2006年12月31日 (日)

大晦日

世の中に蠢く一般のみなさま。
あと数時間で2007年になります。
年末年始はいかがお過ごしでしょうか。
どーせ7連休とか10連休とか大型連休があって、実家に帰って、やれ
「お年玉がどーだ」
とか
「年賀状があーだ」
とかいいながら小さな幸せを噛みしめてるんでしょう。
今年の紅白歌合戦はどっちが勝つか、なんてこと言いながら、1年後の今日には
「そーいえば去年はどっちが勝ったんだっけ?」
とか言ってるんでしょう。

僕ですか?
いま仕事中です。
ええ。この記事は31日の午前3時に書いて、アップする時間を指定してますから、みなさんがこれを読むのは僕が仕事してる最中です。

「新聞社って大晦日の夜中まで仕事なんだ~」

なんて言ってる人もいるんでしょ。どーせ。

でもね、1月1日に配られる新聞って、誰が作ってると思ってるんですか。
我々が年越しそばも食わずに、紅白歌合戦でどっちが勝つかなんて、「娯楽」としてじゃなくて、「ニュース」としてしか見てないような状態で作ってるんですよ。
あなた方は正月紙面なんて、ぱらぱらめくって、三が日のテレビ欄だけ抜き取って、半日もしないうちに
「古新聞」
扱いするんでしょうけどね。

そもそもね、「古新聞」って表現、どうなのよ、ですよね。
「それって、古いの? 新しいの?」
みたいな。

考えてみてくださいよ。
新聞作るのって、年賀状のデザイン考えるよりはるかに難しいんですよ。
「あーでもない、こーでもない…」
って頭ひねって、デザインと言葉をひねり出してるわけですよ。
そうやって自分が苦心して作り上げた労作の紙面が、ある日、八百屋とかで大根に巻かれたりしてるわけです。

インターネットで例えれば、
http://www.higuchi.com/404/
の愚痴がなんとなく理解できてしまうんですよ。
「他人事じゃねーな」
なんてね。
まぁ、僕は機械じゃないけど…

そういうことで、来年もよろしくお願いします。
年末という貴重な時間を使ってここを見にきてくれた、ある意味、不幸な人生を送っている人たち、来年はいい年になるといいですね。
幸せな連中は、たまには悲惨な一年を送ってみるのも一興かもしれません。

僕だけ幸せになれればいいのに…

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2006年12月 9日 (土)

正義といじめと戦争と

過日のエントリー、

「教育基本法改正」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_ff13.html

にコメントがつきました。
コメント欄でお話しても構わないんですが、あえて新たに項を起こしてみたいと思います。

「大東亜共栄圏って…」
という点についてなんですが、僕はそれを「悪だ」とか「正義だ」とか、一概に言い切れるものではないと思っています。

長文ではありますが、過去に

「メディア・リテラシー」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_3090.html
「メディアと正義」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_0f45.html

にも書いたことがあるように、「正義」は決して一つではありません。時代とともに変遷し、そして人の数だけ正義が存在する。
現代社会において「悪」とされる侵略行為でも、時代背景によっては「正義」とされることがあるわけです。

強国に追い詰められ、逃げ場を失った当時の日本政府が、陸軍の暴発により戦争を起こしてしまった。
そして負けた。

コメントを寄せてくださったYoshiさん(http://geocities.yahoo.co.jp/gl/yoshiaki_takenaka)の主張を読むと、
「一理も二理もあるな」
と納得できる部分多々。

基本的に、「左翼思想がキライ」という点では一致しているのではないか、と。
ただ、「出来事を多角的な視点から眺めてみる」という僕のスタンスとは微妙なズレがある。
僕は左翼思想を喝破する必要はない、と考えています。
左翼思想にも「正義」は存在する。
ただ、その論調の出発点において、誤認識がある、という部分を指摘した上で、議論を交わす必要がある。
完全に論破して、左翼的思想を一切認めない、となると、言わずもがなですが、それは大政翼賛会の世界になってしまうのではないか、と。
(ちなみに、僕がサヨを嫌いなのは、僕のような右翼系の論調に対して「一切聞く耳持たない」とか、こっちが認めるまで徹底的に論戦を仕掛けてくる、負けると個人攻撃にはしる、という点で嫌いなわけで、「妥協点を探ろう」という姿勢の左翼論者は嫌いではありません)

「大東亜共栄圏思想は権力志向」
という論は、たしかに「政治的側面」において事実なのかもしれません。
が、それを信じて戦った人たちにとっては、「権力志向」など無関係だったのではないか、と。
真に「アジアの解放」を信じて戦った人たちに対して
「あれはあくまでも権力志向だ」
と断じてしまうのは、僕の心情的に
「それじゃ『個人の信念』を無視しすぎてないか?」
と思う次第です。

「権力志向だ」
と言い切ってしまうと、インパール作戦その他、アジア諸国独立のために、戦った兵士たち、そして、終戦後も現地に残って戦い続けた兵士たちの行動は説明できなくなってしまう。

政府は「国益主義」だったとしても、兵士は「愛国主義」だったわけです。
だから僕には答えが出せない。
いままで散々エラソーなことを書いてきましたが、信念に基づき、命を懸けて祖国とアジアのために戦った人たち、いわば「大和魂」を実践し、散っていった人たちに対し、平和ボケボケの日本で、このブログに仮面ライダーがどうだとか、サッカーがどうだとか、そんなことを書いてきた僕が、彼らを「断罪」できると思っているほど横柄な人間ではないつもりです。

また、「大東亜共栄圏」という思想も、先の大戦において「初めて」日本が掲げたものではない、その思想は(僕が知る限りでは)戦国時代から存在していた、と考えています。

豊臣秀吉による朝鮮出兵は2隊に別れ半島北岸と南岸を進軍していきました。
そのうちの1隊を率いる武将・加藤清正の行った行為は完全な「侵略行為」だったようです。
一方の隊を率いる小西行長なんですが、これ、何度も朝鮮、及び明に対して、
「北東アジアに巨大貿易圏を作ろう」
といった旨の書簡を送っています。
その書簡は途中で握りつぶされ、実際に明国に届けられることはなかったそうですが、これって、もしかして「大東亜共栄圏」のさきがけだったのではないか、と。

行長は秀吉の死が近いことをさとり、そういった書簡を送ったらしいですが、それを読むと、
「戦争はやめよう。貿易しよう」
という、「商人武将」らしい発想が見受けられる。

それを「大東亜共栄圏」的な発想だと捉えるのは決して間違ったものではないと思うんです。

歴史は断片的なものではない。連綿として受け継がれていくものなわけですから、大東亜戦争だけを見れば、「共栄圏」は政治的、権力的なものとして受け止められても仕方ないんですが、そこに至るまでの、数百年に及ぶ歴史を見たとき、
「もしかしたら、日本人には最初からそういう発想があったのではないのか」
と感じられるんです。
それも、聖徳太子の時代から。
「対等にお付き合いしましょう」
みたいな発想が、ね。

・・・といった余談はさておき。

ある一つの主張を
「これこそが正義(もしくは『真実』『事実』)だ」
と断定することは、冒頭にあげたメディア論にも書いていますが、非常に危険な思想だと感じるわけです。
「自分はこう思う」
そこまでしか言えないんではないでしょうか。
たとえそこにどのような歴史資料があったとしても、です。
資料に残らない歴史だって存在するわけですから。

極論ですが、例えば、
「邪馬台国はどこにあったのか」
みたいなものが、ね。

だから、その穴は推測で生めるしかない。
「Aという資料がある。Cという資料がある。でもそれをつなぐBという資料はない」
となると、Bの部分は推測でしかない。
また、資料に関しても、すべて揃っていると思っていたところ、後から違う資料が出てきた、なんてのも、ザラにある話です。

話かわって、いじめ問題。
いくつかの論調があります。
「いじめはダメ」
「いじめられる側にも問題がある」

などなど。

僕はどちらの言い分にも「正義」があると思っています。
ただ、「正義」だからといって集団で個人を攻撃することは、決して許してはならない、それをすれば、「正義」が「正義」として認められることはない、とも思います。
僕は基本的に、そういう考え方をするタイプですから、先の大戦についても、ABCD包囲網などという、国際的な「日本いじめ」は「正義」ではない、と思うわけです。

いじめられる側に問題があるなら、一対一でケリをつければいいわけで、何も集団でよってたかって袋叩きにする必要などない。

あと、
「いじめ2-文科相からの手紙」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_8729.html
にもコメントをつけていただきました。

最近、新聞などで
「がんばらなくていいんだよ」
との論調を見かけます。

それはそれで、たしかに一理あるのかもしれません。
でも、頑張らずに生きることを覚えた人間は、果たしてどのような人間になるのか?
「学校に行かなくてもいいんだよ」
などという論調もありますね。
たしかに、ガッコーのセンセーなんて、まともな連中は少ない。
英語や国語、数学などしか教えられないアホどもが多い。
だからといって、親御さんが「それじゃいじめられるぞ」と脅しをかけるのはいかがなものかと思うんですが、やはり最後は自助努力と好奇心なのではないか、と。
特に、好奇心が大事ですね。

いじめとはあんまり関係ないようだけど、いま、僕は仕事上で大きな悩みというか、ジレンマというか、ある種の「壁」にぶち当たっています。

言い換えれば「仕事が俺をいじめてる」状態です。

そこで時々、考えます。

「この壁を乗り越えれば、どんな世界が広がるんだろう」

と。

いじめ自殺の報道がなされるたびに思います。
「自分自信の未来に対する好奇心を教えてやれる大人はいなかったのかな?」
と。
追い詰められている人間はとかく視野が狭くなりがちです。
かつての僕もそうでした。
でも
「正義は我にあり」
「数年後にはすべてが変わるかもしれない」

と思える心を育てることって、大切なんじゃないでしょうか。
時には戦い、時にはガマンする。
そして
「明日は明日の風が吹く」
ですね。

・・・過去にサイト(http://homepage1.nifty.com/ksk628/frame2.html)も仕事も含めて膨大な文章を書いてきましたが、おそらく、今回ほどまとまりのない駄文はないかもしれない・・・

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2006年12月 6日 (水)

いじめ2~文科相からの手紙

なんやら、文科相から全国の小中高に手紙が送られたそうです。
知人経由でその写しを入手しました。
大人宛てと子ども宛ての2種類。
僕が入手したのは、手紙の写真だったので、句読点など細かい部分は判別できませんでしたが、文言は明確に読み取れました。
以下、2通の全文(と思われるもの)を紹介します。

文部科学大臣からのお願い

お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域のみなさんへ

 このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者に訴えられないとも言われます。
 一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱きとった生命。無限の可能性を持つ子どもたちを大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化をみつけるためにも、毎日少しでも言葉をかけ、子どもとの対話をして下さい。
 子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡しあい、子どもの生命を護る責任をお互いに再確認したいものです。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

これが大人宛て。
そして下が子ども宛て。

文部科学大臣からのお願い

未来のある者たちへ

 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのははずかしいこと。
 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。
   ◇   ◇   ◇
 いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

深く突っ込んだコメントは、今回は時間の都合で控えさせていただきますが、僕がこの2通を読んだ時の第一印象は
「こいつ、『いじめ』ってのがどんなものなのか、分かってないんだろーな」
でした。
もちろん、こんな文章、伊吹大臣自らが書いたとは思わない。どうせ文科省のお役人が
「こんな感じでいーんじゃねーの」
ってな具合で官僚的に、そして「アリバイ」作りのために書いたとしか思えませんが…。

こんなもん読んで、保護者や子どもに訴えても、いじめなんて絶対になくならない。
これを読んで
「いじめをやめよう」
と思う子どもは、最初からいじめに加担なんかしてないんじゃないのかな?
誰かに話したら、
「ちくった」
とか言われて、さらに陰湿な、表面に出てこないようなカタチでいじめられ続けるでしょう。

そもそも、
「いじめをなくそう」
というスローガン自体がおかしいと思うんです。

その理由は、いずれ時間があるときにでも書いてみたいと思ってます。

僕は小学校高学年あたりから、
・誰かを集団で無視する
・集団で嫌がらせをする
という行為に興味がなくなりました。
他のこと(音楽とかいろいろ)に興味を持ち始めると、いわゆる「いじめ」行為にまったく興味が失せてしまった。
特に、高校時代になると、音楽一辺倒で、自分のクラスにいじめがあるのかどうかすら知らない状態。
たぶん、自分がいじめられていたとしても、それに気付かない状態。

手紙を送るなら、保護者やいじめっ子、いじめられっ子に送るのではなく、そこに関係してない、いじめとは無関係な子どもに送るべきなんじゃないのかな?
「見かけたら止めてやってくれ」
みたいな具合に。

まぁ、しかし、いじめ自殺も大きな問題だろうけど、それは世の常であって、たまたま昨今、自殺が相次いでいるというわけで、今、上の手紙で仮にいじめ自殺の連鎖が収まったとしても、数年後にはまた同じことが起きるでしょう。

解決策は、授業に「武士道」を組み入れることではないのかな。
そして、日本史を社会科から外して、「国史」という別枠の授業を設けることを考えたほうがいいんじゃないのかな?

大和魂の復権。

いじめ問題解決策の一つに、こういう選択肢があってもいいんじゃないのかな。

つい先日、ガッコーのセンセーが作ってるサイトで、事故で死亡した子どもの写真やらを掲載し、遺族を中傷するようなコメントがつけられていて、両親がそのセンセーを告訴しました。

上の文科相からの手紙にあった一文

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。
(下線部は小兄)

ガッコーのセンセーの一部には、子どもを「人」として扱っていない連中も存在します。
遺族を平気で中傷して、それをサイトにアップする鬼畜もいる。
はて…そんなセンセーに相談すると、いじめられた子はどうなるんでしょうかね。

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2006年11月25日 (土)

仮面ライダーは正義の味方か

今日の産経新聞夕刊に

「仮面ライダー生誕35周年」
http://www.sankei.co.jp/news/061125/bun003.htm

という記事が1面トップに載ってました。
そこには2枚の写真が使われてました。
1枚は上のURLにあるライダーベルトの小さい写真。

問題は、もう1枚のほう。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/television/29054/slideshow/11783/

これ見て、会社で、
「どれが何ライダーなのか」
という話題になりました。

とりあえず会社で出た結論としては、
前列右から

ストロンガー
分からん
4号ではないか。名前が分からん
1号か2号
たぶん、新作の「カブト」
1号か2号
V3
アマゾン
分からん

あと、別の論点としては、
「1号と2号の違いは何か」
これに関しては結論は出ず。

4号と思われるものについては、ある奴が
「バッタのやつじゃないっすか?」
とか言うんです。
でもね、「バッタのやつ」って、あんた…

仮面ライダーはバッタと人間を交配させた人造人間じゃねーのか、と。

とりあえずは、
「1号、2号あたりはバッタと人間のハーフ、
4号と思われるライダーは、ハーフであるライダーを
さらにバッタと掛け合わせたクウォーター」

つまり、バッタ75%、人間25%ではないか、と。

でも、そうなってくると、人間の遺伝子は4分の1しかないわけだから、もはや
「人造人間」
とは呼べないのではないか。
「人造バッタ」
ではないのか、と。

もはやここまで来ると、
「バッタによるエスニック・クレンジング(民族浄化)」
といって差し支えないのではないのか、と。

次の問題として、ではなぜ人のカタチをしているのか、というのが浮上してくる。
バッタが75%ならば、バッタのカタチをしててもおかしくないのではないか、と。
んで、とりあえずは
「外見は人型。中身はバッタ」
ということになりました。

そこでさらに次の問題が浮上してきます。
脳みその容量はどれぐらいあるのか。

中身がバッタなら、頭脳もバッタ並みのはず。
果たして善悪の区別がつくのだろうか?

昆虫の世界に限らず、この世の動物世界は弱肉強食。
強いやつが弱いやつを食らう。
仮面ライダーの世界では、ライダーは
「悪を懲らしめる正義のバッタ」
という構図になっていると思うんですが、もしかしたら、その4号と思われるバッタ…いや、ライダーは「正義」という概念をもっているのか疑問。

もっと言えば、4号と思われるバッタに関しては、出てくる悪役は単なる
「エサ」
として認識して、やっつけて食料にしているのではないのか。

だけど、その食餌風景を放送すると、
「バッタが人を食ってる!」
などという苦情の電話が殺到するだろうし、そもそもグロテスクだから、
「自主規制」
をかけて放送しなかったのではないか。

そして悪役を駆逐したあとは、一般人をエサとして食う。

そうなると、もう
「バッタが世界を征服しようとしている」
としか考えられなくなる。

はて、そこまでたどり着いて、ふと気付きました。
「バッタに『世界征服』ということを思いつく知能はあるのか」

そして、今度は3万円を超す価格のライダーベルトに話題が移りました。
「ライダーベルトが3万円!」
「そういや、本格的なライダーベルトが発売されたって、話題になりましたよね」
「本格的ということは、ホントに変身できるのか?」
「使ったことがないから分からない」

ということで、以下、記事抜粋。

≪3万円のベルト≫

 「子供のころできなかった変身ベルトをつけることができ、涙がでるほどうれしかった」(46歳男性)「感動で胸がいっぱい。時間が戻せるなら子供時代の自分に買ってやりたい」(42歳男性)

 今春、話題をさらったバンダイの「仮面ライダー新1号変身ベルト」を購入した大人が、同社のホームページ「歓喜の声ページ」に寄せた声だ。

 ベルトは多色LEDを搭載。風車が回転、発光し、変身の際の様子や音をリアルに再現でき、3万1500円。ファン以外には驚きの価格だが、1万個を売った。

(下線部は小兄)

「変身できる」とは書いてないけど、この書き方だと
「変身できるのかもしれない」
と思えてしまう。少なくとも「変身できない」とは書いていない。

ということは、いずれ訪れる「バッタの惑星」の時代に備えて、エサにならないように買っておいたほうがいいのかな? などとしばし黙考。

でも、よくよく考えてみると、ボスニアだったか、コソボだったかの紛争で登場した
「モスレム」
という「民族」も、もともとはスラブ民族だったのがイスラムに改宗して支配者層になったがために、「民族の裏切り者」という憎悪の対象になったわけだから、純粋な人間が下手にバッタにへつらってベルト買って変身したとしても、世界秩序が崩れたら、
「バッタ vs バッタもどき vs 人間」
という、種族紛争に陥る可能性もある。

子どものころは、仮面ライダーって単なる「ヒーローもの」として見てただけなんですが、なかなかに奥深いテーマを内包してますね。

・・・バカ話ではありますが、うちの会社ではこんな話が日常茶飯事。

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2006年11月24日 (金)

教育基本法改正

改正案が数日前、衆院を通過しました。いま参院で審議中のはず…

さて、過日、うちの会社の労働組合から、
「教育基本法『改悪』反対の集会があるから出席してくれないか」
とのお誘いを受けました。

僕のブログを時折にでも見に来てくれる人たちは既にご承知かと思いますが、僕の思想は右寄りです。それもかなりの右。

そこで、そのお誘いに関する経緯を。

相手「教育基本法が改悪されるのは知ってるか?」
僕「『改悪』じゃなくて、『改正』でしょ
相手「いやいや、あれは『改悪』だろ
僕「まぁ、ある意味、『改悪』かもしれませんねぇ
相手「『ある意味』ってどういう意味?」
僕「そもそも『愛国心』なんもの、てホントは法律に盛り込んじゃいけないんですよ
相手「だろ。これを認めたら、また軍国主義の時代に戻ってしまいかねないと思わない?
僕「そうじゃなくて、『愛国心』ってのは、いちいち法律に定めなくても、家庭や学校で自主的に教えなきゃいけないものであって、それを法律に盛り込まなきゃいけない、ってのは、愛国者にとっては、非常に嘆かわしいことなわけです
相手「おぉ。俺はてっきり、うちの会社の人間は全部が反対派だと思ってたけど、意外なところに伏兵が…。さすがに、そういう奴は誘えないな

ってな感じ。

以前にも、必修授業の未履修について、
「日本の歴史は学ばなければならない」
みたいなことを書いたんですが、なぜ「学ばなければならない」のか、というと、
「歴史の教訓を最大限に生かすため」
つまり、まかり間違っても、かつての『暗い時代』といわれている世相に戻らないよう、
「なぜ戦争したのか。なぜ負けたのか」
を徹底的に研究、分析し、日本の行く末を案じて敵軍艦に特攻していった人たちのためにも、その分析・研究結果を教訓としなければならない、と考えているわけです。

そもそも、です。
「愛国心」=「軍国主義復活」
みたいなものの考え方って、飛躍しすぎてませんか。
いや、歴史をおろそかにしてるから、「そうなる」と考えてしまうのではないのかな?
「二度と同じ轍を踏まない」
と考えれば、歴史をきちんと教えた上での「愛国心」に何の問題があるんでしょう。
今回の法改正について、反対している人たちに問いたい。

そんなに日本が嫌いなのか?

日本はそんなに住みにくい国なのか?

いったい日本をどういう国にしたいのか?

だいたいからして、ホントに日本が住みにくい国ならば、改正反対派の集会やらなんやら、そんなことしてるヒマがあるなら、韓国でもアメリカでも、反対派が
「住みやすい」
と思える国、もしくは
「この国なら愛せる」
って国に移住すればいいじゃん、と思うんですが…

僕は日本という国がとても好きです。
好きを通り越して、愛しささえ感じています。
「この国に生まれて良かった」
とも思っています。
法改正によって、自分の国を好きになれる子どもたちが出てくる、というのは、とても素晴らしいことだと思うし、そうなればますます日本は「いい国」に育っていくでしょうね。

先日、↓のような本を読みました。

日本人としてこれだけは知っておきたいこと 日本人としてこれだけは知っておきたいこと

著者:中西 輝政
販売元:PHP研究所
Amazon.co.jpで詳細を確認する


筆者はまさに「憂国の士」ですね。
ちょっと過激に右よりかな、とも感じたけど、そこまで警鐘を鳴らさないと、もはやこの国はどうしようもなくなってしまう気がする。

そもそも「愛国心」って何なんでしょう?
国を愛する心?
じゃ、国って何?

「国」という表現には二通りの解釈ができると思うんです。
「政府」という解釈と「日本人の集合体」という解釈。

親兄弟、親戚、友達を大事にしましょう。そして自分も大事にしましょう。
僕にとっての「愛国心」ってのはそれです。

一方の反対派は
政府を大事にしましょう、とはケシカラン
ではないかと推測するんですが、いかがなものでしょう。

もしも、「愛国心」という言葉を僕と同じ解釈をしていて、それでもなお反対する人がいれば、これは法改正云々を唱えられる次元ではないと思うんですが…

「自分は日本人」
それがイヤなら上にも書いた通り、移住して韓国や中国にもで帰化して現地人になって、
「日帝」
とか
「小日本」
とか
「東洋鬼子」
などと叫んでいればいい。
個人的には、自虐史観を子どもに押し付けて、自分を生み育んでくれた国を貶めるような、「ガッコーのセンセー」というカルト集団には早々にこの国から出て行ってほしい
彼らが存在する限り、この国は良くならない。

自国の歴史を否定する輩は、僕のように
「大東亜戦争は日本の正義」
という人間を徹底的に批難します。

そういうこと、やられたことあります。社会人になってから。
出社すると個室に「軟禁」されて、
「あの戦争を正当化するなど記者としてあるまじき行為だ。反省せよ」
などと、ボロクソ。
僕が、自分が調べた範囲で、
「戦時中のあの出来事の実相はこうだ。この出来事に関してはこうだ」
と反論すると、相手は単に
「日本」=「悪」
としか捉えておらず、個々の出来事に関して勉強してないから、太刀打ちできない。

そこで、彼らが行う「常套手段」の登場です。
個人(僕)に対する誹謗中傷。
議論の中身には触れず、
「あいつは人の言葉に一切耳を傾けない自己中毒な利己主義者」
耳を傾けないのはてめーのほうだろ、と言いたいところをグッとガマン。
論破されて反論できなかったが故の中傷なので、こっちが相手と同じことをやると、今度は
「根拠もなく個人攻撃をする、言論人としてあるまじき行為」
と言われるのがオチだから。

新聞社内にして既にそういう
「自由な信条」
を認めない風潮にあるわけですから、「ガッコーのセンセー」カルトはもっとすさまじいんでしょうね。

「日本は悪い。そう思えないお前は人間のクズだ」
中学だったか、高校だったか、そんなことを言われたことがあります。

たぶんね、そういう教育体制というか、
「国を愛する心って大事なんだよ」
ということを教えない、そういう心を持ってる子どもに対し「ガッコーのセンセー」が通信簿の所見欄に
「思想面に偏りがある」
とか書く。
「偏りがある」と書くということは、「センセーの言葉に逆らってはいけない」ということであって、これこそ「軍国主義」の亜流ですよね。

そんな教育姿勢だから、いじめによる自殺もあとを絶たないのではないんでしょうか。
「いじめられる奴にも問題はある」
ってのも一理あると思うんですが、集団で一人ないし二人といった少人数をいじめるのは、絶対に許されないことです。

センセーがクラスの生徒全員がいる中で、僕に対して放った「社会生活不適合者」の烙印は、その後、存分にいじめの材料となりました。

僕の場合、「いじめよう」という意思を誰かから感じた際には、こちらから先制攻撃を加えてましたから、結局は「いじめたくても手が出せない奴」という存在になりましたけどね。
でも、センセーが何を目的としてそんなことを言ったのか、十二分に理解しております。

まずは教育基本法改正。
反対するセンセー・カルトは強制的に国外追放。
どうせ日本が嫌いなんだから、追放されてもどうってことないと思います。
そんな具合でいかがでしょう。

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2006年11月14日 (火)

いじめ自殺

いじめを苦にした自殺が連鎖的に起きてます。
僕は既に30代半ば。
自分の記憶をたどると、四半世紀前のいじめって、
自殺しなければならないほど深刻ではなかったような気がします。

・・・ま、まぁ、どちらかというといじめる側に立つことが多かったので、
あんまりエラソーなことは言えないんですが・・・

でも、いじめの対象になったこともあったわけで、
その時、どう感じたかというと、
「いつか仕返ししてやる」
でしたね。

いわゆる「江戸の仇を長崎でうつ」ってやつかな。

今の小中学生がやっている「いじめ」なるものがどのようなものか、
現場を見てないのでなんとも言えない部分があるんですが、
かつての外勤時代に某自治体の議会における教育長の答弁。

「子どもは、ある時にはいじめられ、ある時にはいじめ、
そうやって人の心が分かる人間に育っていくものだと考えております」

それを聞いた各紙の記者は一様に
「そうだ、そうだ」
といわんばかりに、しきりに頷いてました。

僕もそう思います。

が。

昨今の相次ぐ自殺を見ていると、
そう悠長なことを言ってられない状況にあるのではないか、と。
陰湿を極めるいじめ、逃げ場のない空間を作り出し、
「逃げたい」と思っても逃げられなくしてしまう。
そんな状況なのかな、と。

僕が小中学生のころは、いわゆる「いじめっ子」でした。
というか、周囲からはそう言われてました。
僕がやっていた「いじめ」は単純な暴力です。

休み時間に誰にも相手にされず、一人ぽつねんと席に座ってる奴に
「お前も一緒に遊ぼうぜ」
と声をかけて、遊んでる中で、相手の言動に腹を立てて殴ってしまう。

自分の行為を正当化する気はありません。
今では心のうちで深く懺悔してます。
でも、そもそも、そいつが何ゆえに
「誰にも相手にされず」
という状況だったのか。

それは、クラスの連中に「無視」という、
僕からみれば許しがたい「いじめ」をされていたからです。

「あいつ、ムカツクからみんなで無視しようぜ」

そういう「取り決め」がありました。
でも、無視(=存在を否定する)という陰湿な行為は、
僕自身もやられたことがあるので、そのつらさが分かります。
だから、「取り決め」を無視して、一緒に遊ぶ。
その中で、ケンカする。
それを見た連中は僕を指して
「小兄は○○君をいじめてます」
と先生に報告する。

すると、僕は”一流”のいじめっ子として教師にマークされる。
職員室に呼び出される。
保護者に報告される。
こっぴどく叱られる。
でも、僕に「いじめられた」本人は、
「あれはただのケンカでいじめられたとは思ってない。
むしろ、みんなが自分を無視してる方がつらい」

と言ってました。

つまりは、彼にとって、僕は唯一の「逃げ場」だったわけです。

僕は幸いにもケンカの腕前はクラスの中でもトップクラス。
僕とケンカして勝てる相手がいないから、
「小兄はあいつをいじめてる」
と名指しして、
「今度は小兄を無視しようぜ」
という話になった。
力ではかなわないから、無視。
で、今度は僕が無視されるようになった。

ちなみに、その時は、それを言い出した奴を校舎の裏に呼び出して、
ボコボコにタコ殴りして、腕の骨を折ってさし上げました。
「無視」などという陰湿なことをする奴は絶対に許さん、って。

僕の小中学校時代はそんな感じで、上記の教育長が答弁してた
「いじめたり、いじめられたり」
だったわけです。

しかし、昨今の「いじめ」とはいかなるものか。
相手を追い詰めて、追い詰めて、
相手の存在を否定するような陰湿なものになっているのではないのか。

教師までもが「いじめ」を容認し、また自ら率先して生徒をいじめる。
逃げ場なし。
そして、思いつめ、自殺という、最悪の選択肢を選ばざるを得なくなる。

そんな状況になっているのではないでしょうか。

「学校」「教室」という狭い空間。
しかも教える側は、高校、大学と卒業して、
社会なるものがどういうものなのかも知らずに、
再び学校に戻っていく。
非常に狭い世界。

一歩、外に飛び出せば、何らかの解決方法は見つかるはずなのに、
なぜに、あえて「死」を選ぶのか。

「命とはなにか」

確かに、必修科目を教えることも大事なのかもしれません。
でも、人間としてもっと大事なことってありませんか?
それを教えられない、理解できていない教師が多いような気がします。

さて、ふと気まぐれに「いじめ自殺」で検索をかけてみました。

マスコミ批判もあるようで、例えば↓
http://fareastclub.at.webry.info/200610/article_22.html
http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000002585
http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/ijime_jisatsu2.html

上記3つにざっと目を通すと、
「確かに、そうかもしれない」
と思う部分が多々。
特に最初にあげたURLにある

最近ニュースを騒がせているものと言えば、ライブドアの証券取引法違反という株で儲けた話し、政治家たちの不祥事、警察官の飲酒運転、一般民とは少し違う考え方の人が集まった集団(例えばカルト教団など)と、それに対する執拗なマスコミの追いかけ取材。

確かに、そんなことばかり報道していては、次に続く

自分が小さいころにもいじめは確かに存在した。けれど、教師を含め、大人を信用しているところがあったように思う。信じられる親、兄弟、教師、警察官、政治家・・・。それを支えにして生きていたのではないかと。いじめられてても、勉強を頑張って大人になったら、違う人生が待っているかも知れない・・・、そんな期待。

ということも媒体を通して伝えることができなくなってしまう。
行間にこめられた、静かではあるけど痛烈な業界批判には、
業界に身を置く僕としても、
「我々も反省しなければ」
と感じざるを得ません。

でも、一方で以下のようなことを書かれておられるブログを発見しました。

生徒へのいじめ問題の前に
学校の先生をいじめるのは悪いことですよ!

そもそも、先生がどうしていじめを上へ報告しないかというと、
報告すると出世できないからです。

つまり、いじめが無くならないのは、
上、つまり文部科学省や教育委員会が
いじめがある学校をいじめるからです。
http://nextream.jugem.jp/?day=20061112

上に引用したブログの管理人さんは、教育関係者なんでしょうか?
やたらと学校サイドをかばっている様に感じます。
記事を読むと、「先生になりたい」という動機と
「出世したい」という思いがほぼイコール、
という構図が僕の頭の中で浮かび上がってきます。

今どきの子どもたちは、大人が思っている以上に利口です。
子どもがインターネットで上のような記事を読めばどうなるでしょう。

薄々感じていたことが「確信」に変わり、
「いじめても、あの先生は上に報告しないから大丈夫」
という結論に至ると思いませんか?

そしていじめはますますエスカレートする。

加えて、上記の筆者は
「教師がいじめに参加しているケースもある」
という言語道断な事実を黙殺
していますね。

いじめ、言い換えれば
「弱い奴がさらに弱い奴をたたく」
という事象は、世の常ではないでしょうか。

教育委員会や文科省が指導(筆者の言を借りれば「いじめ」)をしなくなれば、
いじめが自然になくなる、というのは僕としては納得できません。

文科省や教委が、いじめがある学校を”いじめ”るのは、
学校内のいじめ問題に対処できないアホ教師どもに対する指導なのではないでしょうか。
その「指導」を「いじめ」と受け止め、深刻化している学校内のいじめを放置する。

そんなものは教師による「職務放棄」、
もしくは、「学校という組織ぐるみの隠蔽」でしかない
のではないでしょうか。

だいたいからして、教師も「一応は」社会人なわけです。
教職を通じて給料もらってメシを食ってる。
学内でいじめがあるなら、それは上に報告すべきでしょう。
きちんと報告していれば、厳しい指導があるかもしれない。
でも、それをもって学内のいじめ問題根絶に立ち向かうのが
教師の義務ではないのでしょうか。

にもかかわらず、いじめ問題を隠蔽する。
隠蔽ならまだしも、教師が生徒をいじめる。
あるいは、見て見ぬフリをする。
生徒が自殺してから、会見を開いて謝罪する。
人の命を何だと思っているのか。
死んでから「ごめんなさい」で済ませられるようなものではない。
上のブログの記事は、子に先立たれた親の気持ちなど、
まったく斟酌しない「鬼畜」の屁理屈に過ぎない。

校長の自殺が相次いでいる。
それはそれで痛ましいことではありますが、
「職務放棄」「職務怠慢」による責めを負って校長が自殺するのと、
理不尽な「いじめ」に遭って子どもたちが次々と自殺していくのと、
「自殺」という行為は同じでも、その質は全く異なる
もので、
「教育委員会などが学校を”いじめる”から」
という部分を焦点にしてはいけないと思うのですが、いかがでしょう。

いずれにせよ、「命」というものが軽く、軽くなっているように感じる昨今です。

もしも、僕のブログを読んでる人の中で、
いじめに苦しんでいて、自殺しようと考えている人がいたら、
ほんの少しでいいから考えてみてください。

いじめられた人間は人の痛みが分かる人間になる。
いじめた経験しかない人間より、ずっと懐が広い人間になる。
自殺は、「弱い奴を叩く」ことしかできない弱い人間を喜ばせるだけ。
そんな人間のクズのために、自分の命を絶つなんて、
悔しくて馬鹿らしいだけだと思いませんか?

人一人の死というものは、自分が想像している以上に、
親や親戚、友人に抱えきれないほどの苦痛を与えるものです。
今の苦痛を乗り越えた時に、どんな明るい未来が待っているのか、
いろいろと空想してみてはどうでしょう。

5年経っても10年経っても、人生に苦痛しか感じられなければ、
それから死んでも遅くはないんじゃないでしょうか。

かくいう僕自身も、いじめが原因ではないけれど、
自殺したいと感じたことは何度もあります。
でも
「あと1年、生きてみよう。それでダメならその時に死のう」
と、1年ごとに先送りしてた時期がありました。
死ぬのが怖いからじゃなくて、
その時期の苦痛を乗り越えたところに何があるのか見てみたかったから。

おかげで、乗り越えた今では、すっかり開き直って
脳天気なサラリーマンやってます。

「お前、悩みなんてないだろ」

なんてこと言われながら。

真剣に悩んだ時期があっただけに、
多少のことでは動じない精神力が身についたんでしょうね。たぶん。
そう考えると、

「悩むなら若いうちがいい。死ななければ勝ち」

ということもできるのかな、と。

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2006年10月 4日 (水)

今どきの若者

まもなく人事異動があります。
今回は理由はよく知らないんだけど、いつもと違って10月半ば。
僕は「新聞記者」であることに変わりはないんだけど、「整理記者」といいまして、一般の人が想像する「新聞記者」とはかなり違う仕事をしています。

だから、ブログやったりサイトやったり、果てはゲームやパチンコにハマったり、といったことができるんですけどね。

あと、同業者がやってるブログなんかを見ると、時事問題を取り上げたものが非常に多いんですが、僕のブログは、ほとんどがバカ話だけど、どちらかというと思想的な側面が強い。
もちろん、時事ネタも書こうと思えば書けるんだけど、実際に取材に当たった上での裏話とかじゃない限り、読んでて面白いと思えないし、どうせ書くなら恒久的に残せるものを書きたいと思うからです。
んで、そういうことを考えてる時間もたっぷりある。

さて、そんな仕事ではあるんですが、正直、僕のように
「実働時間30分」
と自他ともに認めるレベルまで到達しなければ、そんな空き時間など作れません。
作れないどころか、初心者は必ずといっていいほど、軽いうつ病になります。

そうです。初心者にとって僕の存在は「雲の上の人」であり、デスクですら僕の言いなりになっています。
ちなみに、部内では「ゴッドハンド」と呼ばれております。
神速で紙面を作るさまは、初心者からみれば「神の手」としか見えないんでしょう。

話がそれました。人事異動。
今回、うちの部署で抱える新人は2人。2人には数週間、「師匠」がついて、基礎をみっちり仕込むわけです。
そのうちの1人を僕が預かることになりました。

ある日、喫煙室でタバコを吸っていると、部の同僚が若い誰かと話をしている。
そして、僕を指差して、
「うちの部で一番怖い人だから、接する時には丁寧に」
などという、とんでもないデマを吹き込んでいるわけです。
いやいや、こんないい加減な人間が怖いわけねーだろ、と思ってたら、その若者が
「○○といいます。今度の異動でお世話になります」
と挨拶してきたんですね。

と書くと、「ちゃんと挨拶できる人じゃん」と思う人もいるかと思いますが、ぶっちゃけ、僕はその挨拶の仕方が気に入らなかった。
なんかね、
「整理の仕事なんてすぐ覚えられるから、お世話になる必要はないんだけど、一応、挨拶でもしとくか」
みたいな、ぞんざいな口ぶりだったんです。
それがカチンときてね。
「あぁ。君が○○君か。俺が君に仕事を教えることになったけど、俺は話を真面目に聞かない奴は嫌いだから、俺が先生についてる間は、一秒たりとも気を抜くなよ。でないと、何も教えないから覚悟しておけ」
ってドスのきいた声で軽く脅しておきました。

なんだかね、最近の20代の連中って、礼儀がなってないと思うんです。
なんか人を見下してるというか、自信過剰というか。
いったい何を根拠にそれだけ尊大になれるのか、不思議でなりません

その後、一言二言、言葉を交わしました。
「君はいままで何を担当してきた」
「これとか、あれとか…」
「あぁ。誰でもできる仕事か。自慢にもならんな」
「・・・」
「その程度の仕事しかしてない奴が、俺に向かってあんな態度で挨拶したわけか」
「・・・」
「で、これからもそんな態度で俺に接するつもりか」
「・・・いえ。あの・・・」
「俺が教えた連中はみんな仕事ができるようになってるけど、いままで初対面で君みたいな態度で俺に接してきた奴はおらん。みんなもっと謙虚やったぞ」
「・・・」
「(タバコの煙を彼に吐きかけながら)これから楽しみやな
「あ、あの・・・」
「ん? なんか文句あんのか?」

お断りしておきますが、僕は後輩を叱ったことがありません。自分では非常に温厚な性格だと思っています。
喫煙室での会話は、あくまでも「からかってみただけ」なんだけど、その新人君、それまでは
「整理なんてすぐ覚えられるでしょ」
とか豪語してたらしいんですが、その日を境に
「あの部署に行きたくない」
とか言い出したらしい。

ま、根拠のない自信を持ってる奴は、それを打ち砕かれるといきなり小心者になる典型例ですね。
「負けないように頑張ろう」
と思う根性はないのかな?

面白いから、もうちょっと「怖い人」を演じてみたいと思ってます。

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2006年9月27日 (水)

検索ワード~行方不明の記者はバカ

少し前に、ブログにアクセスカウンターをつけました。右下の方。いま確認したら「5274」になってました。
ブログやサイトをやる人間って誰でも同じだと思うんですが、
「何かやってみたい」
という意思を持っているんじゃないでしょうか。
「何か」が何なのか分からないから、とりあえず手近なインターネットで、以前ならサイトを、最近ならサイトより簡単なブログを、ってところかな。
明確な目的意識を持ってブログやサイトをやっている人もいますが、「なんとなく」って感じの人の方が多い気がします。

目的意識を持ってやってる人のサイトは当然、アクセスが多い。2ちゃん系もアクセスが多い。
でも、「個人の日記」に過ぎない僕のブログ、サイトは当然、アクセスは少ない。
5000超えてるだけでも、正直なところ、驚きです。
ちなみに、一番アクセスが多かったのが、サッカーのワールドカップ期間中に書いた
「勝ち点の計算方法-日本勝ち抜けの条件」
でした。

それはともかくとして、アクセス件数。
僕も「何かやりたい」と思ってサイト&ブログを始めた派です。明確な目的意識は持っていません。
でも、なぜかアクセス数って気になるんですよね。

このブログと相互リンクしてるブログは
「書きなぐソ陪審」

「霧の中の鈴」
だけ。
サイトは僕が以前に書いたチベット紀行を中心とした
「心象風景」
のみです。
だから、普通に考えれば、よほど面白い内容でなければ、アクセスが増えるはずがない。
なのに、開設から7ヶ月で5000件突破。
どこから来てるんだろう? ってのが気になるところです。

そこで、アクセスカウンター。これ、実はアクセス解析機能も持っておりまして、同時にアクセス解析のタグも張り付けてるので、ある程度までたどることができるんです。
検索ワードも分かる。

「女 ヘビースモーカー」
…いったい何を探してたんでしょう。わりと気になる。
「国名5文字」
…それを何に役立てようというんでしょうか。
「パチスロ 人間のクズ」
…うるせーよ、って感じですね。
「ウクライナ 風俗」
…目的は分かるんですが…
「ブラジル 3文字 表記」
…漢字で書くと「伯剌西」。てか、日常生活の中でブラジルを3文字で表記する必要ってあるんでしょうか? ま、目的はともかくとして、それを僕のブログに求めるのは明らかに間違ってますね。
辞書をひけ! 辞書を!
もしくはWikipedia。
「韓国の汚いサッカー」
…同感。
「もてる30代」
…そんな内容、書いた記憶ないっす。でも検索かけた人が30代で、「女にモテたい!」というギラギラした性欲がびしびしと伝わってくるステキな検索ワードですね。
「糞尿便器処刑」
…もはやここまで来ると、僕の常識では測れない人種が存在するということを痛感させられます。

さて、簡単ではありますが、僕が「?」と思った検索ワードでした。わずか半月足らずの間に、こんなキーワードで僕のブログにたどり着いてる人たちがいるのかと思うと、
「俺のブログって、すっげー低俗なんだなぁ」
と思わざるを得ません。高尚な内容を書いてるつもりなんだけど…

でも、僕が一番気になった検索ワードがあります。
「台風 記者 行方不明 バカ」
これは間違いなく、
「台風で新聞記者が行方不明~記者の殉職」
にたどり着いたはずです。僕は確かにそこで、
「行方不明になった記者は未熟だったんだ」
という内容を書きました。
が、「バカ」ってなんだ?

上記記事にも書きましたが、僕としては、無意味に命を落とす必要はない、同じことを繰り返してはいけない、という思いで書いたんですが、僕も人の子ですから、やはり「取材に行って行方不明」と聞くと、「気の毒に」という思いが真っ先に頭をよぎります。

この「記者 行方不明 バカ」で検索をかけた人は、いったい何を考えてるんでしょう。
人が行方不明になるたびに、そして人が死ぬたびに
「バカじゃねーの」
と喜んで、自分はそんなことしない、と悦にいってるんでしょうか。

人間なんて、いつどこで、どんな死に方をするか分かりません。
イラクで首を切断され殺害された若者がいました。
軽はずみな行動が招いた結果、といってしまえばそれまでですが、僕は彼を
「バカ」
と呼ぶ勇気はありません。
まともな感性を持っていれば、「可哀想」という気持ちの方が先に出てくるんではないでしょうか。

僕の兄は幼いころに事故で他界しました。
自分なりに命の重みは理解しているつもりです。
「記者 行方不明 バカ」
そんな言葉で検索かける鬼畜の気がしれない。
本物のバカはどっちなのか、お前が行方不明になった時に、「バカ」で検索かけられたらどんな気持ちになるか、じっくりと考えろ、と言いたい。
検索をかけた人間のクズは、僕の兄のこともやはり
「バカ」
と呼ぶんでしょうか。もしそうなら、僕がこの手で殺してやりたい。死者を「バカ」呼ばわりするゴミに生きてる資格なんてない。

なんとなく見てみた検索ワードで無性に腹が立ったので書いてみました。
日本社会から、人を思いやる気持ちがどんどんと消え去ってしまっているような気がします。

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2006年9月21日 (木)

エヴァンゲリオン

以前に確か2ちゃんだったと思うんだけど、「新世紀エヴァンゲリオン」10周年を記念して…だったか、エヴァの別バージョンを作成するとかしないとか、そんな話を見かけました。

それが事実なのか否かはともかくとして、アニメ・エヴァンゲリオン。
この数日かけて第一話から第二十六話までぶっ通しで見ました。
加えて劇場版エヴァ「Air」と「まごころを、君に」(タイトルうろ覚え)も見ました。
「シト新生」は第一話~第二十四話までの総集編みたいな感じだったはずで、テレビ版・エヴァの終わり方に納得いかない僕は、リメイクした最終話を見たかったわけです。

二十代の若者が夢中になり、エヴァ・ブームを巻き起こした理由がよく分かりました。
三十代半ばの僕が見ても面白かったから。

んで、最近、「BLEACH」ってマンガを大人買いしてきて読んでました。
「鋼の錬金術師」とどちらにしようか迷ったんだけど、深い理由もなく「BLEACH」。
これはこれで面白いんだけど、なんというか、「DeathNote」と「るろうに剣心」とエヴァをミックスしたようなマンガだな、という印象。

70年代後半にセックス・ピストルズをはじめとするパンク・バンドが社会現象を巻き起こして以降、「ロック」と呼ばれるジャンルには必ずといっていいほどパンクのにおいが混じるようになったのと同じように、マンガ、アニメにもやはりエヴァの影響を感じてしまう。

ま、全部が全部じゃないし、僕はめったにマンガ読まないから、あくまでも、
「そんな気がする」
というだけです。
「違う!」
という方もおられると思いますが、これはどこまで行っても僕個人の感想、という域を出ない話なので、あんまり真剣にとらえないでくださいな。

要するに、
「エヴァンゲリオンって、もの凄いアニメだな」
というのを再認識した、ということを言いたいだけなんです。

ちなみに僕が好きなマンガは「3×3アイズ」と「マスター・キートン」「るろうに剣心」ってところかな。今すぐ思い浮かぶのは。

さて、何ゆえ今さらエヴァンゲリオンなのか、という点なんですが、理由は単純。

パチンコにどっぷりハマってるから。

僕はもともとパチスロ派で、パチンコはある時期からまったく打たなくなってしまったんですが、以前の勤務地の記者クラブでは、近所のパチンコ屋が半ば記者室状態で、パチンコ屋に行けば、他社の記者が必ずいました。
で、パチンコ屋で
「こんなネタがあるんだけど、今度一緒に取材に行かねー?」
なんて情報交換してたりするんです。
でも、パチンコのシマとパチスロのシマって、同じ店内でありながら、意外と敷居が高いようで、僕も含めた記者連中が全員、店に来てるのに、なぜか僕だけ誰とも顔を合わせることなく…ということが頻繁にありました。

それ以来、パチンコに復帰したんですが、ヤマトとエヴァだけは出ない。どれだけ負けたか分からないぐらい負けました。
「おぉ、こりゃ鉄板だろ」
って演出が出ても外れる。
だから、エヴァの2台目、「セカンド・インパクト」の存在も知りませんでした。
「エヴァは打たない」
って決めてたから。

ところが会社の先輩がやたら
「エヴァ、エヴァ」
ってうるさいから打ってみたら、もう最高っすね。
他の台で負けて、負けて、

こりゃもうダメだわ…

って時にエヴァに突っ込むと、なぜか爆発する。
エヴァと歌姫伝説。
この2機種が、今の金づる。

エヴァ打ち始めてから、それまでパチスロ北斗SEで負けてた分を全部回収した上で、さらに収支はプラスのまま。
ホールに行って、最初からエヴァや歌姫を打つと出ないんだけど、他の台で遊んで、負けてから打つと、必ず出てくれる。んで、必ず、その日の収支がプラスになる。

つまり、この1ヵ月近く、交換せずにホールを去った日は一度もない、ということ。
別の言い方をすれば、たとえ1000円であっても、必ず勝ってる。負けた日が一度もない。

で、昨日もエヴァを打ってたんですが、いろんな演出があるんですよね。
その中でも特に気になるのが「セリフ予告」。
「悪く思わないでね」とか「マギは判断を保留しています!」とか、いろいろ。

どんなセリフが熱いんだろ? と思って、なぜかパソコンに入ってたエヴァ全話を見て復習してみようと、見た次第です。

ま、なんだかんだ言ったところで、僕が見たセリフ予告の中で、一番熱かったのは、葛城ミサトの
「熱い、熱い、熱いわよ~!」
です。
そのセリフ予告が出た直後に、暴走モード6回も含めて30連荘。
連荘が終わって、時短終了後も70回転ほどで15Rが10連荘しました。

…パチンコの話なのか、アニメの話なのか、分からなくなってしまいましたが、いずれにせよ、
「やはり、エヴァンゲリオンは偉大だ」
ということで。

あれを超えるマンガやアニメって、もう出てこないんじゃないかな?
「るろうに…」も「3×3…」も面白いけど、エヴァほどのインパクトはないっすね。
もし、オススメのマンガがあったら教えてください。
アニメは手に入れるのが面倒だから、できればマンガで。

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2006年9月18日 (月)

台風で新聞記者が行方不明~記者の殉職

台風13号が日本海に抜けました。ブロック紙(だったと思う)の新聞記者、27歳が取材に出かけたまま行方不明になっています。

27歳って、ようやく仕事に慣れてきて、プロ意識が芽生え、記者の仕事が面白くって仕方ない…という年齢です。
新卒で入社したとすれば、僕の経験から照らし合わせれば、バリバリの若手で、気力、体力ともに充実してて、先輩や上司に怒鳴られることも少なくなり、手下(「てか」と読んでね)がつくぐらいの年ですね。

これを書いてる段階では、依然「行方不明」のままなんだけど、九州地方を襲った台風13号のテレビ中継などを見て、
「行方が分からなくなってるだけ」
と思う人はいないでしょう。

仕事柄、「だれそれが行方不明」などという原稿は大量に書いてきたし、紙面化してきたけど、記憶に残っている限り、行方不明者が生きていた、という話は書いたことも読んだこともありません。

世界では毎年、何百人ものマスコミ関係者が殉職しています。
多くは従軍記者なんだけど、朝日新聞阪神支局襲撃事件のような「殉職」もあります。
僕が働いてる会社でも、過去に何人かが取材中に命を落としています。

そう。こんなお気軽で能天気なブログ書いてる僕でも、いつ死んでもおかしくない
徒にマスコミ批判をする人たちも多々いますけど、僕ら業界人だって命がけで報道の仕事に携わっているわけです。

一昨年だったかな?
台風上陸が相次いで、日本中に大被害をもたらした年がありました。
直後に新潟中越地震が起きたこともあり、多くの人は記憶から薄れているかもしれませんが、あの時、僕は日本海側の通信部で仕事をしていました。

強風と大雨で、夕方6時ごろにメシを食いに行こうと外に出たら、道路は完全に冠水していて、どこがセンターラインなのか分からない状態。
というか、どこが道路なの? 状態。
要するに出かけられない。
その夜はカップラーメンをすすって空腹をしのいだ後、時々、関係機関に被害状況を問い合わせて、あとは徹夜で待機。

一夜明け、テレビを見ると兵庫県豊岡市、水没。
比較的近くだったので、上司に「応援に行く」と伝えて現場に向かいました。

当地の支局に到着すると、所属記者連中はグッタリ。
どうしたのか質問してみると、
胸のあたりまで浸水してる時に、堤防の決壊現場に取材に行った
とか、
冠水した道を強行突破して災害現場に行ったら、川の水が逆流して一気に増水したため完全に孤立し、風雨にさらされながら民家の屋根で一夜を過ごした
とか。

そいつらに言いましたね。
「お前ら、バカか」
って。
普通に仕事してるだけでも死ぬことがあるような職業なのに、これからますます災害がひどくなるって時に現場に向かうのは自殺行為に等しい。

「記者魂」
と言えばカッコいいかもしれないけど、連中の言葉を聞いてると、結局は現場の状況を把握してない本社のエライさんに
「現場に行け」
って言われたから行っただけ。
命令したデスクもデスクなら、状況も見ずに現場に向かった記者も記者で、どっちもどっちですね。
怪我人は数人出たけど、死者がいなかったのが不幸中の幸いです。

さて、今回の台風で行方不明になっている記者は、どういう経緯で取材に行ったのか。それが気になるところです。

自らの意思で行ったのなら、それは本物の「記者」だし、殉職しても堂々と「プロとして命を落とした」と言えるでしょう。
けど、上司や先輩の命令で行って、行方不明になったのなら、無礼を承知で書かせてもらうと、
「取材不足だった」
としか言いようがありません。

何らかの方法で被害状況をしっかりと取材して、いまどのような状況下にあるのか、しっかり把握していれば、
「巻き込まれる可能性は十二分にある」
ということは事前にある程度分かるはずで、ベテラン記者はそういう準備をしてから、出るべきか、出ざるべきかを判断しています。

行方不明者に対してこんなことを書くべきじゃないのは重々承知していますが、今後も僕と同じ業界の人間が同じような目に遭わないことを願って、あえて書かせていただきます。

行方不明になった記者、要は「記者として未熟だった」ということです。

もしくは、本当に自らの意思で報道に命をかけたのか、どちらか。

すべてを把握した上で危険な現場に赴くことは「勇気」と言えましょうが、命令されたからといって盲目的に現場に向かうことは「勇気」とは呼びません。「盲従」であり、単なるロボットです。

ところで、僕が体験した台風の取材ですが、上記の通り、僕が勤めていた通信部周辺ですら既に派手な冠水がありました。
電話で関係各所に問い合わせたところ、数メートルの床上浸水が多数出ており、現在、救命ボートで救出作業中、という返答がいくつもありました。
デスクに
「こっちではこんな状況です」
と報告すると、
「取材して写真撮ってこい」
との命令。

で、数十分後、再びデスクに電話して
「冠水がひどくて、たどり着けません」
「なんとかならないか」
「完全に水没して、目視不可能な距離までしか行けません。現場まではとても無理です」
ということで、デスクはあきらめました。

もちろん、その夜、僕は一歩も外に出ずに通信部でカップラーメンすすって、パソコンでゲームしてたあhふぁらうお

「報道の使命」ってのは確かにあるけど、命かけるほどのもんじゃないっす。

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