« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月25日 (土)

仮面ライダーは正義の味方か

今日の産経新聞夕刊に

「仮面ライダー生誕35周年」
http://www.sankei.co.jp/news/061125/bun003.htm

という記事が1面トップに載ってました。
そこには2枚の写真が使われてました。
1枚は上のURLにあるライダーベルトの小さい写真。

問題は、もう1枚のほう。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/television/29054/slideshow/11783/

これ見て、会社で、
「どれが何ライダーなのか」
という話題になりました。

とりあえず会社で出た結論としては、
前列右から

ストロンガー
分からん
4号ではないか。名前が分からん
1号か2号
たぶん、新作の「カブト」
1号か2号
V3
アマゾン
分からん

あと、別の論点としては、
「1号と2号の違いは何か」
これに関しては結論は出ず。

4号と思われるものについては、ある奴が
「バッタのやつじゃないっすか?」
とか言うんです。
でもね、「バッタのやつ」って、あんた…

仮面ライダーはバッタと人間を交配させた人造人間じゃねーのか、と。

とりあえずは、
「1号、2号あたりはバッタと人間のハーフ、
4号と思われるライダーは、ハーフであるライダーを
さらにバッタと掛け合わせたクウォーター」

つまり、バッタ75%、人間25%ではないか、と。

でも、そうなってくると、人間の遺伝子は4分の1しかないわけだから、もはや
「人造人間」
とは呼べないのではないか。
「人造バッタ」
ではないのか、と。

もはやここまで来ると、
「バッタによるエスニック・クレンジング(民族浄化)」
といって差し支えないのではないのか、と。

次の問題として、ではなぜ人のカタチをしているのか、というのが浮上してくる。
バッタが75%ならば、バッタのカタチをしててもおかしくないのではないか、と。
んで、とりあえずは
「外見は人型。中身はバッタ」
ということになりました。

そこでさらに次の問題が浮上してきます。
脳みその容量はどれぐらいあるのか。

中身がバッタなら、頭脳もバッタ並みのはず。
果たして善悪の区別がつくのだろうか?

昆虫の世界に限らず、この世の動物世界は弱肉強食。
強いやつが弱いやつを食らう。
仮面ライダーの世界では、ライダーは
「悪を懲らしめる正義のバッタ」
という構図になっていると思うんですが、もしかしたら、その4号と思われるバッタ…いや、ライダーは「正義」という概念をもっているのか疑問。

もっと言えば、4号と思われるバッタに関しては、出てくる悪役は単なる
「エサ」
として認識して、やっつけて食料にしているのではないのか。

だけど、その食餌風景を放送すると、
「バッタが人を食ってる!」
などという苦情の電話が殺到するだろうし、そもそもグロテスクだから、
「自主規制」
をかけて放送しなかったのではないか。

そして悪役を駆逐したあとは、一般人をエサとして食う。

そうなると、もう
「バッタが世界を征服しようとしている」
としか考えられなくなる。

はて、そこまでたどり着いて、ふと気付きました。
「バッタに『世界征服』ということを思いつく知能はあるのか」

そして、今度は3万円を超す価格のライダーベルトに話題が移りました。
「ライダーベルトが3万円!」
「そういや、本格的なライダーベルトが発売されたって、話題になりましたよね」
「本格的ということは、ホントに変身できるのか?」
「使ったことがないから分からない」

ということで、以下、記事抜粋。

≪3万円のベルト≫

 「子供のころできなかった変身ベルトをつけることができ、涙がでるほどうれしかった」(46歳男性)「感動で胸がいっぱい。時間が戻せるなら子供時代の自分に買ってやりたい」(42歳男性)

 今春、話題をさらったバンダイの「仮面ライダー新1号変身ベルト」を購入した大人が、同社のホームページ「歓喜の声ページ」に寄せた声だ。

 ベルトは多色LEDを搭載。風車が回転、発光し、変身の際の様子や音をリアルに再現でき、3万1500円。ファン以外には驚きの価格だが、1万個を売った。

(下線部は小兄)

「変身できる」とは書いてないけど、この書き方だと
「変身できるのかもしれない」
と思えてしまう。少なくとも「変身できない」とは書いていない。

ということは、いずれ訪れる「バッタの惑星」の時代に備えて、エサにならないように買っておいたほうがいいのかな? などとしばし黙考。

でも、よくよく考えてみると、ボスニアだったか、コソボだったかの紛争で登場した
「モスレム」
という「民族」も、もともとはスラブ民族だったのがイスラムに改宗して支配者層になったがために、「民族の裏切り者」という憎悪の対象になったわけだから、純粋な人間が下手にバッタにへつらってベルト買って変身したとしても、世界秩序が崩れたら、
「バッタ vs バッタもどき vs 人間」
という、種族紛争に陥る可能性もある。

子どものころは、仮面ライダーって単なる「ヒーローもの」として見てただけなんですが、なかなかに奥深いテーマを内包してますね。

・・・バカ話ではありますが、うちの会社ではこんな話が日常茶飯事。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月24日 (金)

教育基本法改正

改正案が数日前、衆院を通過しました。いま参院で審議中のはず…

さて、過日、うちの会社の労働組合から、
「教育基本法『改悪』反対の集会があるから出席してくれないか」
とのお誘いを受けました。

僕のブログを時折にでも見に来てくれる人たちは既にご承知かと思いますが、僕の思想は右寄りです。それもかなりの右。

そこで、そのお誘いに関する経緯を。

相手「教育基本法が改悪されるのは知ってるか?」
僕「『改悪』じゃなくて、『改正』でしょ
相手「いやいや、あれは『改悪』だろ
僕「まぁ、ある意味、『改悪』かもしれませんねぇ
相手「『ある意味』ってどういう意味?」
僕「そもそも『愛国心』なんもの、てホントは法律に盛り込んじゃいけないんですよ
相手「だろ。これを認めたら、また軍国主義の時代に戻ってしまいかねないと思わない?
僕「そうじゃなくて、『愛国心』ってのは、いちいち法律に定めなくても、家庭や学校で自主的に教えなきゃいけないものであって、それを法律に盛り込まなきゃいけない、ってのは、愛国者にとっては、非常に嘆かわしいことなわけです
相手「おぉ。俺はてっきり、うちの会社の人間は全部が反対派だと思ってたけど、意外なところに伏兵が…。さすがに、そういう奴は誘えないな

ってな感じ。

以前にも、必修授業の未履修について、
「日本の歴史は学ばなければならない」
みたいなことを書いたんですが、なぜ「学ばなければならない」のか、というと、
「歴史の教訓を最大限に生かすため」
つまり、まかり間違っても、かつての『暗い時代』といわれている世相に戻らないよう、
「なぜ戦争したのか。なぜ負けたのか」
を徹底的に研究、分析し、日本の行く末を案じて敵軍艦に特攻していった人たちのためにも、その分析・研究結果を教訓としなければならない、と考えているわけです。

そもそも、です。
「愛国心」=「軍国主義復活」
みたいなものの考え方って、飛躍しすぎてませんか。
いや、歴史をおろそかにしてるから、「そうなる」と考えてしまうのではないのかな?
「二度と同じ轍を踏まない」
と考えれば、歴史をきちんと教えた上での「愛国心」に何の問題があるんでしょう。
今回の法改正について、反対している人たちに問いたい。

そんなに日本が嫌いなのか?

日本はそんなに住みにくい国なのか?

いったい日本をどういう国にしたいのか?

だいたいからして、ホントに日本が住みにくい国ならば、改正反対派の集会やらなんやら、そんなことしてるヒマがあるなら、韓国でもアメリカでも、反対派が
「住みやすい」
と思える国、もしくは
「この国なら愛せる」
って国に移住すればいいじゃん、と思うんですが…

僕は日本という国がとても好きです。
好きを通り越して、愛しささえ感じています。
「この国に生まれて良かった」
とも思っています。
法改正によって、自分の国を好きになれる子どもたちが出てくる、というのは、とても素晴らしいことだと思うし、そうなればますます日本は「いい国」に育っていくでしょうね。

先日、↓のような本を読みました。

日本人としてこれだけは知っておきたいこと 日本人としてこれだけは知っておきたいこと

著者:中西 輝政
販売元:PHP研究所
Amazon.co.jpで詳細を確認する


筆者はまさに「憂国の士」ですね。
ちょっと過激に右よりかな、とも感じたけど、そこまで警鐘を鳴らさないと、もはやこの国はどうしようもなくなってしまう気がする。

そもそも「愛国心」って何なんでしょう?
国を愛する心?
じゃ、国って何?

「国」という表現には二通りの解釈ができると思うんです。
「政府」という解釈と「日本人の集合体」という解釈。

親兄弟、親戚、友達を大事にしましょう。そして自分も大事にしましょう。
僕にとっての「愛国心」ってのはそれです。

一方の反対派は
政府を大事にしましょう、とはケシカラン
ではないかと推測するんですが、いかがなものでしょう。

もしも、「愛国心」という言葉を僕と同じ解釈をしていて、それでもなお反対する人がいれば、これは法改正云々を唱えられる次元ではないと思うんですが…

「自分は日本人」
それがイヤなら上にも書いた通り、移住して韓国や中国にもで帰化して現地人になって、
「日帝」
とか
「小日本」
とか
「東洋鬼子」
などと叫んでいればいい。
個人的には、自虐史観を子どもに押し付けて、自分を生み育んでくれた国を貶めるような、「ガッコーのセンセー」というカルト集団には早々にこの国から出て行ってほしい
彼らが存在する限り、この国は良くならない。

自国の歴史を否定する輩は、僕のように
「大東亜戦争は日本の正義」
という人間を徹底的に批難します。

そういうこと、やられたことあります。社会人になってから。
出社すると個室に「軟禁」されて、
「あの戦争を正当化するなど記者としてあるまじき行為だ。反省せよ」
などと、ボロクソ。
僕が、自分が調べた範囲で、
「戦時中のあの出来事の実相はこうだ。この出来事に関してはこうだ」
と反論すると、相手は単に
「日本」=「悪」
としか捉えておらず、個々の出来事に関して勉強してないから、太刀打ちできない。

そこで、彼らが行う「常套手段」の登場です。
個人(僕)に対する誹謗中傷。
議論の中身には触れず、
「あいつは人の言葉に一切耳を傾けない自己中毒な利己主義者」
耳を傾けないのはてめーのほうだろ、と言いたいところをグッとガマン。
論破されて反論できなかったが故の中傷なので、こっちが相手と同じことをやると、今度は
「根拠もなく個人攻撃をする、言論人としてあるまじき行為」
と言われるのがオチだから。

新聞社内にして既にそういう
「自由な信条」
を認めない風潮にあるわけですから、「ガッコーのセンセー」カルトはもっとすさまじいんでしょうね。

「日本は悪い。そう思えないお前は人間のクズだ」
中学だったか、高校だったか、そんなことを言われたことがあります。

たぶんね、そういう教育体制というか、
「国を愛する心って大事なんだよ」
ということを教えない、そういう心を持ってる子どもに対し「ガッコーのセンセー」が通信簿の所見欄に
「思想面に偏りがある」
とか書く。
「偏りがある」と書くということは、「センセーの言葉に逆らってはいけない」ということであって、これこそ「軍国主義」の亜流ですよね。

そんな教育姿勢だから、いじめによる自殺もあとを絶たないのではないんでしょうか。
「いじめられる奴にも問題はある」
ってのも一理あると思うんですが、集団で一人ないし二人といった少人数をいじめるのは、絶対に許されないことです。

センセーがクラスの生徒全員がいる中で、僕に対して放った「社会生活不適合者」の烙印は、その後、存分にいじめの材料となりました。

僕の場合、「いじめよう」という意思を誰かから感じた際には、こちらから先制攻撃を加えてましたから、結局は「いじめたくても手が出せない奴」という存在になりましたけどね。
でも、センセーが何を目的としてそんなことを言ったのか、十二分に理解しております。

まずは教育基本法改正。
反対するセンセー・カルトは強制的に国外追放。
どうせ日本が嫌いなんだから、追放されてもどうってことないと思います。
そんな具合でいかがでしょう。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2006年11月17日 (金)

クライマーズ・ハイ

クライマーズ・ハイ Book クライマーズ・ハイ

著者:横山 秀夫
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「半落ち」の作者が書いた本です。
僕は歴史小説以外では、小説なるものをほとんど読まないので、
この作者の他の作品は一切読んでません。

ちなみに、好きな作家は宮城谷昌光さんと司馬遼太郎さん。
あと、井沢元彦さん。
司馬さんは故人なので、新作は出ませんが、
宮城谷さんと井沢さんは、新作が出てて、書店で見かけたら、
必ずと言っていいほど購入してますね。
井沢さんの「逆説の日本史」シリーズは愛読書です。
・・・と、それだけ見ても
「歴史もの」一徹
というのが分かっていただけるでしょう。

小説を読むのは、会社の先輩などに勧められたときぐらい。
「Op.ローズダスト」もそうでした。
今回の「クライマーズ・ハイ」も同様。
「Op.~」は1人の親しい先輩の勧めでしたが、
「クライマーズ・ハイ」は舞台が新聞社ということで、
部内でも読んでない人の方が少ないぐらいだったので、
文庫化されたのをきっかけに読んでみました。

一気に最後まで読んでしまいましたね。
面白かった。
主な舞台は1985年、日航ジャンボ墜落に遭遇した地元紙。
全権デスクを任された悠木なる人物が、
「新聞の使命とは何か」
という難問に格闘する様子が描かれています。

amazonでの書評を見ていると、
本書に描かれている人間像に感銘を受けた人が多いようですが、
僕は(というか、うちの会社の連中も)、どうしても
新聞記者という自己体験と照らし合わせて読んでしまいます。

また、単行本の書評を見てると、

怒鳴り合いやののしり合いがたくさんあり、読んでいて少々疲れた。

とか

それにしても上下関係もなく、ここまで激しくケンカが
できるものなのか・・?

とか

最初の頃は読んでいて気持ちよかったのですが、途中で「何でみんなこんなに怒ってんの?」と
逆に覚めてしまったのも事実。

などと書かれておりますが、あれが新聞社の実情です。
「あほ、ぼけ、カス」
は当たり前。
時間に追いまくられる仕事なので、締め切り間際になると、
特に僕が在籍してる整理部では、原稿と怒号が飛び交い、
まさに「戦場」と化します。
そんな中で、「相手は上司だから…」などと遠慮する余裕なぞありません。

いや、むしろ、新聞社の特に編集部門ってのは、
「権威なんぞクソ食らえ」
という連中が揃ってるところで、
一般企業ではとてもつとまらない奴らの巣窟なんですよね。

幸いにもうちの会社には、本書に出てくる「派閥」なるものは、
少なくとも僕が知ってる範囲では存在しないと思ってるんですが、
胸ぐらつかんでの怒鳴りあいとか、
上司に向かって
「うるせー。あっち行け」
ってのは日常風景です。

だから、読んでて、
「こういうの、あるある」
と。

社によって、風土が異なるようなので、
一概には言い切れませんが、
「新聞社ってどんな感じで仕事してるんだろう」
と興味を持っている人には、ぜひお勧めしたい一品でした。

強いていえば、僕が所属する整理部に関する詳述がなかったのが少し残念。
作者はおそらく、自身が在籍していた
上毛新聞の様子を描いているんでしょうが、
「上毛新聞の整理部って、どういう組織構成になってるんだろう?」
という疑問が沸きました。

でも、整理部の吉井くんが
「2種類作っておくか」
とつぶやくシーンなんかは、
「そうそう。俺もやったことある」
みたいな感じ。

本書に整理部に関する詳述があれば、
僕にとっては文句なしの逸品になってたかな、と。
そうすると、もっと激しい描写が出てくるはずなんだけどなぁ、なんて。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2006年11月14日 (火)

いじめ自殺

いじめを苦にした自殺が連鎖的に起きてます。
僕は既に30代半ば。
自分の記憶をたどると、四半世紀前のいじめって、
自殺しなければならないほど深刻ではなかったような気がします。

・・・ま、まぁ、どちらかというといじめる側に立つことが多かったので、
あんまりエラソーなことは言えないんですが・・・

でも、いじめの対象になったこともあったわけで、
その時、どう感じたかというと、
「いつか仕返ししてやる」
でしたね。

いわゆる「江戸の仇を長崎でうつ」ってやつかな。

今の小中学生がやっている「いじめ」なるものがどのようなものか、
現場を見てないのでなんとも言えない部分があるんですが、
かつての外勤時代に某自治体の議会における教育長の答弁。

「子どもは、ある時にはいじめられ、ある時にはいじめ、
そうやって人の心が分かる人間に育っていくものだと考えております」

それを聞いた各紙の記者は一様に
「そうだ、そうだ」
といわんばかりに、しきりに頷いてました。

僕もそう思います。

が。

昨今の相次ぐ自殺を見ていると、
そう悠長なことを言ってられない状況にあるのではないか、と。
陰湿を極めるいじめ、逃げ場のない空間を作り出し、
「逃げたい」と思っても逃げられなくしてしまう。
そんな状況なのかな、と。

僕が小中学生のころは、いわゆる「いじめっ子」でした。
というか、周囲からはそう言われてました。
僕がやっていた「いじめ」は単純な暴力です。

休み時間に誰にも相手にされず、一人ぽつねんと席に座ってる奴に
「お前も一緒に遊ぼうぜ」
と声をかけて、遊んでる中で、相手の言動に腹を立てて殴ってしまう。

自分の行為を正当化する気はありません。
今では心のうちで深く懺悔してます。
でも、そもそも、そいつが何ゆえに
「誰にも相手にされず」
という状況だったのか。

それは、クラスの連中に「無視」という、
僕からみれば許しがたい「いじめ」をされていたからです。

「あいつ、ムカツクからみんなで無視しようぜ」

そういう「取り決め」がありました。
でも、無視(=存在を否定する)という陰湿な行為は、
僕自身もやられたことがあるので、そのつらさが分かります。
だから、「取り決め」を無視して、一緒に遊ぶ。
その中で、ケンカする。
それを見た連中は僕を指して
「小兄は○○君をいじめてます」
と先生に報告する。

すると、僕は”一流”のいじめっ子として教師にマークされる。
職員室に呼び出される。
保護者に報告される。
こっぴどく叱られる。
でも、僕に「いじめられた」本人は、
「あれはただのケンカでいじめられたとは思ってない。
むしろ、みんなが自分を無視してる方がつらい」

と言ってました。

つまりは、彼にとって、僕は唯一の「逃げ場」だったわけです。

僕は幸いにもケンカの腕前はクラスの中でもトップクラス。
僕とケンカして勝てる相手がいないから、
「小兄はあいつをいじめてる」
と名指しして、
「今度は小兄を無視しようぜ」
という話になった。
力ではかなわないから、無視。
で、今度は僕が無視されるようになった。

ちなみに、その時は、それを言い出した奴を校舎の裏に呼び出して、
ボコボコにタコ殴りして、腕の骨を折ってさし上げました。
「無視」などという陰湿なことをする奴は絶対に許さん、って。

僕の小中学校時代はそんな感じで、上記の教育長が答弁してた
「いじめたり、いじめられたり」
だったわけです。

しかし、昨今の「いじめ」とはいかなるものか。
相手を追い詰めて、追い詰めて、
相手の存在を否定するような陰湿なものになっているのではないのか。

教師までもが「いじめ」を容認し、また自ら率先して生徒をいじめる。
逃げ場なし。
そして、思いつめ、自殺という、最悪の選択肢を選ばざるを得なくなる。

そんな状況になっているのではないでしょうか。

「学校」「教室」という狭い空間。
しかも教える側は、高校、大学と卒業して、
社会なるものがどういうものなのかも知らずに、
再び学校に戻っていく。
非常に狭い世界。

一歩、外に飛び出せば、何らかの解決方法は見つかるはずなのに、
なぜに、あえて「死」を選ぶのか。

「命とはなにか」

確かに、必修科目を教えることも大事なのかもしれません。
でも、人間としてもっと大事なことってありませんか?
それを教えられない、理解できていない教師が多いような気がします。

さて、ふと気まぐれに「いじめ自殺」で検索をかけてみました。

マスコミ批判もあるようで、例えば↓
http://fareastclub.at.webry.info/200610/article_22.html
http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000002585
http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/ijime_jisatsu2.html

上記3つにざっと目を通すと、
「確かに、そうかもしれない」
と思う部分が多々。
特に最初にあげたURLにある

最近ニュースを騒がせているものと言えば、ライブドアの証券取引法違反という株で儲けた話し、政治家たちの不祥事、警察官の飲酒運転、一般民とは少し違う考え方の人が集まった集団(例えばカルト教団など)と、それに対する執拗なマスコミの追いかけ取材。

確かに、そんなことばかり報道していては、次に続く

自分が小さいころにもいじめは確かに存在した。けれど、教師を含め、大人を信用しているところがあったように思う。信じられる親、兄弟、教師、警察官、政治家・・・。それを支えにして生きていたのではないかと。いじめられてても、勉強を頑張って大人になったら、違う人生が待っているかも知れない・・・、そんな期待。

ということも媒体を通して伝えることができなくなってしまう。
行間にこめられた、静かではあるけど痛烈な業界批判には、
業界に身を置く僕としても、
「我々も反省しなければ」
と感じざるを得ません。

でも、一方で以下のようなことを書かれておられるブログを発見しました。

生徒へのいじめ問題の前に
学校の先生をいじめるのは悪いことですよ!

そもそも、先生がどうしていじめを上へ報告しないかというと、
報告すると出世できないからです。

つまり、いじめが無くならないのは、
上、つまり文部科学省や教育委員会が
いじめがある学校をいじめるからです。
http://nextream.jugem.jp/?day=20061112

上に引用したブログの管理人さんは、教育関係者なんでしょうか?
やたらと学校サイドをかばっている様に感じます。
記事を読むと、「先生になりたい」という動機と
「出世したい」という思いがほぼイコール、
という構図が僕の頭の中で浮かび上がってきます。

今どきの子どもたちは、大人が思っている以上に利口です。
子どもがインターネットで上のような記事を読めばどうなるでしょう。

薄々感じていたことが「確信」に変わり、
「いじめても、あの先生は上に報告しないから大丈夫」
という結論に至ると思いませんか?

そしていじめはますますエスカレートする。

加えて、上記の筆者は
「教師がいじめに参加しているケースもある」
という言語道断な事実を黙殺
していますね。

いじめ、言い換えれば
「弱い奴がさらに弱い奴をたたく」
という事象は、世の常ではないでしょうか。

教育委員会や文科省が指導(筆者の言を借りれば「いじめ」)をしなくなれば、
いじめが自然になくなる、というのは僕としては納得できません。

文科省や教委が、いじめがある学校を”いじめ”るのは、
学校内のいじめ問題に対処できないアホ教師どもに対する指導なのではないでしょうか。
その「指導」を「いじめ」と受け止め、深刻化している学校内のいじめを放置する。

そんなものは教師による「職務放棄」、
もしくは、「学校という組織ぐるみの隠蔽」でしかない
のではないでしょうか。

だいたいからして、教師も「一応は」社会人なわけです。
教職を通じて給料もらってメシを食ってる。
学内でいじめがあるなら、それは上に報告すべきでしょう。
きちんと報告していれば、厳しい指導があるかもしれない。
でも、それをもって学内のいじめ問題根絶に立ち向かうのが
教師の義務ではないのでしょうか。

にもかかわらず、いじめ問題を隠蔽する。
隠蔽ならまだしも、教師が生徒をいじめる。
あるいは、見て見ぬフリをする。
生徒が自殺してから、会見を開いて謝罪する。
人の命を何だと思っているのか。
死んでから「ごめんなさい」で済ませられるようなものではない。
上のブログの記事は、子に先立たれた親の気持ちなど、
まったく斟酌しない「鬼畜」の屁理屈に過ぎない。

校長の自殺が相次いでいる。
それはそれで痛ましいことではありますが、
「職務放棄」「職務怠慢」による責めを負って校長が自殺するのと、
理不尽な「いじめ」に遭って子どもたちが次々と自殺していくのと、
「自殺」という行為は同じでも、その質は全く異なる
もので、
「教育委員会などが学校を”いじめる”から」
という部分を焦点にしてはいけないと思うのですが、いかがでしょう。

いずれにせよ、「命」というものが軽く、軽くなっているように感じる昨今です。

もしも、僕のブログを読んでる人の中で、
いじめに苦しんでいて、自殺しようと考えている人がいたら、
ほんの少しでいいから考えてみてください。

いじめられた人間は人の痛みが分かる人間になる。
いじめた経験しかない人間より、ずっと懐が広い人間になる。
自殺は、「弱い奴を叩く」ことしかできない弱い人間を喜ばせるだけ。
そんな人間のクズのために、自分の命を絶つなんて、
悔しくて馬鹿らしいだけだと思いませんか?

人一人の死というものは、自分が想像している以上に、
親や親戚、友人に抱えきれないほどの苦痛を与えるものです。
今の苦痛を乗り越えた時に、どんな明るい未来が待っているのか、
いろいろと空想してみてはどうでしょう。

5年経っても10年経っても、人生に苦痛しか感じられなければ、
それから死んでも遅くはないんじゃないでしょうか。

かくいう僕自身も、いじめが原因ではないけれど、
自殺したいと感じたことは何度もあります。
でも
「あと1年、生きてみよう。それでダメならその時に死のう」
と、1年ごとに先送りしてた時期がありました。
死ぬのが怖いからじゃなくて、
その時期の苦痛を乗り越えたところに何があるのか見てみたかったから。

おかげで、乗り越えた今では、すっかり開き直って
脳天気なサラリーマンやってます。

「お前、悩みなんてないだろ」

なんてこと言われながら。

真剣に悩んだ時期があっただけに、
多少のことでは動じない精神力が身についたんでしょうね。たぶん。
そう考えると、

「悩むなら若いうちがいい。死ななければ勝ち」

ということもできるのかな、と。

| | コメント (2) | トラックバック (7)

2006年11月 1日 (水)

必修授業の未履修

今さらながら、ですが・・・

全国各地の高校で必修授業の未履修が相次いで発覚してますね。
自殺した校長先生もおられるようで、僕としては、
「そこまで気に病むほどの問題なんだろうか」
と、疑問に感じてしまいました。
よほど責任感の強い先生だったんでしょうね。
ご冥福をお祈りします。

さてさて、どんな授業を省いたのか、つーと、どうやら日本史が多いようです。

この問題って、もしかして靖国問題その他、歴史問題とリンクしてるんじゃねーか?

と考えてしまったのは僕だけでしょうか。

ある程度、正確な歴史を知って、それを踏まえた上でイエスだとかノーだとか言うのは、完全に個人の自由だと思うんです。
でも、その「ある程度正確な歴史の知識」って学校で教えるべきものではないでしょうか。
学校の週5日制とか、受験勉強とか、眼前にそびえる具体的な壁はクリアしなきゃいけないかもしれません。
だけど、自分の国の歴史を教えない、なんて、あっていいことなんでしょうか。

と、そこでまたふと思いました。

「教える時間を省いた」のではなく、「教師が歴史を教えられなくなってる」のではないか。

もしくは

意図的に教えなかったのではないか。

歴史問題になると、敗戦の後遺症とでもいいましょうか、いまだに右だ、左だ、と騒がしいんですが、日教組の締め付け(?)で、左寄りの歴史しか教えられない。
もしくは、「自虐史観」しか知らない。
でも、教科書をひもとくと、なんか客観的に書いてる。
善悪の判断は教科書には書いてない。

だけど、教師どもにとっては、
「日本の歴史は悪一色でなければならない」
という、得手勝手な思い込みがあるから、「客観的な歴史の事実」を「悪」に塗り替えなければならない。
しかし、それをするための知識を持ち合わせていない。
「悪という人がいるから悪なんだろう。でも教科書には『悪』とは書いてない。ならば教えない方がいい」
ってなところなのではないでしょうか。

だけど、冷静に、客観的に、あの戦争を見つめると、決して日本だけが悪いわけじゃない、ということに気付く人もいるわけです。
それでも教師たちは
「日本は極悪非道だ」
と教えなければならない。でも、きちんと歴史を教えると、
「日本はよく頑張った」
という感想も出てくるはずで、特に中国、韓国などによる内政干渉が激しい昨今においては、その反動で、反中、反韓に針が振り切れる可能性がある。
だから、受験だとかなんだとか、テキトーな理由をつけて、あえて教えなかったのではないか、と。
いわば「洗脳」に近いものがあるように感じる。

僕は既に30代半ばなんですが、高校時代は日本史を選択してました。
時間の都合で大東亜戦争まで間に合わなかった。
高校時代、思いました。
「自分が一番知りたいところなんだけど・・・」
(大学に入ってから、自分で勉強しました)

今の高校で使ってる日本史の教科書を、昨年か一昨年か、手に入れて読んでました。
昔とさほど変わってないんだけど、さて、鎌倉仏教がどうだとか、
江戸時代の絵画様式はどうだったのか、なんて、極論を吐けば、
歴史というダイナミズムの中における枝葉末節だと思うんです。

本筋は、織田信長が本能寺で…とか、幕末維新でどうなった、などといった部分なのではないのか、と。
そして、その中には当然、大東亜戦争(太平洋戦争)も含まれるわけです。

「受験」を理由に「自国の歴史」から目をそむけて、果たしてどのような人間を育てるつもりなのか。
日本史を無視したクソ教師どもにぜひ問いたい。

学校で教える、最も大切な「授業」は日本史なのではないんでしょうか。

「歴史は繰り返す」

という言葉があります。
そう。歴史に学ばない者は、同じ轍を踏むことになる。

日本史の授業を受けなかった生徒たちは、歴史から何の教訓も得られることはない。

亡国へ、亡国へ。

その兆しはチラホラと見え隠れするんですが、そういう方向へ進ませているのが
「ガッコーのセンセー」
という、「教育機関」の名を借りた「カルト集団」ではないのか、と思う次第です。

大東亜戦争時、自由な言論は封じられました。
軍部の独走によって、日本は原爆まで落とされ、挙句の果てには「極東裁判」なる理不尽なリンチで、戦勝国によって断罪されてしまいました。

今、正式な「日本軍」はありません。自衛隊もシビリアン・コントロールにより統制されています。
大東亜戦争は陸軍の独走によって始まり、亡国への道をまっしぐらに進んでいきました。

僕の目には、今という時代と、あの戦争の時代とが重なって見えてしまいます。
日本は「学校」という名の”思想教育機関”の暴走によって、あらぬ方向へと傾いていってしまうのではないのか、と。

もし、ここを読んでる、日本史の授業を受けなかった高校生諸氏がいるならば、ぜひとも伝えたい。
自国の歴史は学ばなければならない。
卒業してしまったなら、独学ででも勉強していただきたい。
そしてそこにある「歴史の教訓」と、「自分の国を愛する」ことの必要性を感じていただきたい。
それをおろそかにした時、この国は今度こそ本当に滅びかねない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »