか。
「オレ」「ボク」「ワタシ」などといった一人称すら必要ないと思います。
でも、2人以上になると、他者と区別するための「名前」が必要となってくるわけです。

宗教でも同じことではないでしょうか。
ある民族がいる。
その民族は共通した宗教観を持っている。
そこに「我々の宗教は○○教だ」などと名前をつける必要などないはずです。

宗教の原始形態は、アニミズムですよね。いわゆる自然崇拝。
それはどの地域でも同じです。
崇拝の対象に名前をつけることはあっても、崇拝形態(いわゆる宗教)に名前をつける必要はなかった。

でも、そこに「唯一絶対神」を掲げる宗教が誕生した。
古い土俗宗教と、新興宗教とを区別する必要が生じた。
そこで、新しい宗教を「ユダヤ教」と呼ぶようになった。

ある時期に、ユダヤ教を発展させた「ユダヤ教の新派」が誕生しました。
その新派は、当初はあくまでも「ユダヤ教の一派」だったんですが、あらゆる経緯からユダヤ教からの独立を果たします。
それまでは「ユダヤ教キリスト派」でよかったんですが、ユダヤ教から独立したために、ユダヤ教と区別するため、「キリスト教」と名付けられることになりました。

要するに「名前」とは、あくまでも他者と区別するためのモノであって、区別する必要がなければ名前など付ける必要はない、と思いませんか?

日本という国はまさにそうだと思うんです。
「仏教」とか「神道」なんかがありますが、それ以上に深層心理に根付いている思想がある。
それは日本人すべてに共通する概念で、おまけに島国だったから、
「オレは○○教徒だが、あの人は△△教徒だ」
などと区別する必要がなかった。
だから「ニッポン教」には名前がつかなかった。

つまり、日本は「無宗教国家」ではなく、「名無し宗教国家」ということができると思います。
「宗教観」はあるんだけど、その「宗教」に名前がついていないし、つける必要もなかった、という意味。
でも、ややこしいので山本氏の言葉を借りて「ニッポン教」と呼ぶことにしよう、と。

さて、「ニッポン教」の”教義”をズバリ一言で表すと、
「隣の人と同じことをする」
というものではないかと思います。

アメリカには行ったことがないんですが、仄聞するところによると、
「いかに人と違うことをするか」
という点が大切だそうです。
「あいつはこんなことを考えているが、オレは違うことを考えている」
ということが言える環境があり、また、そうすることが大切なんだそうです。

言い換えれば「個性」こそが至上であって、「人と同じ」ではダメなんだ、ということですね。
だからこそ新形態のベンチャー企業が次々と登場する。

一方の日本では、とりあえず人と同じことをしていればいい。
「中学を卒業して、高校に入って、経済的に余裕があれば大学に入って、一般企業に就職する」
そのレールから外れた人間は「偉大」になるか「落伍者」の烙印を押されるかのどちらかでしかない。

過日、堀江氏が保釈されました。
「人と違うことをする」「既成概念をぶち破る」
最終的には…というか、現時点では「金儲け主義」と言われていますが、堀江氏の思想の根底にあるものは、
「人と違うことをする」
だったのではないかと思うんです。
だから、世論から袋叩きにされた。
僕は堀江氏は好きなタイプですが、逮捕以降、
「あいつキライ」
と拒絶反応を起こしている人も多いようです。

それもこれも、やはり
「堀江氏は人と同じことをしなかった」
ということが理由なのではないか、と思っています。

「人と同じことをする」
この端的な例が「隣百姓」だと思うんです。
「お隣さんが田植えを始めたから、うちも始める」
最初に田植えを始めたのが誰かは分からないけど、とりあえず、
「理由は分からなくても、人と同じことをしていれば、結果的には上手くいく」
ですね。

外食店に入って、
「オレ、カツどん」
「オレも、オレも」
「じゃ、オレも」
「それならオレも」
という場面には少なからず遭遇したことがあると思います。
これを「主体性がない」という人もいますが、僕は
「人と同じことをする」
という判断が働いている段階で十分に主体性があると思います。

もしも失敗すれば、全員が失敗する。
成功すれば、全員が成功する。
誰か一人だけ得をすることはない。
そうすることで、ねたみそねみ、嫉妬などのネガティブな感情は起こらない。

聖徳太子が唱えた
「和を以って貴しとなせ」
とは、一義的には

「話し合って物事を決めましょう」

ということで、その後に続く文章も
「話し合って合意したことはすべて上手くいく」
という内容なんですが、これも言い換えれば、
「話し合って、人と価値観を共有して同じことをすれば、全員が同じ結果を得ることになるから、ネガティブな感情は起こらない」
イコール、戦争などで国土を荒廃させることもなければ、政治闘争で血みどろの争いをすることもなくなる、ということなのではないのかな?

いいこと、悪いこと、全部ひっくるめて
「だって、あいつだってやってたじゃん」
に落ち着くわけですから。

居酒屋にて、
「とりあえずナマ」

これは、
「みんなが生ビールを飲むから、俺もそうしよう」
「俺も生を飲むから、みんなもそうするだろう」
などといった理由なんではないでしょうか。

上記の具体例は、書きながら思いついたことを挙げただけなので、他にも
「他の人と同じことをする」
という場面は、意識して観察すると、日常生活でとんでもなく多くあると思います。

かく言う僕自身も、いままでサイトをやっておきながら、ブログを始めたのは、
「とりあえず、みんながやってるから」
に他なりません。
そもそもパソコンだって、
「みんなが持ってるから」
買っただけの話。

メーデーの季節です。今回のテーマは「格差」だそうです。
資本主義社会において、「格差」なんて生じて当たり前。
なのに、「格差」がクローズアップされる。
なぜでしょう?
書きなぐソ陪審の「保護産業」にもありますが、

不況下の元では、労働者は必然的に労働環境の悪化を迫られることもしばしば起こります。
労働組合が「もっと保障を」と叫んだところで、企業業績が上がらなければ現実的に無理だからですね。

です。僕もまったく同意見です。それが資本主義の姿ではないでしょうか。
でも、今回のメーデーでは、

「パート従業員も正社員とほぼ同じ仕事をしているのに、給与格差が激しい」

などといった発言が見受けられました。
ここで注目すべきは、給料が高いだの低いだのではなく、
「ほぼ同じ仕事をしているのに」
の部分だと思います。
「同じことをしているのに結果が違う」
これは、日本人の宗教観から考えれば、
「理解できない現象」
でしょう。

「同じことをしていれば、同じ結果が得られるはずなのに、そうなっていない」

能力主義も資本主義も関係ありませんね。
「同じことをしているのに」
だけが問題なんです。
「同じことをしているのに、結果が違う」ということがニッポン教では「許されないこと」になる。

でもね、日本国内ではそれでいいと思うんです。
「隣の人と同じことをする」
という生き方で。
でも、国際世界で同じことをやっちゃったら、必ずひずみが生じる。
「欧米がやってるから日本もやろう」
という考え方で資本主義社会が導入されたけど、あちらの富裕層の持ってる金って半端じゃない一方、貧困層はすさまじい貧困にあえいでいる。
それが資本主義です。

「格差がイヤ」「隣と同じじゃなきゃイヤ」という日本人の精神性を考えると、資本主義社会は日本人には向いていないとしか言いようがないと思うんですが、どうでしょうか。

やはり共産主義がふさわしいのでは…
 

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コメント

堀えもんの事何故か私も嫌いではないのです。
何故でしょうね?

投稿: わこ | 2006年12月26日 (火) 17時31分

勢い、でしょうかね。
僕も含めた今どきの男には珍しい気概がある。
嫌ってる人たちは、
「違法行為をしたから」
とか
「金の亡者」
とか、いろいろ理由つけますけど、
「自分ができなかったことをする奴」
ってのは、好かれるか嫌われるか、どちらかしかないんだと思いますよ。

投稿: 小兄 | 2006年12月27日 (水) 03時38分

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