2018年7月 8日 (日)

7人の死刑執行

1995年のテロから23年。関係者7人の死刑が執行されました。私は「死刑制度は存続すべき」という立場です。
 
◆驚き
 
驚きましたね。殺さないんじゃないかと思ってたから。
で、疑問だったのが、天皇が替われば「恩赦」があるはずなんですよね。どうなるんだ?と思ってました。
平成が終わるまでに処理する、という方向だったそうで、それならあと6人だっけ?それも執行されますね。
 
あとは「ほぼ虐殺クラスだな」と。
今の時代、一日のうちに7人を一気に殺すのは異様な印象を受けます。
また、西日本豪雨で混乱してる最中だったのもあります。
聞けば、A級戦犯の死刑以来の執行数だそうな。
朝日が一生懸命叩いてました。
 
◆EU
 
EUが反発しているそうです。
朝日が騒いでました。
私の記憶では、95年当時、死刑をめぐり、廃止、存続の両派の意見は噛み合わず、数も拮抗していたように思います。
 
それが一連のサリン事件などの首謀者が宗教団体だったことや、あの教団内部の気持ち悪さから、世論は一気に「死刑は必要」になった印象です。
廃止派は口を閉ざしました。
実質的に「死刑許容」にならざるを得ない状況です。
 
この数日の報道を見ていると、
「死刑」
という言葉だけに反応して、一応「テロは許せない」と但し書きをつけてるだけのような…。
んで、国内の存続派、許容派はシリア空爆などを引き合いに出して、
「ヨーロッパだって殺してる」
と反論してるんですが…。
 
世界的に、テロリストは基本、あの手この手で処刑でしょ。
逮捕の前に殺しちゃう。
詳しくは知らないけど、ヨーロッパやアメリカ、ロシアは裁判してるんでしょうか?
テロを黙認した仲間もまとめて処刑でしょ。
洗脳があろうがなかろうが問答無用ですよね。
証拠だって怪しいもものです。
アジトに特殊部隊などが乗り込んで銃撃、射殺。
それが世界のトレンドだと感じます。
 
シリア空爆はまさにそれでしょ。
気に入らないから殺してる。
日本は法治国家なので、裁判を経ないと処刑できません。
犯行に理由があれば主張できたはずだし、日本中がそれを期待してたんだけど…。
 
ま、今回の死刑に不気味さは感じたけど、
「平成のうちに」
という判断に、なるほどと思いました。
他国が何を言おうが関係ない。
もしも死刑廃止が望ましい姿なら、法制度を変えなきゃいけない。
 
彼らを死刑にしたくなければ、逮捕時に死刑判決が確実視されてたんだから、そのタイミングで異論を唱えないとね。
 
◆マスコミ
 
ここ数年、各種報道に違和感を覚えることがあります。
「ネットも賛否」
「世界が異論」
みたいなノリ。
自分たちが報じたい言葉があれば、どこの誰が言ったかは関係ない、と言わんばかり。
海外の報道はまだ確認できるけど、ネットの声って確認できない。
自作自演の可能性すらありますから信用ならない。
一部の報道機関、朝日新聞のことですが、前歴ありですし。
いずれにせよコメントが恣意的に過ぎる。
 
松本サリン事件の時、私は学生でした。
国際政治学や比較宗教学などに興味がありまして、
「サリン」
という毒ガス兵器があることは知っていました。
国内の新興宗教にどんなものがあり、何を主張しているのかもある程度把握していました。
 
ところが、警察は近所の「Kさん」を参考人として事情聴取したんです。
それでマスコミは
「犯人はKだ」
と呼び捨てで書き立てたんです。
当時の私のゼミ仲間も
「Kって悪いやつだな」
とか言ってたんですが、サリンだというのが分かった時点で、私は
「あの周辺でサリンを製造できるのは、あの集団だけ」
と思いました。友人にもそう言ったんですが、
「宗教者が殺人なんてするわけないだろ」
と一笑にふされてました。
あの教団だと指摘していた識者もいましたが、マスコミは無視したり叩いたり。
私のゼミ仲間と同じ。
「宗教団体が人を殺すわけない」
 
いやいや、十字軍は?島原の乱は?
宗教ほど殺人を正当化できるものはない。
神の名のもと、罪人を救済するわけですから。
 
マスコミのミスリードです。
それを踏まえて、裁判が終わるまで呼び捨てにしない、「容疑者」「被告」をつける、ということになったはずなんですが、「推定無罪」が基本のはず。
「呼び捨てにしない」という姿だけが残ったような…。
 
◆安倍政権が悪い?
 
安倍首相と上川法相が前日に宴会してたそうな。
だから何だ?
記念撮影もしていたそうな。
その写真をどこからか入手して、
「死刑の前日に満面の笑みで云々」
と、「悪辣だ」と言わんばかりの報道。
 
また、ある朝日の記者は、教祖は目に障害があったことを挙げてから、サリンも目に後遺症が残ることを挙げていました。
「だからサリンを選んだ」
とは書いてない。「察せよ」みたいな書き方。

 
効率的に人を殺せる何かを探していれば、必然的に毒ガスに行き着くのでは?
目は関係ないんじゃないか?
 
毒ガスを作る時は、必ず先に解毒剤を作るそうです。
だから、中和、解毒の方法まで確立している毒ガスという話になる。
そして、可能ならより毒性の高いもの、致死性の高いものを選ぶ。
サリン、ソマン、タブン、VXあたりを選べるなら選ぶと思います。
それらの毒ガスはABC兵器として既出でした。
(A=atomic、核。B=biological、生物。C=chemical、化学)
そして、大規模な工場が必要なことも既出でした。
民家の軒先で市販の農薬を混ぜて作れる毒ガスではありません。
 
◆言論の自由ではあるけど
 
今になって、一連の事件に関しての死刑に反対を唱えるのは変だし、それを海外に言わせるのもおかしい。
 
安倍政権下で起きた事件ではないし、安倍政権下で死刑判決が下ったわけではない。三権分立なので、あんまり関係ないけど…。
執行したのが悪いというなら、死刑制度そのものの見直しが必要なわけで、95年当時に
「彼らを死刑にしちゃいけない」
という論調はなかったわけです。むしろ逆。
 
私は死刑には抑止力があると思っています。今回の執行は、かなりインパクトがあったので、抑止力としての効果を狙ったのかな、とも思います。
少なくとも、安倍政権はテロリストを許さない、というメッセージにはなりましたよね。
 
ちなみに安倍首相を支持していますが、万歳ではありません。
是々非々です。
 
私は一連のテロ事件は、宗教への無知、毒ガス兵器と聞いても不勉強のまま、人権意識は希薄…、など報道機関の浅はかさが露呈したというか、むしろマスコミもひとつの原因を作ったとも言える事件だったと思っています。
 
「サリン」
と聞いたら
「サリンって何だ?」
という反応が必要なわけで
「サリンという毒ガスをKが作ったのか」
という反応ではダメですよね。
 
日本人には、死人に唾を吐かない、とか、水に流す、みたいな精神は間違いなくあります。
だからといって、平穏な日常を奪われた人たちに「赦し」を強要することはできない。
日常を奪われたのは、被害者や遺族だけではないですよね。
 
化学兵器を使った大規模テロは、日本の敵でしょ。
あ、朝日も日本の敵でしたね。

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2018年6月22日 (金)

日本周辺その3、ネットとカネと

日本のゲーム会社って、売り方おかしくないか、という話から始まった「日本周辺」シリーズ。

既に壮大なテーマになりかけましたが、この手の話を書き始めると止まらなくなるかもなので、とりあえず終わらせようと頑張ってみます。

◆ヤフージャパン

日本のネットってどうなの、という話を。
今って、日本中のニュースがヤフーに集まるようになっているそうです。

もとは同じようなポータルサイト、検索サイトでも、いまはヤフーの一人勝ちらしい。

最近、そっち関係の人から話を聞いて驚いた。
いや、ある程度は知ってたけど、ここまで独占状態だったとは…です。

でも、日本人の数は限られてる。
日本
人が使える時間も限られてる。
ヤフーに集まる記事が増えれば、PVは分散する。
カネのなる木に人が群がりすぎて、分け前が減り、ただひたすら疲れていく。
そんな日が来る気がします。

◆貧困問題も同根では?

ずいぶん前、
「男女平等っておかしくないか」

と書いて炎上したことがあります。
あえてこのブログ開設時にその記事を転記しました。
注釈付きですが、本文は炎上時のままです。
興味があれば探してみてください。かなり昔です。
根本的な考え方は今でもあまり変わってません。

平等云々の話は過去のエントリーを参考にしてもらって、少子化や貧困問題について。

ある特定の社会で分配できる富…つまり「給料」を「10」とします。
5人が働いて分配すれば「2」ずつ。
学歴や資格などで差をつけないと公平性を保てないので「3」の人、「2」「1」の人が出てくる。

「3」×1人、「2」×3人、「1」×1人かな?
分配方法はその都度決めればいい。

ここまでは、昔の「男社会」の話。
男と女は同数と考えると、上の数字は「夫婦2人分プラスアルファ」ですよね。プラスアルファは子供ね。
そっちの方がお金がかかるとは思うけど。

要するに5人の女性が存在するけど、みんな主婦という前提です。
その女性5人のうちの何人かが「私も働かせろ」と言い、男性何人かが「そうだよね」と同調したのが、かつての男女同権運動だったと思っています。

そこから生まれたのは、限りある富、つまり「10」の給料を8~9人で分配する社会だったわけです。

そんな社会でもやはり学歴や資格で「3」もらえる人が1人以上はいる。

残る「7」または「4」を7~8人で分ける。
1人「1」以下になり得ますよね。

夫婦で暮らせば家賃も光熱費も「1世帯分」だけど、未婚や離婚が多いので、非常に効率が悪い。
家主と電力会社などのインフラ系だけが儲かる。

 

◆当然の帰結

 
いまさら「女は働くな」という気はありません。

だけど、10年ほど前に男女平等を推し進めた人たちが求めた社会がこれです。
貧困に陥るのは必然でしょ。
 
このブログの過去の記事でも「社会システム」というタイトルから始まる数本の長い記事で、
「格差は当たり前だ」
「日本に民主主義はむいてない」
と書いてます。
男女平等にも異論を唱えてます。
少子化、貧困層の増加、深刻化をピンポイントで指摘したこともあったはずなんですが、どこに書いたのか忘れた。
 
自分で言うのもなんですが、10年以上前に書いたものが、今でも通じる内容だったり、予言めいた内容だったりするのは凄いですよね。
いや~、それほどでも。たまたまですよ、てへへ。
 
◆年収200万女子
 
未婚や離婚が悪いとは言いません。

私も離婚して今は独身です。
子供を生んでくれる女性がいたら結婚したいんですけどね。
考えてもいいよ、という20代~30代の女性がいたらコメント欄になんか書いてください。
 
前の奥さんは知り合った当時、いわゆる「年収200万女子」でした。
私の当時の年収は彼女の倍以上。
でも「生活費は1カ月50万は必要よ」と言われました。足りない、と。
ふざけんなです。
なに、その金銭感覚?サラリーマンだよ、俺は。
それでケンカして離婚しました。
 
その数年後、別の女性と婚約しました。その人も「年収200万女子」。
「1人でいいから子供がほしい」
というのが私の思い。2年ほど付き合ってから、籍を入れる時期を相談してるときに、私の仕事が不規則だ、という話になって、
「朝は起こしてほしい」
と言うと
「無理」
と即答されました。
「なんで?」
「仕事がある」
ん?
 
私の仕事は時間帯バラバラだったんですが、夜勤が多く、帰宅は夜中の2時ごろ。
「いつ子供つくるの?」
と聞くと、
「そんな時間ない」
年収200万がそんなに大事か?
 
それを聞くと「子供はいらない。余裕がない」だって。
半年ほど説得してみたんですが、聞き入れてもらえず、婚約を解消しました。
 

◆カネカネカネ…。
 
私が経験したのはレアなケースかもしれません。
でも、象徴的だとは思います。
 
元妻については、何にお金を使うの、ですし、婚約解消した人については、何のために働くの、です。
 
働いて働いて、その先に何があるんでしょう?
 
昨年、大きな怪我をして改めて思ったんですが、
働きすぎ
ですよね。
そんなに仕事が好きですか?
 
生活に必要なだけ稼げれば十分ですよね。年収200万じゃ足りないけど。
 
空いた時間にゲームしてたい。
エッチしたい。
アニメ見たい。
音楽聞きたい。
ギター弾きたい。
旅行したい。
本読みたい。
映画見たい。
ブログ書きたい。
楽しいことはたくさんあるのに、仕事仕事で時間が消えて…。

 
どんなに働いてもビル・ゲイツやザッカーバーグにはなれないよ。
「楽しい」
と感じながら生きていたいよね。
 
話がずいぶんそれた。
 
要するに、男も女も拝金主義、カネカネカネだから、世の中全体がそうなる。
 

◆ブログなどの収入
 
いまや、サイトもブログも広告、アフィリエイトだらけ。
動画を見ても広告ばっかり。
このブログは、私は1円も払ってませんし貰ってません。書きたいことを書きたいように書いてます。
その「オナニー広場」の使用料として広告があります。
「誰も読まねーよ。長いし」
と思いながら書いてますが、そのわりに「ウソでしょ」と思うほどアクセスがあります。
素直に嬉しい。ありがとうございます。
これが「また書こう」という原動力になる。
私にとって、読んでくれる人がいることこそが「ブログの収入」というか、「副産物」なんです。
アフィリエイトやろうかな…。

YouTubeの広告も、面白い動画なら全然気にならないです。
が、それほどでもないのに、20分のうち4~5回広告が入るのがあるのはなぜ?
仕組みを知らないのでアレですが、広告収入が欲しいから動画を作るのは、ビジネスではあるけどクリエイティブな作業ではないですよね。
 
お金は大事ですよ。
でも人生の目的や楽しみがカネだけでは…。
働かざる者、食うべからずですよ。
でも、食いきれないほと働いてどうすんの? と思う。
 
マスコミもビジネスモデルの基本は広告収入です。
ブロガーやユーチューバーの走りみたいなもんですが、日本を牽引する歯車だというプライドは持っていてほしい。
 
ギリシャ問題がなぜ収束したのか、イギリスはなぜEU離脱を選んだのか「分からない」と言いながら、ヤフーを使った稼ぎかたにはやたら詳しい記者ども。何を取材して何の勉強してんの? と思った。
マスコミの人に求めるのって、金もうけの仕方じゃないでしょ。
時事問題の詳しい解説や分析でしょ?
 

マスコミがそれだし、一般人も拝金だし、ゲーム業界だけクリエイティブであれ、プロフェッショナルであれ、拝金主義に陥るな、というのが無理なのかな?
 
…。

ごめんなさい。まとめられない。
また時間がある時にチャレンジします。
でも、この「日本周辺」シリーズ、書いてて面白かったので、不定期連載にしたい気分。

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2006年12月 9日 (土)

正義といじめと戦争と

過日のエントリー、

「教育基本法改正」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_ff13.html

にコメントがつきました。
コメント欄でお話しても構わないんですが、あえて新たに項を起こしてみたいと思います。

「大東亜共栄圏って…」
という点についてなんですが、僕はそれを「悪だ」とか「正義だ」とか、一概に言い切れるものではないと思っています。

長文ではありますが、過去に

「メディア・リテラシー」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_3090.html
「メディアと正義」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_0f45.html

にも書いたことがあるように、「正義」は決して一つではありません。時代とともに変遷し、そして人の数だけ正義が存在する。
現代社会において「悪」とされる侵略行為でも、時代背景によっては「正義」とされることがあるわけです。

強国に追い詰められ、逃げ場を失った当時の日本政府が、陸軍の暴発により戦争を起こしてしまった。
そして負けた。

コメントを寄せてくださったYoshiさん(http://geocities.yahoo.co.jp/gl/yoshiaki_takenaka)の主張を読むと、
「一理も二理もあるな」
と納得できる部分多々。

基本的に、「左翼思想がキライ」という点では一致しているのではないか、と。
ただ、「出来事を多角的な視点から眺めてみる」という僕のスタンスとは微妙なズレがある。
僕は左翼思想を喝破する必要はない、と考えています。
左翼思想にも「正義」は存在する。
ただ、その論調の出発点において、誤認識がある、という部分を指摘した上で、議論を交わす必要がある。
完全に論破して、左翼的思想を一切認めない、となると、言わずもがなですが、それは大政翼賛会の世界になってしまうのではないか、と。
(ちなみに、僕がサヨを嫌いなのは、僕のような右翼系の論調に対して「一切聞く耳持たない」とか、こっちが認めるまで徹底的に論戦を仕掛けてくる、負けると個人攻撃にはしる、という点で嫌いなわけで、「妥協点を探ろう」という姿勢の左翼論者は嫌いではありません)

「大東亜共栄圏思想は権力志向」
という論は、たしかに「政治的側面」において事実なのかもしれません。
が、それを信じて戦った人たちにとっては、「権力志向」など無関係だったのではないか、と。
真に「アジアの解放」を信じて戦った人たちに対して
「あれはあくまでも権力志向だ」
と断じてしまうのは、僕の心情的に
「それじゃ『個人の信念』を無視しすぎてないか?」
と思う次第です。

「権力志向だ」
と言い切ってしまうと、インパール作戦その他、アジア諸国独立のために、戦った兵士たち、そして、終戦後も現地に残って戦い続けた兵士たちの行動は説明できなくなってしまう。

政府は「国益主義」だったとしても、兵士は「愛国主義」だったわけです。
だから僕には答えが出せない。
いままで散々エラソーなことを書いてきましたが、信念に基づき、命を懸けて祖国とアジアのために戦った人たち、いわば「大和魂」を実践し、散っていった人たちに対し、平和ボケボケの日本で、このブログに仮面ライダーがどうだとか、サッカーがどうだとか、そんなことを書いてきた僕が、彼らを「断罪」できると思っているほど横柄な人間ではないつもりです。

また、「大東亜共栄圏」という思想も、先の大戦において「初めて」日本が掲げたものではない、その思想は(僕が知る限りでは)戦国時代から存在していた、と考えています。

豊臣秀吉による朝鮮出兵は2隊に別れ半島北岸と南岸を進軍していきました。
そのうちの1隊を率いる武将・加藤清正の行った行為は完全な「侵略行為」だったようです。
一方の隊を率いる小西行長なんですが、これ、何度も朝鮮、及び明に対して、
「北東アジアに巨大貿易圏を作ろう」
といった旨の書簡を送っています。
その書簡は途中で握りつぶされ、実際に明国に届けられることはなかったそうですが、これって、もしかして「大東亜共栄圏」のさきがけだったのではないか、と。

行長は秀吉の死が近いことをさとり、そういった書簡を送ったらしいですが、それを読むと、
「戦争はやめよう。貿易しよう」
という、「商人武将」らしい発想が見受けられる。

それを「大東亜共栄圏」的な発想だと捉えるのは決して間違ったものではないと思うんです。

歴史は断片的なものではない。連綿として受け継がれていくものなわけですから、大東亜戦争だけを見れば、「共栄圏」は政治的、権力的なものとして受け止められても仕方ないんですが、そこに至るまでの、数百年に及ぶ歴史を見たとき、
「もしかしたら、日本人には最初からそういう発想があったのではないのか」
と感じられるんです。
それも、聖徳太子の時代から。
「対等にお付き合いしましょう」
みたいな発想が、ね。

・・・といった余談はさておき。

ある一つの主張を
「これこそが正義(もしくは『真実』『事実』)だ」
と断定することは、冒頭にあげたメディア論にも書いていますが、非常に危険な思想だと感じるわけです。
「自分はこう思う」
そこまでしか言えないんではないでしょうか。
たとえそこにどのような歴史資料があったとしても、です。
資料に残らない歴史だって存在するわけですから。

極論ですが、例えば、
「邪馬台国はどこにあったのか」
みたいなものが、ね。

だから、その穴は推測で生めるしかない。
「Aという資料がある。Cという資料がある。でもそれをつなぐBという資料はない」
となると、Bの部分は推測でしかない。
また、資料に関しても、すべて揃っていると思っていたところ、後から違う資料が出てきた、なんてのも、ザラにある話です。

話かわって、いじめ問題。
いくつかの論調があります。
「いじめはダメ」
「いじめられる側にも問題がある」

などなど。

僕はどちらの言い分にも「正義」があると思っています。
ただ、「正義」だからといって集団で個人を攻撃することは、決して許してはならない、それをすれば、「正義」が「正義」として認められることはない、とも思います。
僕は基本的に、そういう考え方をするタイプですから、先の大戦についても、ABCD包囲網などという、国際的な「日本いじめ」は「正義」ではない、と思うわけです。

いじめられる側に問題があるなら、一対一でケリをつければいいわけで、何も集団でよってたかって袋叩きにする必要などない。

あと、
「いじめ2-文科相からの手紙」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_8729.html
にもコメントをつけていただきました。

最近、新聞などで
「がんばらなくていいんだよ」
との論調を見かけます。

それはそれで、たしかに一理あるのかもしれません。
でも、頑張らずに生きることを覚えた人間は、果たしてどのような人間になるのか?
「学校に行かなくてもいいんだよ」
などという論調もありますね。
たしかに、ガッコーのセンセーなんて、まともな連中は少ない。
英語や国語、数学などしか教えられないアホどもが多い。
だからといって、親御さんが「それじゃいじめられるぞ」と脅しをかけるのはいかがなものかと思うんですが、やはり最後は自助努力と好奇心なのではないか、と。
特に、好奇心が大事ですね。

いじめとはあんまり関係ないようだけど、いま、僕は仕事上で大きな悩みというか、ジレンマというか、ある種の「壁」にぶち当たっています。

言い換えれば「仕事が俺をいじめてる」状態です。

そこで時々、考えます。

「この壁を乗り越えれば、どんな世界が広がるんだろう」

と。

いじめ自殺の報道がなされるたびに思います。
「自分自信の未来に対する好奇心を教えてやれる大人はいなかったのかな?」
と。
追い詰められている人間はとかく視野が狭くなりがちです。
かつての僕もそうでした。
でも
「正義は我にあり」
「数年後にはすべてが変わるかもしれない」

と思える心を育てることって、大切なんじゃないでしょうか。
時には戦い、時にはガマンする。
そして
「明日は明日の風が吹く」
ですね。

・・・過去にサイト(http://homepage1.nifty.com/ksk628/frame2.html)も仕事も含めて膨大な文章を書いてきましたが、おそらく、今回ほどまとまりのない駄文はないかもしれない・・・

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2006年12月 6日 (水)

いじめ2~文科相からの手紙

なんやら、文科相から全国の小中高に手紙が送られたそうです。
知人経由でその写しを入手しました。
大人宛てと子ども宛ての2種類。
僕が入手したのは、手紙の写真だったので、句読点など細かい部分は判別できませんでしたが、文言は明確に読み取れました。
以下、2通の全文(と思われるもの)を紹介します。

文部科学大臣からのお願い

お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域のみなさんへ

 このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者に訴えられないとも言われます。
 一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱きとった生命。無限の可能性を持つ子どもたちを大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化をみつけるためにも、毎日少しでも言葉をかけ、子どもとの対話をして下さい。
 子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡しあい、子どもの生命を護る責任をお互いに再確認したいものです。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

これが大人宛て。
そして下が子ども宛て。

文部科学大臣からのお願い

未来のある者たちへ

 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのははずかしいこと。
 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。
   ◇   ◇   ◇
 いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

深く突っ込んだコメントは、今回は時間の都合で控えさせていただきますが、僕がこの2通を読んだ時の第一印象は
「こいつ、『いじめ』ってのがどんなものなのか、分かってないんだろーな」
でした。
もちろん、こんな文章、伊吹大臣自らが書いたとは思わない。どうせ文科省のお役人が
「こんな感じでいーんじゃねーの」
ってな具合で官僚的に、そして「アリバイ」作りのために書いたとしか思えませんが…。

こんなもん読んで、保護者や子どもに訴えても、いじめなんて絶対になくならない。
これを読んで
「いじめをやめよう」
と思う子どもは、最初からいじめに加担なんかしてないんじゃないのかな?
誰かに話したら、
「ちくった」
とか言われて、さらに陰湿な、表面に出てこないようなカタチでいじめられ続けるでしょう。

そもそも、
「いじめをなくそう」
というスローガン自体がおかしいと思うんです。

その理由は、いずれ時間があるときにでも書いてみたいと思ってます。

僕は小学校高学年あたりから、
・誰かを集団で無視する
・集団で嫌がらせをする
という行為に興味がなくなりました。
他のこと(音楽とかいろいろ)に興味を持ち始めると、いわゆる「いじめ」行為にまったく興味が失せてしまった。
特に、高校時代になると、音楽一辺倒で、自分のクラスにいじめがあるのかどうかすら知らない状態。
たぶん、自分がいじめられていたとしても、それに気付かない状態。

手紙を送るなら、保護者やいじめっ子、いじめられっ子に送るのではなく、そこに関係してない、いじめとは無関係な子どもに送るべきなんじゃないのかな?
「見かけたら止めてやってくれ」
みたいな具合に。

まぁ、しかし、いじめ自殺も大きな問題だろうけど、それは世の常であって、たまたま昨今、自殺が相次いでいるというわけで、今、上の手紙で仮にいじめ自殺の連鎖が収まったとしても、数年後にはまた同じことが起きるでしょう。

解決策は、授業に「武士道」を組み入れることではないのかな。
そして、日本史を社会科から外して、「国史」という別枠の授業を設けることを考えたほうがいいんじゃないのかな?

大和魂の復権。

いじめ問題解決策の一つに、こういう選択肢があってもいいんじゃないのかな。

つい先日、ガッコーのセンセーが作ってるサイトで、事故で死亡した子どもの写真やらを掲載し、遺族を中傷するようなコメントがつけられていて、両親がそのセンセーを告訴しました。

上の文科相からの手紙にあった一文

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。
(下線部は小兄)

ガッコーのセンセーの一部には、子どもを「人」として扱っていない連中も存在します。
遺族を平気で中傷して、それをサイトにアップする鬼畜もいる。
はて…そんなセンセーに相談すると、いじめられた子はどうなるんでしょうかね。

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2006年11月24日 (金)

教育基本法改正

改正案が数日前、衆院を通過しました。いま参院で審議中のはず…

さて、過日、うちの会社の労働組合から、
「教育基本法『改悪』反対の集会があるから出席してくれないか」
とのお誘いを受けました。

僕のブログを時折にでも見に来てくれる人たちは既にご承知かと思いますが、僕の思想は右寄りです。それもかなりの右。

そこで、そのお誘いに関する経緯を。

相手「教育基本法が改悪されるのは知ってるか?」
僕「『改悪』じゃなくて、『改正』でしょ
相手「いやいや、あれは『改悪』だろ
僕「まぁ、ある意味、『改悪』かもしれませんねぇ
相手「『ある意味』ってどういう意味?」
僕「そもそも『愛国心』なんもの、てホントは法律に盛り込んじゃいけないんですよ
相手「だろ。これを認めたら、また軍国主義の時代に戻ってしまいかねないと思わない?
僕「そうじゃなくて、『愛国心』ってのは、いちいち法律に定めなくても、家庭や学校で自主的に教えなきゃいけないものであって、それを法律に盛り込まなきゃいけない、ってのは、愛国者にとっては、非常に嘆かわしいことなわけです
相手「おぉ。俺はてっきり、うちの会社の人間は全部が反対派だと思ってたけど、意外なところに伏兵が…。さすがに、そういう奴は誘えないな

ってな感じ。

以前にも、必修授業の未履修について、
「日本の歴史は学ばなければならない」
みたいなことを書いたんですが、なぜ「学ばなければならない」のか、というと、
「歴史の教訓を最大限に生かすため」
つまり、まかり間違っても、かつての『暗い時代』といわれている世相に戻らないよう、
「なぜ戦争したのか。なぜ負けたのか」
を徹底的に研究、分析し、日本の行く末を案じて敵軍艦に特攻していった人たちのためにも、その分析・研究結果を教訓としなければならない、と考えているわけです。

そもそも、です。
「愛国心」=「軍国主義復活」
みたいなものの考え方って、飛躍しすぎてませんか。
いや、歴史をおろそかにしてるから、「そうなる」と考えてしまうのではないのかな?
「二度と同じ轍を踏まない」
と考えれば、歴史をきちんと教えた上での「愛国心」に何の問題があるんでしょう。
今回の法改正について、反対している人たちに問いたい。

そんなに日本が嫌いなのか?

日本はそんなに住みにくい国なのか?

いったい日本をどういう国にしたいのか?

だいたいからして、ホントに日本が住みにくい国ならば、改正反対派の集会やらなんやら、そんなことしてるヒマがあるなら、韓国でもアメリカでも、反対派が
「住みやすい」
と思える国、もしくは
「この国なら愛せる」
って国に移住すればいいじゃん、と思うんですが…

僕は日本という国がとても好きです。
好きを通り越して、愛しささえ感じています。
「この国に生まれて良かった」
とも思っています。
法改正によって、自分の国を好きになれる子どもたちが出てくる、というのは、とても素晴らしいことだと思うし、そうなればますます日本は「いい国」に育っていくでしょうね。

先日、↓のような本を読みました。

日本人としてこれだけは知っておきたいこと 日本人としてこれだけは知っておきたいこと

著者:中西 輝政
販売元:PHP研究所
Amazon.co.jpで詳細を確認する


筆者はまさに「憂国の士」ですね。
ちょっと過激に右よりかな、とも感じたけど、そこまで警鐘を鳴らさないと、もはやこの国はどうしようもなくなってしまう気がする。

そもそも「愛国心」って何なんでしょう?
国を愛する心?
じゃ、国って何?

「国」という表現には二通りの解釈ができると思うんです。
「政府」という解釈と「日本人の集合体」という解釈。

親兄弟、親戚、友達を大事にしましょう。そして自分も大事にしましょう。
僕にとっての「愛国心」ってのはそれです。

一方の反対派は
政府を大事にしましょう、とはケシカラン
ではないかと推測するんですが、いかがなものでしょう。

もしも、「愛国心」という言葉を僕と同じ解釈をしていて、それでもなお反対する人がいれば、これは法改正云々を唱えられる次元ではないと思うんですが…

「自分は日本人」
それがイヤなら上にも書いた通り、移住して韓国や中国にもで帰化して現地人になって、
「日帝」
とか
「小日本」
とか
「東洋鬼子」
などと叫んでいればいい。
個人的には、自虐史観を子どもに押し付けて、自分を生み育んでくれた国を貶めるような、「ガッコーのセンセー」というカルト集団には早々にこの国から出て行ってほしい
彼らが存在する限り、この国は良くならない。

自国の歴史を否定する輩は、僕のように
「大東亜戦争は日本の正義」
という人間を徹底的に批難します。

そういうこと、やられたことあります。社会人になってから。
出社すると個室に「軟禁」されて、
「あの戦争を正当化するなど記者としてあるまじき行為だ。反省せよ」
などと、ボロクソ。
僕が、自分が調べた範囲で、
「戦時中のあの出来事の実相はこうだ。この出来事に関してはこうだ」
と反論すると、相手は単に
「日本」=「悪」
としか捉えておらず、個々の出来事に関して勉強してないから、太刀打ちできない。

そこで、彼らが行う「常套手段」の登場です。
個人(僕)に対する誹謗中傷。
議論の中身には触れず、
「あいつは人の言葉に一切耳を傾けない自己中毒な利己主義者」
耳を傾けないのはてめーのほうだろ、と言いたいところをグッとガマン。
論破されて反論できなかったが故の中傷なので、こっちが相手と同じことをやると、今度は
「根拠もなく個人攻撃をする、言論人としてあるまじき行為」
と言われるのがオチだから。

新聞社内にして既にそういう
「自由な信条」
を認めない風潮にあるわけですから、「ガッコーのセンセー」カルトはもっとすさまじいんでしょうね。

「日本は悪い。そう思えないお前は人間のクズだ」
中学だったか、高校だったか、そんなことを言われたことがあります。

たぶんね、そういう教育体制というか、
「国を愛する心って大事なんだよ」
ということを教えない、そういう心を持ってる子どもに対し「ガッコーのセンセー」が通信簿の所見欄に
「思想面に偏りがある」
とか書く。
「偏りがある」と書くということは、「センセーの言葉に逆らってはいけない」ということであって、これこそ「軍国主義」の亜流ですよね。

そんな教育姿勢だから、いじめによる自殺もあとを絶たないのではないんでしょうか。
「いじめられる奴にも問題はある」
ってのも一理あると思うんですが、集団で一人ないし二人といった少人数をいじめるのは、絶対に許されないことです。

センセーがクラスの生徒全員がいる中で、僕に対して放った「社会生活不適合者」の烙印は、その後、存分にいじめの材料となりました。

僕の場合、「いじめよう」という意思を誰かから感じた際には、こちらから先制攻撃を加えてましたから、結局は「いじめたくても手が出せない奴」という存在になりましたけどね。
でも、センセーが何を目的としてそんなことを言ったのか、十二分に理解しております。

まずは教育基本法改正。
反対するセンセー・カルトは強制的に国外追放。
どうせ日本が嫌いなんだから、追放されてもどうってことないと思います。
そんな具合でいかがでしょう。

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2006年11月14日 (火)

いじめ自殺

いじめを苦にした自殺が連鎖的に起きてます。
僕は既に30代半ば。
自分の記憶をたどると、四半世紀前のいじめって、
自殺しなければならないほど深刻ではなかったような気がします。

・・・ま、まぁ、どちらかというといじめる側に立つことが多かったので、
あんまりエラソーなことは言えないんですが・・・

でも、いじめの対象になったこともあったわけで、
その時、どう感じたかというと、
「いつか仕返ししてやる」
でしたね。

いわゆる「江戸の仇を長崎でうつ」ってやつかな。

今の小中学生がやっている「いじめ」なるものがどのようなものか、
現場を見てないのでなんとも言えない部分があるんですが、
かつての外勤時代に某自治体の議会における教育長の答弁。

「子どもは、ある時にはいじめられ、ある時にはいじめ、
そうやって人の心が分かる人間に育っていくものだと考えております」

それを聞いた各紙の記者は一様に
「そうだ、そうだ」
といわんばかりに、しきりに頷いてました。

僕もそう思います。

が。

昨今の相次ぐ自殺を見ていると、
そう悠長なことを言ってられない状況にあるのではないか、と。
陰湿を極めるいじめ、逃げ場のない空間を作り出し、
「逃げたい」と思っても逃げられなくしてしまう。
そんな状況なのかな、と。

僕が小中学生のころは、いわゆる「いじめっ子」でした。
というか、周囲からはそう言われてました。
僕がやっていた「いじめ」は単純な暴力です。

休み時間に誰にも相手にされず、一人ぽつねんと席に座ってる奴に
「お前も一緒に遊ぼうぜ」
と声をかけて、遊んでる中で、相手の言動に腹を立てて殴ってしまう。

自分の行為を正当化する気はありません。
今では心のうちで深く懺悔してます。
でも、そもそも、そいつが何ゆえに
「誰にも相手にされず」
という状況だったのか。

それは、クラスの連中に「無視」という、
僕からみれば許しがたい「いじめ」をされていたからです。

「あいつ、ムカツクからみんなで無視しようぜ」

そういう「取り決め」がありました。
でも、無視(=存在を否定する)という陰湿な行為は、
僕自身もやられたことがあるので、そのつらさが分かります。
だから、「取り決め」を無視して、一緒に遊ぶ。
その中で、ケンカする。
それを見た連中は僕を指して
「小兄は○○君をいじめてます」
と先生に報告する。

すると、僕は”一流”のいじめっ子として教師にマークされる。
職員室に呼び出される。
保護者に報告される。
こっぴどく叱られる。
でも、僕に「いじめられた」本人は、
「あれはただのケンカでいじめられたとは思ってない。
むしろ、みんなが自分を無視してる方がつらい」

と言ってました。

つまりは、彼にとって、僕は唯一の「逃げ場」だったわけです。

僕は幸いにもケンカの腕前はクラスの中でもトップクラス。
僕とケンカして勝てる相手がいないから、
「小兄はあいつをいじめてる」
と名指しして、
「今度は小兄を無視しようぜ」
という話になった。
力ではかなわないから、無視。
で、今度は僕が無視されるようになった。

ちなみに、その時は、それを言い出した奴を校舎の裏に呼び出して、
ボコボコにタコ殴りして、腕の骨を折ってさし上げました。
「無視」などという陰湿なことをする奴は絶対に許さん、って。

僕の小中学校時代はそんな感じで、上記の教育長が答弁してた
「いじめたり、いじめられたり」
だったわけです。

しかし、昨今の「いじめ」とはいかなるものか。
相手を追い詰めて、追い詰めて、
相手の存在を否定するような陰湿なものになっているのではないのか。

教師までもが「いじめ」を容認し、また自ら率先して生徒をいじめる。
逃げ場なし。
そして、思いつめ、自殺という、最悪の選択肢を選ばざるを得なくなる。

そんな状況になっているのではないでしょうか。

「学校」「教室」という狭い空間。
しかも教える側は、高校、大学と卒業して、
社会なるものがどういうものなのかも知らずに、
再び学校に戻っていく。
非常に狭い世界。

一歩、外に飛び出せば、何らかの解決方法は見つかるはずなのに、
なぜに、あえて「死」を選ぶのか。

「命とはなにか」

確かに、必修科目を教えることも大事なのかもしれません。
でも、人間としてもっと大事なことってありませんか?
それを教えられない、理解できていない教師が多いような気がします。

さて、ふと気まぐれに「いじめ自殺」で検索をかけてみました。

マスコミ批判もあるようで、例えば↓
http://fareastclub.at.webry.info/200610/article_22.html
http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000002585
http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/ijime_jisatsu2.html

上記3つにざっと目を通すと、
「確かに、そうかもしれない」
と思う部分が多々。
特に最初にあげたURLにある

最近ニュースを騒がせているものと言えば、ライブドアの証券取引法違反という株で儲けた話し、政治家たちの不祥事、警察官の飲酒運転、一般民とは少し違う考え方の人が集まった集団(例えばカルト教団など)と、それに対する執拗なマスコミの追いかけ取材。

確かに、そんなことばかり報道していては、次に続く

自分が小さいころにもいじめは確かに存在した。けれど、教師を含め、大人を信用しているところがあったように思う。信じられる親、兄弟、教師、警察官、政治家・・・。それを支えにして生きていたのではないかと。いじめられてても、勉強を頑張って大人になったら、違う人生が待っているかも知れない・・・、そんな期待。

ということも媒体を通して伝えることができなくなってしまう。
行間にこめられた、静かではあるけど痛烈な業界批判には、
業界に身を置く僕としても、
「我々も反省しなければ」
と感じざるを得ません。

でも、一方で以下のようなことを書かれておられるブログを発見しました。

生徒へのいじめ問題の前に
学校の先生をいじめるのは悪いことですよ!

そもそも、先生がどうしていじめを上へ報告しないかというと、
報告すると出世できないからです。

つまり、いじめが無くならないのは、
上、つまり文部科学省や教育委員会が
いじめがある学校をいじめるからです。
http://nextream.jugem.jp/?day=20061112

上に引用したブログの管理人さんは、教育関係者なんでしょうか?
やたらと学校サイドをかばっている様に感じます。
記事を読むと、「先生になりたい」という動機と
「出世したい」という思いがほぼイコール、
という構図が僕の頭の中で浮かび上がってきます。

今どきの子どもたちは、大人が思っている以上に利口です。
子どもがインターネットで上のような記事を読めばどうなるでしょう。

薄々感じていたことが「確信」に変わり、
「いじめても、あの先生は上に報告しないから大丈夫」
という結論に至ると思いませんか?

そしていじめはますますエスカレートする。

加えて、上記の筆者は
「教師がいじめに参加しているケースもある」
という言語道断な事実を黙殺
していますね。

いじめ、言い換えれば
「弱い奴がさらに弱い奴をたたく」
という事象は、世の常ではないでしょうか。

教育委員会や文科省が指導(筆者の言を借りれば「いじめ」)をしなくなれば、
いじめが自然になくなる、というのは僕としては納得できません。

文科省や教委が、いじめがある学校を”いじめ”るのは、
学校内のいじめ問題に対処できないアホ教師どもに対する指導なのではないでしょうか。
その「指導」を「いじめ」と受け止め、深刻化している学校内のいじめを放置する。

そんなものは教師による「職務放棄」、
もしくは、「学校という組織ぐるみの隠蔽」でしかない
のではないでしょうか。

だいたいからして、教師も「一応は」社会人なわけです。
教職を通じて給料もらってメシを食ってる。
学内でいじめがあるなら、それは上に報告すべきでしょう。
きちんと報告していれば、厳しい指導があるかもしれない。
でも、それをもって学内のいじめ問題根絶に立ち向かうのが
教師の義務ではないのでしょうか。

にもかかわらず、いじめ問題を隠蔽する。
隠蔽ならまだしも、教師が生徒をいじめる。
あるいは、見て見ぬフリをする。
生徒が自殺してから、会見を開いて謝罪する。
人の命を何だと思っているのか。
死んでから「ごめんなさい」で済ませられるようなものではない。
上のブログの記事は、子に先立たれた親の気持ちなど、
まったく斟酌しない「鬼畜」の屁理屈に過ぎない。

校長の自殺が相次いでいる。
それはそれで痛ましいことではありますが、
「職務放棄」「職務怠慢」による責めを負って校長が自殺するのと、
理不尽な「いじめ」に遭って子どもたちが次々と自殺していくのと、
「自殺」という行為は同じでも、その質は全く異なる
もので、
「教育委員会などが学校を”いじめる”から」
という部分を焦点にしてはいけないと思うのですが、いかがでしょう。

いずれにせよ、「命」というものが軽く、軽くなっているように感じる昨今です。

もしも、僕のブログを読んでる人の中で、
いじめに苦しんでいて、自殺しようと考えている人がいたら、
ほんの少しでいいから考えてみてください。

いじめられた人間は人の痛みが分かる人間になる。
いじめた経験しかない人間より、ずっと懐が広い人間になる。
自殺は、「弱い奴を叩く」ことしかできない弱い人間を喜ばせるだけ。
そんな人間のクズのために、自分の命を絶つなんて、
悔しくて馬鹿らしいだけだと思いませんか?

人一人の死というものは、自分が想像している以上に、
親や親戚、友人に抱えきれないほどの苦痛を与えるものです。
今の苦痛を乗り越えた時に、どんな明るい未来が待っているのか、
いろいろと空想してみてはどうでしょう。

5年経っても10年経っても、人生に苦痛しか感じられなければ、
それから死んでも遅くはないんじゃないでしょうか。

かくいう僕自身も、いじめが原因ではないけれど、
自殺したいと感じたことは何度もあります。
でも
「あと1年、生きてみよう。それでダメならその時に死のう」
と、1年ごとに先送りしてた時期がありました。
死ぬのが怖いからじゃなくて、
その時期の苦痛を乗り越えたところに何があるのか見てみたかったから。

おかげで、乗り越えた今では、すっかり開き直って
脳天気なサラリーマンやってます。

「お前、悩みなんてないだろ」

なんてこと言われながら。

真剣に悩んだ時期があっただけに、
多少のことでは動じない精神力が身についたんでしょうね。たぶん。
そう考えると、

「悩むなら若いうちがいい。死ななければ勝ち」

ということもできるのかな、と。

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2006年11月 1日 (水)

必修授業の未履修

今さらながら、ですが・・・

全国各地の高校で必修授業の未履修が相次いで発覚してますね。
自殺した校長先生もおられるようで、僕としては、
「そこまで気に病むほどの問題なんだろうか」
と、疑問に感じてしまいました。
よほど責任感の強い先生だったんでしょうね。
ご冥福をお祈りします。

さてさて、どんな授業を省いたのか、つーと、どうやら日本史が多いようです。

この問題って、もしかして靖国問題その他、歴史問題とリンクしてるんじゃねーか?

と考えてしまったのは僕だけでしょうか。

ある程度、正確な歴史を知って、それを踏まえた上でイエスだとかノーだとか言うのは、完全に個人の自由だと思うんです。
でも、その「ある程度正確な歴史の知識」って学校で教えるべきものではないでしょうか。
学校の週5日制とか、受験勉強とか、眼前にそびえる具体的な壁はクリアしなきゃいけないかもしれません。
だけど、自分の国の歴史を教えない、なんて、あっていいことなんでしょうか。

と、そこでまたふと思いました。

「教える時間を省いた」のではなく、「教師が歴史を教えられなくなってる」のではないか。

もしくは

意図的に教えなかったのではないか。

歴史問題になると、敗戦の後遺症とでもいいましょうか、いまだに右だ、左だ、と騒がしいんですが、日教組の締め付け(?)で、左寄りの歴史しか教えられない。
もしくは、「自虐史観」しか知らない。
でも、教科書をひもとくと、なんか客観的に書いてる。
善悪の判断は教科書には書いてない。

だけど、教師どもにとっては、
「日本の歴史は悪一色でなければならない」
という、得手勝手な思い込みがあるから、「客観的な歴史の事実」を「悪」に塗り替えなければならない。
しかし、それをするための知識を持ち合わせていない。
「悪という人がいるから悪なんだろう。でも教科書には『悪』とは書いてない。ならば教えない方がいい」
ってなところなのではないでしょうか。

だけど、冷静に、客観的に、あの戦争を見つめると、決して日本だけが悪いわけじゃない、ということに気付く人もいるわけです。
それでも教師たちは
「日本は極悪非道だ」
と教えなければならない。でも、きちんと歴史を教えると、
「日本はよく頑張った」
という感想も出てくるはずで、特に中国、韓国などによる内政干渉が激しい昨今においては、その反動で、反中、反韓に針が振り切れる可能性がある。
だから、受験だとかなんだとか、テキトーな理由をつけて、あえて教えなかったのではないか、と。
いわば「洗脳」に近いものがあるように感じる。

僕は既に30代半ばなんですが、高校時代は日本史を選択してました。
時間の都合で大東亜戦争まで間に合わなかった。
高校時代、思いました。
「自分が一番知りたいところなんだけど・・・」
(大学に入ってから、自分で勉強しました)

今の高校で使ってる日本史の教科書を、昨年か一昨年か、手に入れて読んでました。
昔とさほど変わってないんだけど、さて、鎌倉仏教がどうだとか、
江戸時代の絵画様式はどうだったのか、なんて、極論を吐けば、
歴史というダイナミズムの中における枝葉末節だと思うんです。

本筋は、織田信長が本能寺で…とか、幕末維新でどうなった、などといった部分なのではないのか、と。
そして、その中には当然、大東亜戦争(太平洋戦争)も含まれるわけです。

「受験」を理由に「自国の歴史」から目をそむけて、果たしてどのような人間を育てるつもりなのか。
日本史を無視したクソ教師どもにぜひ問いたい。

学校で教える、最も大切な「授業」は日本史なのではないんでしょうか。

「歴史は繰り返す」

という言葉があります。
そう。歴史に学ばない者は、同じ轍を踏むことになる。

日本史の授業を受けなかった生徒たちは、歴史から何の教訓も得られることはない。

亡国へ、亡国へ。

その兆しはチラホラと見え隠れするんですが、そういう方向へ進ませているのが
「ガッコーのセンセー」
という、「教育機関」の名を借りた「カルト集団」ではないのか、と思う次第です。

大東亜戦争時、自由な言論は封じられました。
軍部の独走によって、日本は原爆まで落とされ、挙句の果てには「極東裁判」なる理不尽なリンチで、戦勝国によって断罪されてしまいました。

今、正式な「日本軍」はありません。自衛隊もシビリアン・コントロールにより統制されています。
大東亜戦争は陸軍の独走によって始まり、亡国への道をまっしぐらに進んでいきました。

僕の目には、今という時代と、あの戦争の時代とが重なって見えてしまいます。
日本は「学校」という名の”思想教育機関”の暴走によって、あらぬ方向へと傾いていってしまうのではないのか、と。

もし、ここを読んでる、日本史の授業を受けなかった高校生諸氏がいるならば、ぜひとも伝えたい。
自国の歴史は学ばなければならない。
卒業してしまったなら、独学ででも勉強していただきたい。
そしてそこにある「歴史の教訓」と、「自分の国を愛する」ことの必要性を感じていただきたい。
それをおろそかにした時、この国は今度こそ本当に滅びかねない。

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2006年10月 5日 (木)

飲酒運転 その1

昨今、「飲酒運転撲滅キャンペーン」が流行っています。
はてさて、疑問に思うことが多々あるんですが、とりあえずはここをご覧あれ。

http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50114088.html

筆者も書いておりますが、
「飲んで事故を起こす奴」

「素面で事故を起こす奴」
とのパーセンテージの違いをあらためて突きつけられると、唖然としますね。

僕が感じていた疑問は、僕が書き込んだコメントも含めて、ほぼ書きつくされてる感があるので、あえて書く必要はないのかもしれません。
僕も素面で事故を起こしたことがあるので、あまりエラソーなことは言えないし・・・。

でも、一応、三者ブログだから、絡んでおきたいと思います。

かつて単独事故だけど車大破、という事故を起こしたとき、知り合いの警察官に尋ねたことがあります。
「点数は減らないんですか」
と。
返ってきた答えを要約すると、僕が起こしたような事故の場合、原因は明らかにスピード超過と前方不注意で、減点の対象にはなるんだけど、単独事故だったことと、自分自身が怪我して、車もスクラップでその上、点数を減らすのは気の毒だから、減点はしない、という内容でした。

うむ…。

じゃ、人身事故だったらどうだったんだろう?
そこまでは尋ねなかったけど、業務上過失致死傷が適用されて、点数はどうなるんだろ?

さらにさらに、何ゆえ、飲酒運転が厳しくなったのか、見逃してもらえなくなったのか、理由を知っている人っているでしょうか。

僕は新聞記者です。一般的に見れば特殊な業界ですね。
警察官の知り合いもたくさんいます。
スピード違反は機械で測るから、それを見逃すと取り締まりに当たった人が上層部からお叱りを受ける。だから、どうしようもないんですけど、シートベルトとか、運転中の携帯電話とか、さらに言えば、飲酒運転が厳罰化されてからの飲酒運転(正確には二日酔い運転)とか、さんざん見逃してもらいました。

でも、限界があって、取締りしてる人が交通課長とかなら、大概は平気なんですが、そうじゃない場合、つまり、知らない人が取り締まりしてたり、自分の管轄エリア外だったりすると、絶対に見逃してもらえません。

昔は「俺は○○新聞の記者だ」と言えば、目をつぶってくれてたそうなんですが、いまは違う。
これね、警察のちょっとした不祥事を、警察側が「書かないでくれ」って言ってたのに、某左翼紙が「ダメ」とか言って書いちゃって、大騒ぎになったことがきっかけなんです。

警察と新聞社、馴れ合いはよくないけど、持ちつ持たれつの関係つーものがあって、よほどのおおごとなら、やはり新聞社側としては書かないわけにはいかない。

でも、まぁ、これぐらいなら…ってことも多々あるわけで、それなら普段見逃してもらってるから、こっちも目をつぶりましょう、という関係があったのに、官僚的にその関係をぶっ壊した社がある。

そうなると、警察側も黙っていられないでしょう。
「目には目を」
ですね。「お前らが書いたんだから、俺たちも見逃すのはやめる」てなもんで、それに巻き込まれたのが普通に暮らしてる人たちなわけです。

・・・何を書いてるのか分からなくなってきた・・・

ある日、ある警察署で変な会話を耳にしました。

「署長のナンバーは抜いておけよ」

どういう意味か聞いても答えてくれません。何しに行くのか聞いたら、取り締まり。
そこで「署長のナンバーを抜く」って、どういう意味なんでしょう。
想像はできるんだけどね。現場を押さえたわけじゃないし、想像だけで書くのもどうかと思うから、ここは皆さんのご想像にお任せします。

飲酒運転の話、続く。

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2006年9月27日 (水)

検索ワード~行方不明の記者はバカ

少し前に、ブログにアクセスカウンターをつけました。右下の方。いま確認したら「5274」になってました。
ブログやサイトをやる人間って誰でも同じだと思うんですが、
「何かやってみたい」
という意思を持っているんじゃないでしょうか。
「何か」が何なのか分からないから、とりあえず手近なインターネットで、以前ならサイトを、最近ならサイトより簡単なブログを、ってところかな。
明確な目的意識を持ってブログやサイトをやっている人もいますが、「なんとなく」って感じの人の方が多い気がします。

目的意識を持ってやってる人のサイトは当然、アクセスが多い。2ちゃん系もアクセスが多い。
でも、「個人の日記」に過ぎない僕のブログ、サイトは当然、アクセスは少ない。
5000超えてるだけでも、正直なところ、驚きです。
ちなみに、一番アクセスが多かったのが、サッカーのワールドカップ期間中に書いた
「勝ち点の計算方法-日本勝ち抜けの条件」
でした。

それはともかくとして、アクセス件数。
僕も「何かやりたい」と思ってサイト&ブログを始めた派です。明確な目的意識は持っていません。
でも、なぜかアクセス数って気になるんですよね。

このブログと相互リンクしてるブログは
「書きなぐソ陪審」

「霧の中の鈴」
だけ。
サイトは僕が以前に書いたチベット紀行を中心とした
「心象風景」
のみです。
だから、普通に考えれば、よほど面白い内容でなければ、アクセスが増えるはずがない。
なのに、開設から7ヶ月で5000件突破。
どこから来てるんだろう? ってのが気になるところです。

そこで、アクセスカウンター。これ、実はアクセス解析機能も持っておりまして、同時にアクセス解析のタグも張り付けてるので、ある程度までたどることができるんです。
検索ワードも分かる。

「女 ヘビースモーカー」
…いったい何を探してたんでしょう。わりと気になる。
「国名5文字」
…それを何に役立てようというんでしょうか。
「パチスロ 人間のクズ」
…うるせーよ、って感じですね。
「ウクライナ 風俗」
…目的は分かるんですが…
「ブラジル 3文字 表記」
…漢字で書くと「伯剌西」。てか、日常生活の中でブラジルを3文字で表記する必要ってあるんでしょうか? ま、目的はともかくとして、それを僕のブログに求めるのは明らかに間違ってますね。
辞書をひけ! 辞書を!
もしくはWikipedia。
「韓国の汚いサッカー」
…同感。
「もてる30代」
…そんな内容、書いた記憶ないっす。でも検索かけた人が30代で、「女にモテたい!」というギラギラした性欲がびしびしと伝わってくるステキな検索ワードですね。
「糞尿便器処刑」
…もはやここまで来ると、僕の常識では測れない人種が存在するということを痛感させられます。

さて、簡単ではありますが、僕が「?」と思った検索ワードでした。わずか半月足らずの間に、こんなキーワードで僕のブログにたどり着いてる人たちがいるのかと思うと、
「俺のブログって、すっげー低俗なんだなぁ」
と思わざるを得ません。高尚な内容を書いてるつもりなんだけど…

でも、僕が一番気になった検索ワードがあります。
「台風 記者 行方不明 バカ」
これは間違いなく、
「台風で新聞記者が行方不明~記者の殉職」
にたどり着いたはずです。僕は確かにそこで、
「行方不明になった記者は未熟だったんだ」
という内容を書きました。
が、「バカ」ってなんだ?

上記記事にも書きましたが、僕としては、無意味に命を落とす必要はない、同じことを繰り返してはいけない、という思いで書いたんですが、僕も人の子ですから、やはり「取材に行って行方不明」と聞くと、「気の毒に」という思いが真っ先に頭をよぎります。

この「記者 行方不明 バカ」で検索をかけた人は、いったい何を考えてるんでしょう。
人が行方不明になるたびに、そして人が死ぬたびに
「バカじゃねーの」
と喜んで、自分はそんなことしない、と悦にいってるんでしょうか。

人間なんて、いつどこで、どんな死に方をするか分かりません。
イラクで首を切断され殺害された若者がいました。
軽はずみな行動が招いた結果、といってしまえばそれまでですが、僕は彼を
「バカ」
と呼ぶ勇気はありません。
まともな感性を持っていれば、「可哀想」という気持ちの方が先に出てくるんではないでしょうか。

僕の兄は幼いころに事故で他界しました。
自分なりに命の重みは理解しているつもりです。
「記者 行方不明 バカ」
そんな言葉で検索かける鬼畜の気がしれない。
本物のバカはどっちなのか、お前が行方不明になった時に、「バカ」で検索かけられたらどんな気持ちになるか、じっくりと考えろ、と言いたい。
検索をかけた人間のクズは、僕の兄のこともやはり
「バカ」
と呼ぶんでしょうか。もしそうなら、僕がこの手で殺してやりたい。死者を「バカ」呼ばわりするゴミに生きてる資格なんてない。

なんとなく見てみた検索ワードで無性に腹が立ったので書いてみました。
日本社会から、人を思いやる気持ちがどんどんと消え去ってしまっているような気がします。

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2006年9月17日 (日)

英語も愛国心(日本語って難しい…)

教育基本法改正で「愛国心」が盛り込まれるようです。

いや、ぶっちゃけ、ニュース面担当じゃないと、なかなか日ごろのニュースが記憶に残らないものでして、僕は普段スポーツ面ばかりやってるもんだから、
「盛り込まれるようです」
みたいな書き方してしまってますけど、盛り込むべきだろうし、それが論争になること自体がおかしいと思っています。
反対してる人たちは、いったいこの国の教育に何を望んでいるんでしょうか。
小林よしのり氏がいつだったか、何かで描いておられたような
「日本国解体」
なんですかね。

そもそも「戦後民主主義」とやらで、「自虐史観」を叩き込まれた、
「日本は悪い国だ」
という洗脳から、いい加減に脱却してはいかがでしょうか。
「憲法九条死守!」
とか言って、国際社会の現実を理解しようとしない。
「首相の靖国参拝反対!」
とか言って、靖国がどういう施設なのか、神道がどういう宗教なのか、祀られている人たちはどういう人たちなのか、分かろうとしない。

身命を賭してあなたを守ろうとしてくれた人たちに、
あなたは唾を吐きかけられますか?

祀られているのはA級戦犯だけじゃないということ、そして、神道の性質上、一度祀ったら分祀は不可能なこと、「A級戦犯」なるものに広田弘毅(字が間違っているかもしれません…)のような人も複数いること(「落日燃ゆ 」参照)、そして何より、戦犯を合祀した当時は圧倒的多数の日本人がそれを支持したことなど、諸々のことを把握した上で反対してるんでしょうか。

靖国に関しては、僕も詳しく調べたわけじゃないから、あまりエラソーなことは書けませんが、やはり、命を落としてまで自分の子孫、つまり今の日本を生きる我々を守ろうとしてくれた人たちが祭られている神社に、一国の首相が参拝しない、などとは言語道断ではないのか、と思う次第です。

中国、韓国の「靖国反対」は明らかな内政干渉だから、放置しておけばいいとして、僕が勤める新聞社をはじめとするマスコミ各社も、いい加減に「靖国バッシング」がいかに愚かしいことなのか、気づくべきだと思っています。

と、前口上が長くなってしまいましたが、教育基本法改正を見据え、中教審が各授業で「伝統」を重視する方向で検討を進めているそうです。

国語では、古文の朗読、詠唱。
これは古文・漢文が大の苦手だった僕からすれば、
「そんなことして意味があるのかな?」
です。
それなら、日本語の乱れを正すべく、「昔はこんな言葉遣いしてたんだよ」じゃなくて、現代国語で「これが正しい日本語だ」というのを徹底すべきではないのか、と。
「全然」が冒頭につけば、最後は「~ない」という使い方をするものであって、
「全然大丈夫」
という用法は誤りなんだ、みたいな。

まぁ、言葉は時代とともに変化していくものだし、あくまでもコミュニケーション・ツールだから、僕自身は「意味が通じればそれでいい」と思ってますけど。

でね、今日(昨日?)見かけた原稿に
「中教審が音楽や英語でも伝統を重視する素案を出した」
というものを見かけたんです。

音楽で「伝統重視」といえば、今の教科書に載ってる(のかな?)ようなミスチルやらサザンやらの曲より、「隅田川」とか「こいのぼり」「富士山」のような文部省唱歌を優先するんだな、ってことは容易に理解できますよね。

じゃ、「英語で伝統重視」って、なにすんの?

どうやら、国語、社会、音楽などで学んだ日本の伝統文化を英語で発信する、という内容らしいんだけど、
「音楽の伝統重視」

「英語の伝統重視」
とは、明らかに意味が違いますよね。

原稿には「仮見出し」というものがついていて、見出しをつける際の参考にするんだけど、その原稿の仮見出しは
「音楽、英語も『伝統重視』」
でした。

最初に見たとき、もの凄く違和感を感じました。
「英語の古語を授業に取り入れるのかな?」
って。
んで、原稿を読んだら上記の通り。

しつこいようですが、
「音楽の伝統重視」

「英語の伝統重視」
はニュアンスがかなり違う。
でも、
「音楽、英語も『伝統重視』」
といわれると、違和感は感じるけど、原稿の内容を読んだ上で判断すれば、なにがおかしいのか、上手く説明できない。

結局、見出しに「…英語も」という文言は省きましたが、部内で「『…英語も』という言葉があった方がいいんじゃないのか」というクレームが大量に出てきました。

「英語の伝統重視、ってなにするか想像できますか?」
と質問すると、ほとんどの人が返答に詰まる。
でも、原稿を読んで、あーだこーだと理屈をこねてくる。

英語だけを取り上げれば、おそらく僕の言い分は正しいと思うんですが、「音楽も」となってくると、途端に僕の言い分は弱体化してしまう。

要は「伝統重視」という言葉に込められた意味が多岐にわたりすぎて、誰もが納得できる見出しを誰も思いつけなかった、というわけです。

しかし、中教審も、「日本という国の文化・伝統を英語で発信する」とかいう中途半端なことをせずに、「英語の授業で源氏物語の英訳本を使う」とか、思い切ったことをすりゃいいのにね。
源氏物語って、おそらく英訳したら単なるエロ小説だから…って、英訳しなくても十分エロ小説だけど…中高生は必死で勉強すると思うんです。

ちなみに、英語が得意で日本史が苦手だった僕は、「Japanese History」っていうガイジンが書いた英語の本で日本史の勉強しました。

英語で日本文化を発信する、外国人相手に日本の話をする、という想定ならば、日本の文化・伝統・歴史を書いた英語の教科書を使うべきなんじゃないかな?

よく言われてるでしょ。
大事なのは「英語を喋る」ことではなく、「なにを喋るか」だ、って。
日本からアメリカやイギリスに語学留学する連中がたくさんいるけど、彼らは「英語を喋る」ということに力点を置きすぎて、日本に関する質問に答えられない人が多いんだって。
それで、「自分の国のことも知らない奴が外国語を学んでどうするんだ?」と笑いものにされてるそうな。

そういう点では、「英語でも伝統重視」ってのは、日本語としては意味が分からないけど、「日本のことを英語で話す」という内容の授業は非常に有益なことかもしれませんね。

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