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2006年4月 2日 (日)

日本は無宗教国家か―民主主義3

またまた大仰なタイトルをつけていますが、前回の「平等とは」、前々回の「社会システム」の続きです。

宗教とは直接関係ない言葉なんだけど、僕がこよなく愛してやまない言葉(漢詩)にこんなのがあります。

「年々歳々、花相似たり、歳々年々、人同じからず」
(年月が経ても咲く花は同じだけど、その同じ花を見る人は年月とともに変わっていくんだなぁ、という意)

小学校の時に出会った漢詩でした。その意味を知って深く感銘を受け、今では座右の銘…というと大げさですが「好きな言葉トップ3」には入ってますね。
(ちなみに座右の銘は「彼も人也、我も人也」です。人にできることは自分にもできる、という意)

「年々歳々~」とは何とも無常観を漂わせる言葉ではないでしょうか。
自然の営みは半永久的に変わらない。でも世代が変われば、その自然の営みを眺める人も変わっていく。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」
にもどこか似た雰囲気があります。

平家物語の冒頭のこの言葉、これを聞いて「無常」という感覚、あらゆるものは移ろいゆくものなのだ、という感覚を抱かない人は、日本人には存在しないと勝手に思ってます。

問題はその「無常」という感覚なんですが、これは仏教独特のもの。
いわば外来宗教が日本に深く根ざし、意識せぬ間に定着してしまった。
【追記・4月3日】そのような感覚を受け入れやすい精神的土壌があった、ということです。

要するに、日本における「宗教」とは、非常に感覚的なもので、僕が感じるに
「自然の成り行きには逆らわない」
というものではないかと。

さて、今の日本は「無宗教国家」などと呼ばれています。
果たしてそうなんでしょうか。

それを考える際に「宗教とは何か」を考えるべきではないかと思うわけです。

日本にはもともと「神道」なるものが存在しました。
仏教はインドで誕生し、中国の道教思想と混合し、「中国仏教」に変質しました。
それが朝鮮半島を経て日本に渡来し、「神道と仏教の融合」が図られました。
聖徳太子の「本地垂迹説」です。

そのような流れから、「日本仏教」なるものを解体してみると、
オリジナル仏教+中国道教+神道
となります。

では日本古来にあった「神道」とはいかなるものか。

これはもともと「神惟(カンナガラ)」と呼ばれていたものです。
仏教の伝来により、仏教と区別するために「神道」という言葉に置き換えられた。
つまり、「神道」とは字句通りの「神(が定める)道」ではなく、
「神とともに生きる」
という意味ではないかと推測しています。

さて、その「神道」ですが、天皇を頂点として、天皇を崇める宗教だと誤解されがち。
でも、この考え方は、明治維新後、「国家神道」が成立してからのものだと考えています。
(首相の靖国参拝が問題視されるのは、「国家神道」と「神道」の区別がついてないからではないかと…)

しかし、いろいろと調べていると、どうもそうではないらしい。
天皇は単なる祭祀者であって、
「天皇を崇める宗教」
ではなかったのではないか、と感じられる。

そこで
「じゃ『神道』における『神』ってなんだ?」
という疑問が沸いてくると思うんですが、古来、日本人は人間のことを「分霊(わけみたま)」と呼んでいました。
「神」とは「霊(たま)」が渾然一体となっている状態のこと。
言ってみればユングが提唱した「集合的無意識」みたいなもんで、その巨大な集合的「霊」が分離して実態を持ったのが「人間」である。だから「分霊」。
従って、「神」という字句よりも「カミ」と書いた方がより理解しやすいかと思います。
「別物なんだ」
という意味で。
(ここではあえて「神」と表記していますが)

つまり、何を言いたいのかというと、日本人のDNAには、その「分霊」思想が刷り込まれているんじゃないか、ということ。
「人とは神(霊の集合体)から分離したもの」
という思想。

神道の解説書なんかを読んでいると、人の根本的性質は
「赤き、清き、直き、正しき(存在)」
とされていた、とあります。

要するに、日本では「人」=「神の分身」であり、「神」とは「人」の内部に存在するもの。
外部に「神」を求める一神教とはものの考え方がまったくもって違う。180度違う。

一神教…「神が人を創った」
日 本…「神とは人そのものである」

ここから民主主義論に入っていきます。

前回にも書いた通り、
「『平等』とは唯一絶対神との距離を指す言葉で、『神』と『人』との距離が同じである、という思想に基づくもの」
です。

じゃ、日本はどうか。
「『神』=『人』である以上、『神』と『人』との〈距離〉なるものは存在しない」
といえるのではないでしょうか。
日本にあるのは
「『神』イコール『人』であるなら、そこにあるのは『人』と『人』との関係だけ」
となるはず。

つまり、神は唯一絶対であり、そこから人との距離を測ることは可能。なぜなら、そこに揺るぎない
「絶対性」
があるから。
でも、神があちこちに存在する日本では、神と人との距離は測れない。なぜなら、そこには
「絶対性」
は存在せず、
「相対性」
しか存在しないから。

「平等」という概念が「絶対性」に基づくものであれば、「相対性」しかない日本では「平等」はない、と僕は結論づけてるわけです。

「あいつも神、オレも神なんだから、同じように扱え」
それが日本人の根幹を流れる思想。
だから、隣人の顔ぶれが変われば、
「同じように扱え」
の内容が異なってくる。
そこには「隣の人と同じ」という「公平性」はあっても、「みんな同じ」という「平等性」はない。

前回の冒頭に書いた

「彼は足が遅いから、速い人と一緒にゴールさせましょう」

ですが、それは「足が遅い人も速い人も『人』という名の『神』だから、同じように扱いましょう」という発想ではないんでしょうか。
日本人はすべからく「霊」、つまり「神」の分身なんだから、同じように扱わなければならない、と。

日本人の根底にそのような思想があるからこそ日本では
「お手々つないで一緒にゴール」
が、感覚としては正しいような気になり、それを実践してしまう。

ということで、「日本は無宗教国家か」という点については、
「日本古来の宗教があまりにも感性に密着しすぎているため、宗教を意識できないレベルになっている」
言い換えれば、
「日本人の宗教観は他国に例を見ないほどに強烈」
といえるのではないかと思う次第です。

ちょっと民主主義とは離れているような気がしますが、民主主義が宗教観に基づいたものである以上、宗教を語らずして社会システムを考えることはできないのではないか、と思って書いてみました。

まだまだ僕が「日本における民主主義の否定」に至る道筋の半分も書ききれていませんので、非常に分かりにくい論旨になっていますが、しばらくはこんな調子で続く予定です。

 

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