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2006年12月 6日 (水)

いじめ2~文科相からの手紙

なんやら、文科相から全国の小中高に手紙が送られたそうです。
知人経由でその写しを入手しました。
大人宛てと子ども宛ての2種類。
僕が入手したのは、手紙の写真だったので、句読点など細かい部分は判別できませんでしたが、文言は明確に読み取れました。
以下、2通の全文(と思われるもの)を紹介します。

文部科学大臣からのお願い

お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域のみなさんへ

 このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者に訴えられないとも言われます。
 一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱きとった生命。無限の可能性を持つ子どもたちを大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化をみつけるためにも、毎日少しでも言葉をかけ、子どもとの対話をして下さい。
 子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡しあい、子どもの生命を護る責任をお互いに再確認したいものです。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

これが大人宛て。
そして下が子ども宛て。

文部科学大臣からのお願い

未来のある者たちへ

 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのははずかしいこと。
 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。
   ◇   ◇   ◇
 いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

深く突っ込んだコメントは、今回は時間の都合で控えさせていただきますが、僕がこの2通を読んだ時の第一印象は
「こいつ、『いじめ』ってのがどんなものなのか、分かってないんだろーな」
でした。
もちろん、こんな文章、伊吹大臣自らが書いたとは思わない。どうせ文科省のお役人が
「こんな感じでいーんじゃねーの」
ってな具合で官僚的に、そして「アリバイ」作りのために書いたとしか思えませんが…。

こんなもん読んで、保護者や子どもに訴えても、いじめなんて絶対になくならない。
これを読んで
「いじめをやめよう」
と思う子どもは、最初からいじめに加担なんかしてないんじゃないのかな?
誰かに話したら、
「ちくった」
とか言われて、さらに陰湿な、表面に出てこないようなカタチでいじめられ続けるでしょう。

そもそも、
「いじめをなくそう」
というスローガン自体がおかしいと思うんです。

その理由は、いずれ時間があるときにでも書いてみたいと思ってます。

僕は小学校高学年あたりから、
・誰かを集団で無視する
・集団で嫌がらせをする
という行為に興味がなくなりました。
他のこと(音楽とかいろいろ)に興味を持ち始めると、いわゆる「いじめ」行為にまったく興味が失せてしまった。
特に、高校時代になると、音楽一辺倒で、自分のクラスにいじめがあるのかどうかすら知らない状態。
たぶん、自分がいじめられていたとしても、それに気付かない状態。

手紙を送るなら、保護者やいじめっ子、いじめられっ子に送るのではなく、そこに関係してない、いじめとは無関係な子どもに送るべきなんじゃないのかな?
「見かけたら止めてやってくれ」
みたいな具合に。

まぁ、しかし、いじめ自殺も大きな問題だろうけど、それは世の常であって、たまたま昨今、自殺が相次いでいるというわけで、今、上の手紙で仮にいじめ自殺の連鎖が収まったとしても、数年後にはまた同じことが起きるでしょう。

解決策は、授業に「武士道」を組み入れることではないのかな。
そして、日本史を社会科から外して、「国史」という別枠の授業を設けることを考えたほうがいいんじゃないのかな?

大和魂の復権。

いじめ問題解決策の一つに、こういう選択肢があってもいいんじゃないのかな。

つい先日、ガッコーのセンセーが作ってるサイトで、事故で死亡した子どもの写真やらを掲載し、遺族を中傷するようなコメントがつけられていて、両親がそのセンセーを告訴しました。

上の文科相からの手紙にあった一文

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。
(下線部は小兄)

ガッコーのセンセーの一部には、子どもを「人」として扱っていない連中も存在します。
遺族を平気で中傷して、それをサイトにアップする鬼畜もいる。
はて…そんなセンセーに相談すると、いじめられた子はどうなるんでしょうかね。

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コメント

 すいません。誤作動が起きてトラックバックを3つも送ってしまいました。生まれて初めてトラックバックを送ったもので。
 17:35:04のものが繋がってますので、それ以外は削除していただけませんか? お手数かけて申し訳ありません。

投稿: Yoshi | 2006年12月 6日 (水) 17時41分

こちらもすいません。
TB送ってもらったのはありがたいんだけど、リンク先に飛ばなかったから、全部削除しちゃいました。
もう一度お願いできませんか?

投稿: 小兄 | 2006年12月 7日 (木) 01時52分

 再度トラックバック送らせて頂きました。
 私は大学のレポートの練習としてブログを書いているので、話が難解になりがちですが、賛同を得られて嬉しく思います。
 小兄さんが異論を唱えられた部分を考え直してみたところ、「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という戦国・江戸の武士道は「義」の関係であり、現代社会の「契約」の関係とは異なりますね。上司と部下の関係は鎌倉の「御恩と奉公」の武士道で考えてみる必要がありそうです。
 近いうちにその部分を改稿しようと思いますので(小兄さんへの謝辞も書かせて頂きます)、またお越しください。

投稿: Yoshi | 2006年12月 7日 (木) 09時38分

Yoshiさん、ありがとうございます。

あくまでも個人的な見解ですが、日本の「上司と部下」の構図は、「義」でも「御恩と奉公」でもないように感じます。
単に「年上の人を敬え」というくだらない儒教的な感覚ではないか、と。
僕は10年近く新聞記者をやっていますが、
「先輩に逆らってはいけない」
「デスクに反抗してはいけない」
という風潮は間違いなくあります。

自分が「これは間違ってるんじゃないのか?」と思うことを文章化して世に問うマスコミ業界においてすら、そんな体たらくです。

今の日本において、年齢、もしくは入社年次というものは、ある意味、
「絶対権力」
と呼んで差し支えないのではないか、と。

投稿: 小兄 | 2006年12月 7日 (木) 18時21分

 なんと、文屋さんでしたか。
 文屋さんに概ね賛同を得られる文章を書けるようになったとは、励みになります。
 そういや「年功序列が若者をダメにする」とかいう本を本屋で見かけたような。かなりあやふやですが。

 >>デスクに反抗してはいけない

 内部批判した勝谷雅彦さんは呼び出し食らって、「君はフリーの方が向いてるんじゃないの?」って言われたらしいですしな。それでフリーになったとか。

 追記:
 改稿しようと思ってたのですが、我がブログは1000字以上書けなくなってまして、次数制限で無理なことがわかりました。
 「年功序列」という別の記事にして書こうと思います(時期は不明ですが)。

投稿: Yoshi | 2006年12月 7日 (木) 20時37分

苛めについてのご意見おおむね賛成でした。私の娘も親が心配しすぎてもっと確りせねばいじめに会う、お前がだらしないから苛められるんだと、ひたすら確りせよと、小1の女の子に親としては良かれと思ってだったのですが、両親が揃ってはっぱをかけていました。その結果は、親の願いと全くの逆で、友達に酷い事をされても何も言えず、我慢するふがいない子になっていました。親の口から言うのは何ですが、元々頭の良い子でしたので、何とか自分で乗り越えてくれましたが、苛められる怖さを意識させすぎる事によって、反って気弱になっている部分も有るのかと感じています。ケースによって様々で難しい問題ではありますが、自分でクリアできる人間に育てる事しか解決方法は無いのではないかと思っているところです。

投稿: dendrodium | 2006年12月 8日 (金) 11時52分

人にはそれぞれ個性がありますよね。
娘さんは、「親の願いと全くの逆」ではなく、生来、そういう気質だったのかもしれません。
かくいう僕も、「親の願いと全くの逆」に平然と教師を殴ったりしてました(w
僕には子どもはいません。三十路半ばで独身ですし。
でも、もし子どもができたら、やはり「強さ」を教えると思います。
肉体的、精神的な強さを、です。

娘さんが自信で苦難を乗り切ったのであれば、さほど心配する必要はないのではないでしょうか。
表面からはうかがい知れない「強さ」があった証だと思うんです。

「明日はどんな日になるんだろう」

その「好奇心」が親御さんからのプレッシャーや、学友からのいじめなどといったネガティブなものでなく、明るいものかもしれない、といったことを感じられるような子どもたちが増えるといいですね。

ちなみに、僕が幼いころ、最も不快に感じていたのが、親から
「情けないやつ」
と言われることでした。
なんだかんだ言ったところで、一部例外を除き、この世で最も信頼できるのは両親なわけですから、その両親から変な目で見られると、そりゃ人間、歪んでしまいますよね。

とか言ったところで、人間、結局は
「セルフ・メイド」
でなけりゃならん、と思っている次第です。

投稿: 小兄 | 2006年12月 9日 (土) 07時24分

小兄さんが真直ぐにものを見て下さる方で助かりました。今朝目覚める直前に自分の書いたコメントのことを思い出して、これは娘の自慢をしたがっているだけではないかと取られても仕方のない書き方だった事に気づき(勿論そんな積りではなかったのですが)、一度書いたコメントは訂正の仕様が無いので実のところ困り果てていたのでした。救われた思いです。有難うございました。
 子供が成人して思う事は、子供は親が心配するように、望んでいる様にではなくて、心配しているようになると言う事を痛感しています。
1人っ子で親の目が1人にだけ集中する為に,しないでも良い取り越し苦労ばかりして、結局親が子供を苦しめている元凶だったのではないかと娘に済まない気持ちでいっぱいです。

投稿: dendrodium | 2006年12月 9日 (土) 12時22分

子どもが親の前で見せる顔と、外で見せる顔は全く違うものだと思うんです。
僕自身がそうでした。
かなり長い間、僕の両親は僕のことを自閉症だと思っていたようです。

親の心配が子どもを苦しめる、ってのはあり得ると思います。
でも、子どもの行為が親を心配させている、ということもあると思います。

一時的に、子どもが親を憎むことはあるかもしれません。
でも、年齢を重ねるとともに、子どもを持たない人間でも、親の気持ち、ありがたさが分かるようになってくるんではないでしょうか。

僕も親によって苦しめられたことがあったわけですが、今さらそれを責める気にはなれません。
あれもこれも、僕にとってよかれと思ってやったことなんだろうな、と感じるんです。
それを責めることによって、親を苦しめたところで、誰も何も得することなどなく、むしろ両方がイヤな気分になるだけですよね。

過去のことを悔悟するよりは、いま、あるがままの娘さんを受け入れることの方がよほど有意義なのではないか、と思うんですが、いかがでしょう?

…って、全然レスになってないですね。すんません…

投稿: 小兄 | 2006年12月10日 (日) 03時36分

有難うございます。
お言葉の通りであろうと思います。
現在は、意欲的になってくれていますので、もう済んだ事をとやかく言うのはやめておきたいと思います。
それにしても小兄さんのお人柄感じ入りました。

投稿: dendrodium | 2006年12月11日 (月) 07時29分

お人柄…などといわれてしまうと、恐縮です。
というか、かえって空恐ろしいというか・・・
昨日なんて、飲んで浮かれて終電逃して、タクシーの中でぎゃーぎゃーうるさい後輩をボコボコに殴ったりしてますし・・・。
裏表のない人間だと自分では思ってますが、性格の基本的な部分はアホで構成されてますから。

人生なんて一度しかないんだし、完璧な人間なんて存在しないんだし、誰にだって後悔することの一つや二つ、あるはずだと思ってます。
そこで「後悔する」だけで立ち止まるよりは、
「俺はアホだから」
って開き直って前向いて歩いてる方が楽しいんですよね。
いつまでも後ろ向いてると気分が滅入るだけですし。

投稿: 小兄 | 2006年12月12日 (火) 01時06分

ちょっと年寄りじみた事を言いましょうか、
浄土真宗の教義に悪人正機と言うのが有ります。
自分はいつも」正しくて、間違った事は一度もしたことは無いと思っている人は反省心が無いだけであるから、自分ほど悪いものは無いと自覚している者の方がむしろ阿弥陀さんに気にかけてもらえる、正客であるということだそうです。

投稿: denndorodium | 2006年12月12日 (火) 07時23分

親鸞ですね。歎異抄でしたっけ?
…年寄りじみてるかなぁ? その手の話はけっこう好きなんです。
しかしですね、ちょっと疑問に思うことがあるんです。
僕の兄は幼いころに死にました。
善人なのか、悪人なのか分からないどころか、「人生」というものを満足に生きられなかったわけです。
神様は兄に反省する時間すら与えてくれませんでした。
善人なおもて往生す。果たして兄はいかに?

そう考えると、先に「好きな話」とは書きましたが、どうでもいいような気がしてて・・・
兄があの世で安穏と暮らせていれば、自分はどうなったって構わないや、って。
僕がバカ丸出しで楽しく生きてれば、兄はあの世で
「またやってるよ、バカ弟が」
って笑ってくれてるんじゃないかな~、なんてこと考えてみたり。

投稿: 小兄 | 2006年12月12日 (火) 16時57分

やっぱり年寄りの考える事だと思いますよ。
自分の体験で言うのですが、若いうちは人生の終わりははるか向こうで、死後の世界など全然ぴんと来ない物だったように思います。そのときは好き勝手にしていれば良いのでしょう。宗教と言うのは心の救済が目的の物だと思います.だから心許なくなった時に思い出せばよいのだと思います.悪人こそ阿弥陀様の正客なんだったら、試しに南無阿弥陀仏と言ってみるかと思って言っているうちに何だか阿弥陀様の浄土が有るような気がして来るもののようです。
その話が本当であろうと、間違いであろうと、末期の一念と言って阿弥陀様の事を念じながらこの世を去れたならば大成功と言う事でよいのではないかと思います。
現代医学でも自然治癒力について述べるようになりましたが、いわゆる科学的なというのでなくて、此の世の中を動かしている不可思議な力の存在を知る事の助けにもなり、信仰というものも捨てたものではないと思っています。

投稿: dendrodium | 2006年12月12日 (火) 21時36分

突然横からお邪魔いたします。
でも阿弥陀様なんて現実にはいませんよー。
その人個人の心の中にはそれぞれの信仰神がいてもいいとは思いますが。

>此の世の中を動かしている不可思議な力の存在を知る事の助けにもなり、信仰というものも捨てたものではないと思っています。

「此の世の中を動かしている不可思議な力の存在」
を知るために
「信仰」
に傾倒するのは安直すぎるのではないでしょうか、と思った次第でして。

お気を悪くされたらすみません。
でも

>末期の一念と言って阿弥陀様の事を念じながらこの世を去れたならば大成功と言う事でよいのではないかと思います。

は、ご自身の心の内だけにとどめられた方が波風立たずに済むと思いましたので。

投稿: molly | 2006年12月13日 (水) 00時47分

dendrodiumさん。

>若いうちは人生の終わりははるか向こうで、死後の世界など全然ぴんと来ない物だったように思います。

それはあくまでも「自分の体験」であって、僕の体験ではないですよね。
先にも書きましたが、僕の兄は幼いころに死んでいます。
僕のすぐ目の前で、事故で。
どちらが死んでもおかしくなかった状況です。
心理学では、幼いころに肉親を目の前で亡くした子どもは、それを自分の責任と思い込む傾向が非常に強いそうです。僕もそうでした。だから、思い悩み、苦しみもだえました。
そのような、本当に心の救済が必要な時に、宗教というものは何の役にも立ちません。
森羅万象を動かす不可思議な力とはなんでしょう?
神様でしょうか?

信仰は大切なものではありますが、mollyさんの書いておられる通り、そこに頼りすぎるのは、人の生きる道として安直過ぎるのではないのかな、と思います。

自分の道は自分で切り拓いてゆくもの。
自分という人間をつくりあげ、成長させていくことができるのは自分以外をおいて他にはないのではないでしょうか。
心許なくなったときに思い浮かべるべきは、阿弥陀如来ではなく、そんな自分の弱さをいかに克服すべきか、という点ではないでしょうか。

天は自ら救く者を救く。

それが僕にとっての信仰であり、自助努力なしに「不可思議な力」に頼っていたなら、僕はあの時に苦痛に耐えることもできず、既にこの世には存在していないと思います。
僕がいわんとしている「精神的強さ」とは、そのことです。

たとえ地獄に落ちようとも、死ぬ時には笑って死ねればそれでいい。
あるのかないのかも分からない浄土などに思いをはせる。
それは「年寄りくさい」のではなく、連綿と続いてきた封建社会が残した「愚民政策」の名残でしかないのではないでしょうか。

投稿: 小兄 | 2006年12月13日 (水) 04時47分

やっぱり年寄りの問題だった様ですね。
只、近頃迷信邪教の類がやたらとはびこっている事を思いますと、
やはり、宗教による心の救済は求められているのではないかと思います。本当のと言うか害の少ない信仰は、大抵各家庭に昔から有った宗旨に帰依する事ではないかと思います。
仏教の教えと言うのは大抵が方便で、その人の状況に応じて救いの手を差し出そうというのが目的であると聞いた事があります。
だから、心の救済よりも、自分の懐の救済を目的としている物は迷信邪教と言ってよいかと思いますが、悩み、苦しみ、恐れている人の心を軽くしてあげるのが目的の教えは、大事にするべきであろうと思います。
私の信じているのは、この世のと言うか宇宙のと言うか,創造原理なるものです。此の世の中は法則によってスムーズに運行するように仕組まれていますが、どんな法則でも狭間で苦しむ者が出来るのをなくす事はできませんから、元々苦しめるのが目的の法則ではないのだから、
その苦しむ者を助ける働きとして宗教(目覚めた人の救いの手)が生まれたと思っています。
偶然此の世が出来た等とはとても思えない位に、この宇宙は精巧に出来ているではありませんか。
私はそんな神と言うか仏と言うかはこだわりませんが、
天の意思を信じています。
決して押し付けるつもりはありませんが、そいう考え方も発表すべき事かと思っています。

投稿: dendrodium | 2006年12月13日 (水) 11時34分

何を信じるのかは、他人に迷惑をかけない限り、個人の自由だと思いますよ。
僕も、この世に神仏なしとは考えていません。
死んだら土くれになるだけ、というミもフタもない考え方を好みません。
「年寄り」とおっしゃいますが、おそらく若い人でも「死後の世界」「輪廻転生」というものを信じている人の方が多いのではないかと思います。

「ブログのコメント欄では穏便に」という方針なんですが、僕が毛嫌いしている思想をお書きになられていることと、そのような思想が世間に流布されるのを少しでも阻止するために、ここではあえて反論させていただきます。

まず、「各家庭に昔から有った宗旨に帰依する」と書かれておられますが、dendrodiumさんは具体的に何教の何派を信仰なさっているのでしょうか。コメントを読んだ限りでは全く分かりません。
いや、分からないどころか、dendrodiumさんが書かれてらっしゃるような宗教、教義が日本に「昔から有った」ものだとはとても思えません。

仏教には「創造原理」なるものは存在しません。
「この世はどのようにして誕生したのか」
といったことについて、一切説いていないのが仏教の特徴です。
一方で、キリスト教、イスラムといった一神教においては、「創造神」なるものが明確に存在します。

つまり、「創造原理」と「南無阿弥陀仏」との間には何の脈絡もないんです。

>此の世の中は法則によってスムーズに運行するように仕組まれていますが、どんな法則でも狭間で苦しむ者が出来るのをなくす事はできませんから

「四苦八苦」という仏教語がありますね。
「四苦」とは「生老病死」のことを指します。(「八苦」はあえて省略)
仏陀が開いた仏教においては、仏陀は、生まれてきたことそのものが既に「苦」に当たるのだから、万人すべからく修行を行い、悟りを開き、その苦痛から逃れる術を見つけなさい、と説いています。
仏教は日本に伝来して大きく姿を変えました。その代表例が「在家信者」なるものですが、教義の根本的な部分は変わっていません。
「狭間で苦しむ」のではなく、「法則」自体が人を苦しめるものだ、と説いているのが仏教です。

>偶然此の世が出来た等とはとても思えない位に、この宇宙は精巧に出来ているではありませんか。
>私はそんな神と言うか仏と言うかはこだわりませんが、
>天の意思を信じています。
>決して押し付けるつもりはありませんが、そいう考え方も発表すべき事かと思っています。

既に発表されています。
ためしに、ブラインド・ウォッチメーカーという本を読んでみてください。
盲目の時計職人が、時計の部品を箱に入れて振ったとき、完成品の時計が出来上がる確率はどの程度なのか、という話が、遺伝学の権威によって書かれています。
「ニューサイエンス」というのもアリかもしれません。
北京で蝶が羽ばたけば、サンフランシスコで雨が降る、といった「複雑系」の書籍は大量に出版されています。
さらに付け加えると、「あらゆる学問は神に行き着く」ともいわれています。
物体が落下するのは重力で説明できますが、なぜ重力が発生するのかは解明されていません。
すべては「神のご意思」です。

そういった「科学」の話と、魂の救済に関する「宗教」、特に仏教の話をごった煮にしてはいけません。一神教では「創造神」(dendrodiumさんの言葉を借りれば「創造原理」)の名において、科学的に解明できない事柄は「神のご意思」と言い切れますが、仏教ではそもそも「神」は存在せず、悟りを開いた者が「仏」になると説いているだけですから、そこに「科学」が介入する余地はありません。修行僧=科学者、という図式が成り立たないのが仏教です。
そして、dendrodiumさんの考え方は(コメントを読む限りでは)仏教的思想ではなく、一神教的思想です。

冒頭にも書きましたが、何を信じようが、それは完全に個人の自由です。
「心の救済が求められている」という点について、否定はしません。救済を求めている人が大勢いる、ということも理解しているつもりです。
そして、そのような人たちが、dendrodiumさんが書かれておられるような、ニューサイエンスと仏教を交尾させたキメラのような変態宗教に走った挙句に、サリンを撒き散らした、ということも理解しています。

dendrodiumさんも、信じるのであれば、まともな仏教か、改宗してキリスト教にするか、どっちでもいいんですが、由緒ある宗教を信仰しましょう。それがイヤなら「自分教」とでも名付けて、心の内にとどめておきましょうね。
素人ではありますが、わずかでも宗教学をかじった人間に、仏教だの救済だのといった論を吹っ掛けるのは、それこそ「年寄りの冷や水」というものです。
「年寄り」を自称するのであれば、年寄りらしく、懐の深いところを見せてください。

おそらく気付いてらっしゃらないかと思いますが、このブログには「宗教」というカテゴリーを設けています。
たいしたことは書いてませんが、日本人の宗教観について、僕なりに考察したものもありますので時間がありましたらご一読を。

投稿: 小兄 | 2006年12月13日 (水) 23時31分

中途半端なことを書いてお心を煩わせしました。お尋ねの事にだけはお答えしなければと思い、ご迷惑ですが、又書きました
 私の家は浄土真宗です。(実家もおなじでした)だから浄土真宗のお話を(毎月お寺さんに来てもらっていますし)聞く機会が多いので、自然親鸞上人のお言葉になじんでおります。
各家の宗旨に帰依したらよいと思うといいましたのは、今まで残っている宗旨ならば何か値打ちが有ったからだろうと思うからです。
しかしながら歴史を経ると混じり物も多数含まれていると思いますので、自分なりに、祖師のお思いを読み取って信仰する事にしています。
だから自分教かも知れません。
尚お釈迦様の仏教はそんなに悲観的なものではなかったかと思います。『山川草木国土悉皆成仏』とは此の世の中のものはすべて完全であると言う意味だと聞いています。
又因果応報という言葉もやたらと暗いイメージになっていますが、元々は結果には原因があると言う極めて理性的な(その頃には科学など無かったので、科学的とは言えませんが)考え方で、今が思わしく無かったならば、その原因を突き止めてそこを改めれば、それから開放されるだろうと言う教えだったのだと思っています。
瀬戸内寂聴がお釈迦様の話をしていたのをチラッと聞いた事があるのですが、なくなる間際に『此の世はよいものだ・・・』と言っておられたと、瀬戸内さんは言っておられました。
尚一神教と多神教は別のものではないと思っています。
神(仏)が無限ならば,神ならざる物は存在し得ないのですから、行き会うすべてのものを神(仏)と名ずけても間違いではないと思います。
仏教でもおおもとの仏様と言う表現を聞いた事があります。
各宗とも時代地域によって表現が違っているだけで、真意に於いては同じものであった、と言うのが私の今の宗教観です。
そして何事をするにもご縁というものがありますので、自分の家の宗旨にまず帰依されると良いと思ってそう申し上げました。
宗教のブログでもないのに長々と書いて済みませんでした。

投稿: dendrodium | 2006年12月14日 (木) 10時51分

もともとは
「宗教的観点から見た世の中」
という主旨のブログですので、宗教の話は大歓迎ですよ。
ただ、僕が扱う…というか、「宗教」として認めている対象は、歴史ある宗教、つまり、キリスト教、イスラム、仏教、儒教、神道…などといったもので、どこかの誰かが新たに編み出した新興宗教は対象外としています。
そこで、浅学ではありますが、その浅学な僕から見ても、dendrodiumさんが主張しておられた宗教「的」思想には、非常に危険な傾向がある、と判断して反論させていただきました。

「危険」ってのは、カルト系のにおいがする、という意味です。
その根拠の一部は上のコメントにも書かれてらっしゃるように、

>尚一神教と多神教は別のものではないと思っています。
>神(仏)が無限ならば,神ならざる物は存在し得ないのですから、行き会うすべてのものを神(仏)と名ずけても間違いではないと思います。

という部分ですね。
一神教と多神教は全くもって別物です。
日本語でいうところの「神」は正確には「カミ」と書くべきで、一神教でいうところの「神」とは全く違います。これは「音が似ている」というだけの、いわば「当て字」です。

「神ならざる物は存在し得ないのですから、行き会うすべてのものを神(仏)と名ずけても問題ない」
というのは、明らかに神道の思想です。
八百万の神、ってやつですね。
「森羅万象は神によって創造された」ではなく、「森羅万象に神性が宿る」です。
もっと言えば、
「人間は神の分身」
というのが神道における考え方です。

一方、一神教でいうところの「神」は「創造主」であり、現世の森羅万象はすべて神がおつくりになった、というものです。
だから、森羅万象に「神性が宿る」とは考えません。単なる「塵芥」です。人間も「被創造物」であり、「神の分身」などという考え方は微塵もありません。

そして人間は、その神と契約を交わした。その「契約書」が聖書なり、コーランなりといった聖典です。
「神以外の何ものをも崇めてはならない」
それが一神教。
行き会うすべてのものを神と名付け敬うのは、明らかに「契約違反」にあたります。

「一神教的考え方は日本人には理解できない」
と言われますが、僕もその通りだと思います。
家畜を殺して食べる。
それを実感した時、普通の日本人であれば、何らかの罪の意識を感じるのではないでしょうか。
でも、一神教においては
「家畜は人間に食べさせるために神がおつくりになられた」
という考え方をしますから、罪の意識などありません。

だけど、dendrodiumさんは完全に一神教と多神教を混同してらっしゃる。
それは、カルト教団の手法と全く同じなんです。
要するに、つぎはぎだらけの宗教観、ってやつです。

浄土真宗は…というより、仏教全般と表現して差し支えないと思うんですが、
「人の生きる道」
というものを指し示す、非常に優れた教えだと思います。
ならば、そこに「自分の考え」などを加えることなく、素直に真宗の教えに従えばいいのではないでしょうか。
それと、僕は仏教に関して、「悲観的」などとは書いてません。
「仏教と一神教をごった煮にしてはいけない」ということを書いただけです。

たしかに、親鸞の悪人正機説と同じ事が、キリストの言葉として聖書にも書かれています。
でも、その根本的な思想は全く違うものだ、ということは理解しておくべきではないでしょうか。

ちなみに、「自家の宗旨に帰依すべき」との旨、書かれておりますが、僕の場合、父方はクリスチャン、母方は仏教徒であったがために、僕は「何に帰依すべきなのか」という点で揺れ動きました。そのために宗教学をかじったのですが、行き着いた答えは、「仏教の仮面をかぶった神道」、いわば「日本教」でした。
聖徳太子が編み出した「神仏混交」を出発点とする、世界の宗教常識から照らし合わせれば、おそらく日本人以外には理解不能な不思議な思想です。

それが、朝廷と幕府という、二重権力構造を生み出したわけですが、それに関しては、改めてブログで書きたいと思っています。

しつこいようですが、何を信じようが個人の自由です。
「帰依すべき」と思える宗教なら帰依すればいいと思っています。
でも、一神教と仏教をごちゃごちゃにした、おかしな宗教ではなく、純粋に盲信するに値する宗教に帰依すべきだと思っています。
浄土真宗は素晴らしい宗派ですよ。
そこに一神教的な思想を織り込むのは、「帰依した」とはいえません。
「混じり物」を加えたのはdendrodiumさんであって、真宗の僧ではありません。
親鸞の教えを素直に、ありのままに受け入れるのが「信仰」の在るべき姿だと思います。

投稿: 小兄 | 2006年12月20日 (水) 03時10分

よく勉強しておられますね
感服しました。

投稿: dendrodium | 2006年12月21日 (木) 07時19分

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» 武士道 [竹中公記]
 武士道とは、「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しと為す」という精神に、日本特有の「死の美学」を付加したものである(と言われている)。  そもそ...... [続きを読む]

受信: 2006年12月 7日 (木) 09時30分

» 伊吹文科省,頼むから辞めてくれ [D.D.のたわごと]
虐め問題に関して防止・解決を進めるどころかブレーキにしかならないなら伊吹文明,文科相やめなさい。それと教育再生会議も,取り組みが甘いなぁ…。 [続きを読む]

受信: 2006年12月 9日 (土) 08時20分

» こんな音楽ってどうなのよ [こんな 音楽 って どう]
最近の音楽ってどうなのよってことを私自身の見解で 調べた事を載せています。お役に立てば幸いです。 [続きを読む]

受信: 2006年12月17日 (日) 01時05分

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