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2006年5月15日 (月)

日本代表

サッカーのワールドカップ日本代表の23人が発表されましたね。
興味のある人は既に知ってるだろうし、興味のない人は見ても分からないだろうから、リストアップしませんけど、久保が落ちて巻が入ったのは驚きました。
記者会見でも、ジーコ監督が巻の名前を挙げたときだけ会場が「うぉー」とどよめいてました。

確かにサプライズだけど、お前ら露骨に驚きすぎぢゃねーのか、と。

さて、僕の仕事は新聞の編集です。6月9日からはワールドカップ専属班のサブ・リーダーとして仕事します。当然、今日の発表も興味津々で見入っておりました。

発表されてから書くのもなんですが、僕の予想では、FWは久保、高原、玉田は当確、佐藤寿と巻のどちらかがダメだろうと思っておりました。個人的には佐藤の動きが好きだから、佐藤の方がいいかな、と思ってたんですが、直前のブルガリア戦やスコットランド戦を見てると、巻は驚くような飛び込み方をする。
「こいつ、怖いとか、怪我するかも、とか考えてないんじゃねーのか?」
と感じまして、「佐藤よりは巻なのかな」と考えておりました。

Jリーグには目もくれず、国際Aマッチしか見ない僕がほんの数試合見ただけであーだこーだと論評すると、真のサッカーファンの方々からはお叱りを受けそうですが…

それはさておき、今日の発表ですが、事前に号外を出すことが決まっておりまして、ワールドカップ班のデスクが発表前に見出しをつけておりました。
主見出しが
「日本代表に中田英、中村ら」
で、それは誰もが予想する範囲なんですが、問題は2本目の見出し。

デスクいわく、「俺はワールドカップ担当デスクだから、誰が代表にふさわしいかぐらい分かる」と。
だから、僕がその2本目の見出しに、「これは違うと思う。別のを選んだ方がいい」とケチをつけると、
「お前はJリーグも見てないクセに、代表戦だけ見て勝手なこと言うな」
と言い返されました。

その2本目の見出しですが、

「玉田、巻は落選」

巻は仕方ないと思うんです。でも、玉田の動きを見て、「玉田は選外」と思った根拠って何なんだ? でしたね。そりゃ、いまは決定力に欠ける感があるけど、あの突破力はすごいと思いますよ。ええ。
あれで枠内シュートが打てるようになって、さらに突破からシュートまで1人でやっちゃうんじゃなくて、もうちょっと他にボールを回して、中田、中村、小野、福西、加持、三都主らと連携すれば、抜群の破壊力が生まれるように思うんです。

だから、デスクは「玉田は外れる」って前からしきりに言ってたけど、僕は確実に入ると思ってました。
ところがところが、デスクは号外用のメンバー表に、巻どころか、玉田も入れてなかった。
編集フロア大混乱。

Jリーグは知らなくても、ワールドカップを知ってれば、「勝つためには何が必要か」ぐらい分かると思うんですけどね。

んでもって、号外発行前、10人ぐらいの部員が集まって、あーでもない、こーでもない…とやってたんですが、発表時に日本代表のリストを持って、名前を読み上げるたびにチェックを入れていってたのは僕1人。
僕にとっては、巻と久保以外はほぼ想定内だったんですが、それ以外の人たちにとっては想定外のメンバー。

「誰がメンバーに入ったんだ!」
「すみません。聞き漏らしました!」
などといった会話が響く中、
「メンバー表に玉田が入ってないぞ!」
という僕の声に
「玉田が入るわけねーだろ!」
との怒声。

もうね、お前ら、「号外出すぞ」とか言って10人以上も集まっておきながら、いったい何やってんだ? って感じでした。

まぁ、「自分は分かってる」「俺はデスクだから間違わない」と思ってるデスクほどタチの悪いデスクはいませんね。
ドイツ大会、あのデスクと一緒に仕事するのかと思うと、始まる前からウンザリしてます。

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2006年5月 9日 (火)

偶像崇拝禁止の理由


またまた宗教の話です。が、今回は一連の社会システム論とはちょっと離れて、純粋に宗教の話。

当方にTBをいただいております「心の幸福と宗教の世界」の中の「偶像崇拝と啓示宗教」に興味深い部分があったもので。

反論するというわけではないんですけどね、何をどう信じようが個人の自由ですから。
「おまえ、間違ってるだろ!」
という前に、僕の方が間違ってる可能性だってあるわけだし。

という前フリをしておいてから、「なぜ偶像崇拝はダメなのか」を知ってる範囲で書いてみたいと思います。
上記ブログの管理人さんは

「啓示の主」の声は聞こえるようですけれど、姿形はハッキリしないようなのね。だから形に表せないのではないのかな。

「啓示の主」を偶像で表せないのだから、偶像を禁止したのでは???
仏教はお釈迦様の説法だから、お釈迦様の姿形を表せばいいの。

と書いておられます。その前段に「どのように啓示が行われるのか分からないが、啓示する神は姿を現してないのではないか(だから姿が分からない)」といった旨のことを書かれておられます。

でも、聖書には「神は自らの姿に似せて人を造られた」と書いてあることから考えるに、神とは人間の姿をしている、もしくは人間に極めて近い姿をしている、と考えるのが妥当でしょう。
ただ、人間ではないし、啓示(預言)の際も、神はキリスト、ムハンマドともに天使・ガブリエルを遣わせたといわれています。キリストの方はガブリエルだったかどうか、明確に覚えてないけど、ムハンマドはガブリエルです。

だから、「姿形がハッキリしない」という部分はその通りですね。
でも、それなら天使・ガブリエルの像を作ればいいわけだし、それでも無理なら石ころを拝んだって構わないはずなんです。

ちなみに「偶像」と呼ばれていますが、これは(少なくとも僕が理解する範囲では)
神・仏の姿をした像」
という意味ではありません。
「偶像崇拝禁止」というのは、「モノを拝んではならない」というものです。
石ころを拝むこともまた「偶像崇拝」の範疇であり、それが牛や豚、サルの像でも、それを拝むことは「偶像崇拝」です。

コメント欄に「アルバイシンの丘」の管理人さんが以下のように書かれております。

仮に偶像を作ったとします.すると,その偶像が人々の心にそれぞれ違ったイメージを想起させることがあるのではないでしょうか.それが一神教にとって困るのは,一神教の唯一の神が様々にイメージされるとそれぞれ別の神になっていくきっかけとなるかもしれないからです

上記ブログの中の「宗教と人間の脳との関係③」にも同じような内容があります。

じゃ、石ころを拝んだらどうなるんだ?
「これはムハンマドが座った石だ」
「これはキリストを包んだ布だ」
とか言って、それを拝むことはどうなるんでしょ?
僕から見れば、それもまた偶像崇拝です。

僕が様々な文献を漁る中で理解している「偶像崇拝禁止」の理由は、
「唯一絶対神以外を崇めてはならない」
です。
神の姿を想像して像を作っても、それは「神そのもの」ではないから、それを崇めることは「神以外のものを崇拝している」ということにつながってくるわけです。

さて、では「キリスト像」「マリア像」はいったいどうなるんでしょう?
結論から言えば「偶像」です。
なぜかといえば、いわゆる「三位一体説」ですね。神とイエスと精霊は一体のものである、という説。
「アルバイシンの丘」さんは「パウロが苦心して…」とかかれておりますが、これはイエスの死から数百年後、ニケーア大会議で採用された説です。
それまでは、神が唯一絶対である以上、イエス信仰はおかしい、という「正論」もありましたが、実権を握っていたアナスタシウス派(だったと思う)の主張が全面的に受け入れられ「確定」したわけです。

だけど、本当に「三位一体」であれば、イエスも神なわけだから、その偶像を作って拝んではならない、という話になるはずではないんでしょうか。
これが、僕が「イエス像を拝むことは偶像崇拝だ」という根拠です。

イスラムでは、ムハンマドは自らの像が建てられた時に、それを叩き壊すように命じています。
崇拝すべきは自分ではない。自分はただの預言者であり、拝むべきものは神だけだ。
神は「万物の創造主」であり、被創造物の人間ごときが神の像など作ることはできない。

つまり、
神>人間(被創造物)>偶像(被創造物による創造物)
という序列があるわけで、上にも書きましたが、偶像を崇めるということは、神以外のものを崇める、ということなのではないでしょうか。

ところが、キリスト像もあればマリア像もあり、信者に絶大な人気を集めている。
イスラムではあり得ないことです。
イスラムがキリスト教を認めないのは、様々な理由がありますが、この「キリスト像崇拝」もその理由のひとつだそうです。
「神とイエス? おまけにマリア信仰? それじゃ多神教じゃねーか」
ですね。

キリスト教vsイスラムの話は後日に譲るとして、偶像崇拝の話に戻します。

なんだかんだ言っても、やはり宗教は信者がいて初めて成り立つものだから、信者獲得のためなら何でもします。
ぶっちゃけ、イエスの存在ってユダヤ教の範疇をこえないんですよね。
「ユダヤ人のための宗教」か「全人類のための宗教」かという違いかな。

ところが「ユダヤ教キリスト派」の中には「教会を作って支配勢力と対抗しよう」と考えた「政治家」がいた。それがアナスタシウス派です。
信者獲得のために最も手っ取り早い手段は、というと、
「目に見えるものを拝ませる」
ですね。
「これが神様なんだよ。この人が人類を救ってくれるんだよ。だから拝みなさい」
です。
現代人、それも日本人の感覚で考えてはいけません。
昔は識字率も低く、自然環境も厳しく、人々は日々の糧を得るのが精一杯だったわけです。
いわゆる「愚民」。
といっても、もともとの人間の質が低かった、というわけではありません。アナスタシウス派が仕組んだことです。

マリア像もイエス像も、その他、あらゆる宗教芸術も、「信者獲得」という政治の手段だった、と考えるのが分かりやすいのではないか、と。

僕が感じるに、ユダヤ教キリスト派から「キリスト教」として独立した宗教は、正確には「教会教」とでも言うべきで、キリストが何したとか、どんなこと言ったとかってあんまり関係なくて、ともかく「教会の言うことは絶対である」が大前提。

だから、教会側が「イエスは神の子だ」と言えば、それが正しいことになってしまう。
なぜならば、「イエスがそう言ったと聖書に書いてあることにしておけ」と命じてしまうから。
識字率が低かった当時、司祭ですら聖書を読めなかったといいますから、聖書にいったい何が書いてあるのかなんて、ほんの一部の人しか知らない。

宗教革命はグーテンベルグが印刷機を発明し、聖書が各国語に翻訳、出版されたことで成功したと言われています。教会側の言い分に対し、
「そんなこと、聖書には書いてないじゃないか!」
というのがプロテスタント側の言い分。
ただ、そのときには既に聖書には「イエスは神の子」と記されてしまっていたので、それは認めざるを得ない。

アナスタシウス派は、自分に都合の悪いものはすべて焚書し、新約聖書にはアナスタシウス派に都合のいいことしか書いていません。
前にどの記事かで書いた記憶があるんだけど、アナスタシウス派がそういうことをしたもんだから、いま僕らが知っているイエスの軌跡というものは、捏造されたものである可能性が高い。
だから、焚書を免れた死海文書なんかに違うことが書いてあると「偽書だ」などと言われてしまう一方、アナスタシウス派の暴挙とも呼べる行為を知っている冷静な人たちは熱心に研究を進めているんですね。

巷では「ダ・ヴィンチ・コード」が大ベストセラーになっています。
途中が面白いので、結論を書いて差し支えないと思うから書きますけど、
「イエスはマグダラのマリアと結婚し、子どもをもうけていた」
というお話。
同書に出てくる「オプス・デイ」なる団体が抗議していますが(悪者として書かれているので)、もしかしたら、著者のダン・ブラウンが書いていることは事実かもしれない。
でも、焚書されているから、真相は分からない。

なぜ偶像崇拝を許したのか、という点に関して、もうひとつ。
当時は多神教が当たり前だったんです。
多神教では偶像を拝みます。
それらの信者を転向させるにはどうすればいいか。

偶像を使えばいい。

「何かを拝まないと気がすまない」
という人たちだっているわけで、そういう人を信者にするには、やはり偶像を使わなければならなかった。
それによって、「多神教の神」の一部として「イエス」「マリア」という存在を紛れ込ませ、その後に教会(アナスタシウス派)が強力な圧力をかけて、完全に転向させる。

だから、神の姿がハッキリしない、とか、様々なイメージを起因するとか、そういう意味じゃなくて、イエス像崇拝は明らかに偶像崇拝なんだけど、それは信者獲得の手段であった、と考えています。

イスラムは、というと、偶像崇拝は厳密に禁止されています。
ただ、僕が疑問に思うのは、隕石が祀られているというカアバに巡礼に行く、という行為は偶像崇拝にはならないのか? という点ですね。
カアバはイスラム以外立ち入り禁止なので、カアバでどのようなことが行われているのか知りませんが、隕石を拝んでいるなら、それはやはり、厳密な意味での「偶像崇拝」に相当するんじゃないのかな?

偶像崇拝と宗教の世界」には、仏教は偶像崇拝の宗教だ、みたいなことも書いてましたが、ゴータマ・シッダールタは偶像崇拝を禁止しています。
その戒律は開祖死後、しばらくは守られていましたが、やがて崩れました。
やはり、人は「目に見えるもの」を拝まないと気がすまない生き物なんでしょうね。

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2006年5月 7日 (日)

アクション映画

トニー・ジャー主演の「トムヤムクン」ってアクション映画がロードショー中ですね。
もうすぐ終わりますけど。

うちの近所では上映してる映画館がほとんどなくて、DVD出るまで我慢することになりました。
トニー・ジャーって言われてもピンとこない人が多いかもしれませんが、タイ映画界のアクション・スターです。ジャッキー・チェンのムエタイ版。
マッハ ! プレミアム・エディション」でブレイクしました。
初めて見た時はもの凄く感動です。

ホントに人間かよ…

って感じで。

先日、マッハ!のDVDを見てたんです。何回見たか分からないほど何回も見てます。
ストーリーにケチつけたらキリがないほど粗い映画なんだけど、ストーリーなんてどうでもよくなるほどアクションが素晴らしい。

でも、最近はアクション映画ってマッハ!しか見てなくて、久々に違うアクション映画を見たくなったんです。といっても、ハリウッドのような銃声響きまくり、車暴走しまくりのアクションってあんまり好きじゃないし、やはりマッハ!を見た後となると、どうしても
「肉体の限界に挑む」
って感じのものを見たくなってね。

選んだのは、ジャッキー・チェンでした。
それもかなり初期の作品。「少林寺木人拳 」です。

ジャッキー・チェンの映画って、タイトルは覚えてないけど、おそらくほとんど見てると思うんです。
中学時代の友達がジャッキー・チェンのファンだったものでして。
「懐かしいなぁ」
と思いながら見てて、でもなぜか木人拳は見た記憶がない。
見たことがない映画なのに、なんで懐かしいんだろ? と考えてみて、思い当たることがひとつ。

ジャッキー・チェンの映画で、特に昔のものって、ぶっちゃけ、ストーリーなんてどうでもよくね? って感じですよね。

ラッシュアワー とか、シャンハイ・ヌーン とかはそれなりに面白かったけど、結局はアクションがいいからストーリーがどんなにくだらなくてもそれなりに評価されてるんじゃないかな?

んでね、詳細はともかくとして、過去に見たジャッキー映画の筋書きをつらつらと思い出してたんです。

とりあえず冒頭で舞台設定をハッキリさせる。
主人公はどんな人物で、どのような境遇に置かれてるのか、って部分ね。
観客はそこで交わされる会話やら、ジャッキーの仕草やらで先のことを予測するんですけど、でも期待してるのは最後のアクション・シーンだけだし、それがあるのは分かってる。それも、時々、ジャッキーが負けそうなシーンを挟みつつも、最後には必ず勝つ、という構図も分かってる。

その辺は世界に冠たるエンターテイナー、ジャッキー・チェン。冒頭とラストまでに観客を疲れさせないように、それなりのアクション・シーンを所々に散りばめます。
だけど、ストーリーは毎回ほぼ同じパターンだから、僕の記憶には残らない。

「このストーリー展開はどこかで見たことがある」

しかも主演が同じだから、どれがどの映画か分からない。
ただ、アクションのパターンはちょっと違う。

この手法って、アダルトビデオと一緒じゃないっすか?

冒頭がどんなシーンだろうが、最後は必ずやっちゃって、いっちゃう、というやつ。
正直、僕は女優が脱ぐまでは早送りです。
でも、「これは映画だ」と思って見てると、それなりに面白いストーリーもある。

ただ、DVDになってからはいただけませんね。
収録時間が長くなったからか、昨今の監督はダメ監督が多いのか、
「どーせお前ら、ヤるとこしか見てねーだろ」
って感じの作品が多すぎる。
最近の肉体派アクション映画がCGやワイヤーに満ち溢れて陳腐化してるのと同じような現象でしょうか。

「4時間収録!」
とか言われてもねぇ。
そんなにヒマじゃねーよ、って感じですよね。
仮にヒマでも、
「日曜日は何してた?」
って人に聞かれて、
「とりあえず4時間ほどエロビデオ見てました」
とは答えたくないし。

ところで先日、「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 」って本を読みまして…

という話を書こうと思ってたんだけど、トニー・ジャーから書き始めたばかりにこんな内容になってしまいましたので、また後日。

 

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2006年5月 5日 (金)

漠然と―宗教のゲーム化3

僕は本を手放せません。
常に「いま読んでる最中」という本が3冊ぐらいあります。

・通勤の電車内で読む本。
・帰ってからベッドに寝転がって読む本。
・便所や風呂で読む本。

「本が好き」というと、「どんな本を読んでるの?」と聞かれるんですが、宗教関係の本が圧倒的に多いんですよね。
だからといって
「宗教の本を読んでます」
と答えると、相手は必ず「えっ!」という反応を返してきます。

もうね、日本では
「宗教=危ない」
という認識しかないようで、
「宗教に興味がある」
ということと、
「○○教の信者である」
ということの区別がつかない人が異様に多い気がします。

だから、いつも「歴史関係の本が好きですねぇ」なんて誤魔化してるんですが。

と、そんな前置きはともかくとして、宗教ゲーム構想について、漠然と考えていること。

「ユダヤ教」とか「イスラム」とか…もっといえば「アブラハム」「モーセ」「キリスト」「ムハンマド」などといった名は出さない方がいいのではないか、その方が面白いんじゃないか、と感じています。

ある特定の宗教が世に出る時って、どんな感じなのかと過日、ぼんやり考えていました。
いま通勤中に読んでる本がべらぼうに面白くて、その中の記述をヒントにそんなことを考え始めました。
(書評は後日、読了後にでも…)

まず、多神教(というか、土俗宗教)の民族がある。
その中から1人、変なことを言い出す人間が、ある日突然出現する。
その人が言うことを、民族やらコミュニティーが信じるかどうか。

人間をいくつかのパターンに分けて、それをパラメータ化する。
そこに遺伝要素を組み込む。
例えば「保守的で頑固」な男と「革新的で柔軟」な女が結婚して子どもを生むと、「保守的だが柔軟」な子どもが生まれる、みたいな感じで。

んで、その一般人の結婚と増殖については、プレーヤーは関与できず、コンピューターに勝手にやらせる。
プレーヤーは「開祖」となって、
「多神教だが、最高神を定める」
とか、
「多神教の伝統を盛り込みながら、一神教を確立する」
とか、いくつかの選択肢から選び、新たな宗教を興すわけです。
そして、信者を獲得していく。
特定の民族集団で満足できる信者数を獲得できなければ、他の土地に赴いて布教活動を行うことも可能。

時代の経過を少し早くして、1年を1分ぐらいで、計5000年ぐらいかな?
ただ、その間にはコンピュータ側も次々と「新興宗教」を興していく。
プレーヤーは、どのタイミングでどのような宗教をどこに興すか、が大きなポイントとなってくる。

宗教を興し、一定の信者数を獲得すると、あとはどのように信者が広がるか、そして、世界がどのような結末を迎えるのか、を観察する、と。

現実世界において、後の世界に多大な影響を与えた人物を挙げろ、といわれれば、キリストとムハンマド以上の人物はいないわけで、ゲームにおいては、プレーヤーはキリストやムハンマド並みに後世に影響を与え続けることができるのか、という視点ではいかがでしょう?

とりあえず、プレーヤーは預言者になれる、という視点で考えてみるのもいいかな、と。

そして第二部では、第一部で展開された世界の宗教地図をもとに、今度は一市民として、
「どの宗教を選ぶか」
「その教義の中でどのようなことをするのか」
という構成かな?

まぁ、もの凄く漠然としてるけど、なんかいいアイデアがあったら教えてください。

 

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2006年5月 4日 (木)

花粉症―マイノリティーの苦難

いまや日本人の10人に1人が花粉症といわれています。
と、↓のページの下のほう、「花粉症対策ブック」の紹介文には書かれています。
http://www.kyowa.co.jp/kahun/data/index.html

ということは、実に日本民族の10%が花粉症、ということになりますね。
でも、↓のページには
http://www.kyowa.co.jp/kahun/about/index.html

現在、日本人の約20%が花粉症だといわれています。

5人に1人じゃねーか!
計算があわねーじゃんよー!

と、些細なことで怒っても意味がないんですが。

さて、一般的には花粉症ってスギ花粉がメジャーですよね。
テレビや新聞で「明日の花粉予報」ってやるのも、ほとんどがスギ花粉です。
そんなもんだから、花粉症ではない人たち、言ってみれば殴っても蹴っても刺しても死なないような、超健康優良児(簡単にいえば健康バカ)からみれば、
「花粉症=スギ花粉。それ以外は認めない」
という構図が頭の中で出来上がっているようです。

でも僕はいつもゴールデン・ウィークが始まるころぐらいから症状が出始めます。
上記に貼り付けてあるページが含まれるサイト
花粉症ナビ
をみるまでもなく、花粉なんてものは一年中、日本の大空を勝手気ままに飛び回っているわけで、いつ症状が出てもおかしくない。

もともとアレルギー体質なので、ちょっとしたことで非常に敏感に反応するんですが、なぜかスギ花粉ではほとんど発症しません。
でも、5月上旬やら、10~11月ごろはもの凄く苦しみます。

「花粉症ナビ」をみると、どうやら僕はイネ科の花粉とブタクサの花粉に反応するらしい
だから、スギ花粉と時期がずれても、本来なら不思議でもなんでもない。
「そういう体質なんだ」
というだけの話です。

が!

会社で鼻水ダラダラ流して、目は充血して涙がポロポロ…という悲惨な状況を見た先輩たちは、
「お! またサボろうとして演技してるな」
などとおおせられる。
「花粉症なんですよ。多分」
と答えると、
「花粉の季節なんか終わったじゃねーか」
と。

ということで、なかなか理解が得られません。
加えて、僕はどんなことでも没頭し始めると症状が気にならなくなる。
それこそ仕事が一番ヒートアップする時間帯には、なぜかピタリと症状が治まる。
その時間帯を過ぎると、また症状が出る。

要するに、仕事に支障が出ないだけに、ますます理解を得られない。

花粉症マイノリティーの苦難とでもいいましょうか。

そんな中、まもなくサッカーのワールドカップが始まります。
僕は「紙面事前点検班」に組み入れられまして、仕事の内容はというと、
「期間中、どのような紙面を作るか」
を事前にシミュレートしておく、というものです。
いわば、今回、部内から選ばれた「ワールドカップ班」の中心という役割を担うことになりました。

目指すはトータル・フットボール新聞。
「俺はヨハン・クライフだ!」(深い意味はありません)
なんですが、くしゃみって、異様に体力を消耗するもんで、頭がぼんやりしてシミュレートどころではありません。

それでも「仮病じゃねーの?」「サボりたいだけだろ」と言われる。
多くの花粉症患者と時期がずれるだけで、受難。
クライフ(Johan Cruijff)はイニシャルががイエス・キリスト(Jesus Christ)と同じなもんだから、
「神の化身」
「ヨハン・クライフ・スーパースター」
などと呼ばれていたそうですが、クライフの化身こと、わたくしめは
「クライング・だっちまん」
になっております。

僕と同じような人っていませんかねぇ。
 

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AGE of EMPIRES

AGE of EMPIRES III AGE of EMPIRES III

販売元:マイクロソフト
発売日:2006/01/27
Amazon.co.jpで詳細を確認する

AGE of EMPIRES III」を購入しました。
いわゆるリアル・タイム・ストラテジー(RTS)です。

以前に「宗教のゲーム化」について書きましたが、どのようなゲームにするのか、という点で友人の勧めもあり、最新作の3を購入した次第です。

同種のゲームとして過去に「マイクロソフト ライズ オブ ネイション ~民族の興亡~ 」(RoN)を買って、一時期ハマりまくったことがあるんですが、最初はとっつきにくかった。
まず、説明書をいくら読んでもゲームの進め方が理解できないんです。
が、チュートリアルがついてて、それをこなしていくうちに、だんだんと分かるようになり、どっぷり。

さて、エイジですが、これもやはり説明書を見ても理解できない。
んで、買ってから3日間ほど放置してたんですが、ヒマだったのと、花粉症の症状が出始めて体調が優れなかったこともあり、思い切ってインストールしてみました。

当然、最初にやるのはチュートリアル。
でもね、このチュートリアルが不親切で…
音声で「さぁ、この調子で本番に挑戦だ!」みたいなことを言うんですが、
「おいおい、どの調子だよ・・・」
です。

どうやら、このシリーズは
Microsoft Age of Empires Gold Edition
Microsoft Age of Empires 2 Gold Edition
の続編で、それをやったことのある人を対象にしてるみたいで、ともかく敷居が高い。

とりあえず、シングル・プレイのスカーミッシュとやらで始めてみました。

わけ分かんね・・・

あっという間に敗北。
ええ。思いましたよ。RoNの方がゲームとしては優れているな、と。

ウィキペディアのライズ・オブ・ネイションをみると、

『エイジ・オブ・エンパイア』の後継的作品であり、同作品に比べて市民の AI 機能が強化され逐一指示を出す手間が大幅に省けるようになった。

って書いてたから、やはり、エイジから進化したものがRoNなんだな、と。
当然、エイジはRTSの先駆であって、ファイナル・ファンタジー・シリーズが進化を続けているのと同じような感じで、アルティメット ヒッツ ファイナルファンタジーX をやった後にファイナルファンタジーコレクション に含まれてるFF4とかやると

「なんじゃ、こりゃ? こんなもん、やってられっか!」

になるのと同じなんだろうな…などなど。
いろいろと感じました。
(ちなみに、アルティメット ヒッツ ファイナルファンタジーX-2ファイナルファンタジーXII(特典無し) はやりましたが、10-2は駄作です。12はまぁ、それなりに。10があまりにも良作だったので…)

でも8000円以上も使って、1ゲームでやめるのもなぁ…と思い、もう一度、説明書を読み直してチャレンジしたら、
「こりはおもろい!」
はっきり言ってRoNより格段に面白いですね。

ただ、キャンペーン・モードは少しやってすぐやめました。どうも前作の続き物らしいので、
「なんでいきなりこのシーンから始まるんだ?」
でした。

さて、エイジ・シリーズ。1に戻ってやった方がいいのか、それとも3だけでいいのか…
と、悩んだ末に、やはり1からさかのぼってプレイすることにしました。

少なくとも、3をやってみて、
「そうそう、リアル・タイムじゃなくていいから、こんな感じで、ここに宗教を深く絡めて…」
と感じたので、
「これは石器時代からさかのぼってプレイしないといけないな」
と判断した次第です。

いずれにしても、宗教ゲーム構想で大いに参考になりました。
問題はシリーズものにするのか、RPGにするのか、それともシミュレーションにするのか、といったところかな?

でも、その前に、僕が持ってるVisual Basic.NETであんなもん、作れるんだろうか?
できればリアル・タイムにしたいんだけど、ここをみてると、無理っぽい感じがする。
ターン制なら可、ということだけど、

もたもたしてると、信者がうじゃうじゃ増殖したり、減少したりする

という、ダイナミズムが出せないような気もする。

 

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2006年5月 1日 (月)

国家の品格って

国家の品格

一言で言うなれば、保守系の書籍。
「日本の”品格”を取り戻せ」
という内容です。

少し前に読んだものです。
その後も大量の書籍を読んでいるので、具体的な記述に関する詳細はあいまいになっていますが、過去に大量に出版されている保守系の書籍の中では異彩を放っていますね。

というのも、過去に僕が読んだ保守系の書籍には、
「過去の日本人は気高く、堂々としていた。日本人の精神土壌を取り戻せ」
と徒に「愛国心」をかきたてる内容が多かった。
つまり、「過去の栄光」をいつまでも引きずっている感が否めない。

僕は保守派で、それらの本を大量に読んできたんですが、読むたびに、
「またこれかよ…」
とうんざりしていたところに、「国家の品格 」の登場です。

著者・藤原正彦氏は数学者だそうで、導き出される結論は他の保守系の書籍と代わり映えしませんでしたが、そこに至るアプローチは、今までに触れたことのない斬新な内容でした。

とりあえず目次を引用させていただきます。

第一章 近代的合理精神の限界
すべての先進国で社会の荒廃が進行している。その原因は、近代のあらゆるイデオロギーの根幹を成す「近代的合理精神が限界にぶつかったことにある。

第二章 「論理」だけでは世界が破綻する
「論理を徹底すれば問題が解決できる」という考え方は誤りである。帝国主義でも共産主義でも資本主義でも例外はない。「美しい論理」に内在する四つの欠陥を指摘する。

第三章 自由、平等、民主主義を疑う
自由と平等の概念は欧米が作り上げた「フィクション」である。民主主義の前提条件、「成熟した国民」は永遠に存在しない。欧米社会の前提を根底から問う。

第四章 「情緒と形」の国、日本
自然への感受性、もののあわれ、懐かしさ、惻隠の情…。論理偏重の欧米型文明に代わりうる、「情緒」や「形」を重んじた日本型文明の可能性。

第五章 「武士道精神」の復活を
鎌倉武士の「戦いの掟」だった武士道は、日本人の道徳の中核をなす「武士道精神」へと洗練されてきた。新渡戸稲造の『武士道』をひもときながら、その今日性を論じる。

第六章 なぜ「情緒と形」が大事なのか
「情緒と形」の文明は、日本に限定すべきものではない。そこには世界に通用する普遍性がある。六つの理由を挙げて説く、「情緒と形」の大切さ。

第七章 国家の品格
日本が目指すべきは「普通の国」ではない。他のどことも徹底的に違う「異常な国」だ―。「天才を生む国家」の条件、「品格ある国家」の指標とは。

内容全般を通してみると、少し前に出版された、前野徹氏による「新・歴史の真実―混迷する世界の救世主ニッポン 」と瓜二つ。
武士道を大切にせよ、だの、愛国心と国益主義とは別物だ、などなど。

「歴史の真実」もそこそこ売れたようですが、「国家の品格」は破竹の勢いで発行部数を増やしています。

聞くところによると、読者は賛否両論。いずれも「激しく賛成」か「激しく反対」かのいずれからしいです。出版社側は「これほど激しい反響を呼んだ書籍も珍しい」とのこと。

欧米流の「論理至上主義」を木っ端微塵に打ち砕く、というスタンスに「論理至上」を信奉している人は反発するんでしょう。
が、一方で次々と崩れていく日本のモラルについて、疑念を抱きつつも理由が分からなかった人たちにとっては、一定の指針を示してくれる絶好の書籍になったに違いない、と思います。

僕自身、「論理だけでは人は生きていけない」と思っているんですが、藤原氏ほど明確に、
「これこれ、こうだからダメなんだ!」
と、ズバッと言い切ってしまう論調は初めて見受けました。そこが本書の最大の魅力ではないかと思います。

ただ、あまりにも大胆すぎて、「?」と感じる部分はあるにはあるんですが、あらゆる点で「一理あるな」と思わせる部分多数。

「面白いかどうか」
と聞かれると、
「まぁ、それなりには…」
ですし、鵜呑みにしてはいけないんじゃないか、と思う部分も多々。
でも、賛否に関わらず、ベストセラーなんだし、一読の価値はあると思います。
他の保守系書籍よりは、はるかに読みやすいですよ。

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