2006年12月 9日 (土)

正義といじめと戦争と

過日のエントリー、

「教育基本法改正」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_ff13.html

にコメントがつきました。
コメント欄でお話しても構わないんですが、あえて新たに項を起こしてみたいと思います。

「大東亜共栄圏って…」
という点についてなんですが、僕はそれを「悪だ」とか「正義だ」とか、一概に言い切れるものではないと思っています。

長文ではありますが、過去に

「メディア・リテラシー」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_3090.html
「メディアと正義」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_0f45.html

にも書いたことがあるように、「正義」は決して一つではありません。時代とともに変遷し、そして人の数だけ正義が存在する。
現代社会において「悪」とされる侵略行為でも、時代背景によっては「正義」とされることがあるわけです。

強国に追い詰められ、逃げ場を失った当時の日本政府が、陸軍の暴発により戦争を起こしてしまった。
そして負けた。

コメントを寄せてくださったYoshiさん(http://geocities.yahoo.co.jp/gl/yoshiaki_takenaka)の主張を読むと、
「一理も二理もあるな」
と納得できる部分多々。

基本的に、「左翼思想がキライ」という点では一致しているのではないか、と。
ただ、「出来事を多角的な視点から眺めてみる」という僕のスタンスとは微妙なズレがある。
僕は左翼思想を喝破する必要はない、と考えています。
左翼思想にも「正義」は存在する。
ただ、その論調の出発点において、誤認識がある、という部分を指摘した上で、議論を交わす必要がある。
完全に論破して、左翼的思想を一切認めない、となると、言わずもがなですが、それは大政翼賛会の世界になってしまうのではないか、と。
(ちなみに、僕がサヨを嫌いなのは、僕のような右翼系の論調に対して「一切聞く耳持たない」とか、こっちが認めるまで徹底的に論戦を仕掛けてくる、負けると個人攻撃にはしる、という点で嫌いなわけで、「妥協点を探ろう」という姿勢の左翼論者は嫌いではありません)

「大東亜共栄圏思想は権力志向」
という論は、たしかに「政治的側面」において事実なのかもしれません。
が、それを信じて戦った人たちにとっては、「権力志向」など無関係だったのではないか、と。
真に「アジアの解放」を信じて戦った人たちに対して
「あれはあくまでも権力志向だ」
と断じてしまうのは、僕の心情的に
「それじゃ『個人の信念』を無視しすぎてないか?」
と思う次第です。

「権力志向だ」
と言い切ってしまうと、インパール作戦その他、アジア諸国独立のために、戦った兵士たち、そして、終戦後も現地に残って戦い続けた兵士たちの行動は説明できなくなってしまう。

政府は「国益主義」だったとしても、兵士は「愛国主義」だったわけです。
だから僕には答えが出せない。
いままで散々エラソーなことを書いてきましたが、信念に基づき、命を懸けて祖国とアジアのために戦った人たち、いわば「大和魂」を実践し、散っていった人たちに対し、平和ボケボケの日本で、このブログに仮面ライダーがどうだとか、サッカーがどうだとか、そんなことを書いてきた僕が、彼らを「断罪」できると思っているほど横柄な人間ではないつもりです。

また、「大東亜共栄圏」という思想も、先の大戦において「初めて」日本が掲げたものではない、その思想は(僕が知る限りでは)戦国時代から存在していた、と考えています。

豊臣秀吉による朝鮮出兵は2隊に別れ半島北岸と南岸を進軍していきました。
そのうちの1隊を率いる武将・加藤清正の行った行為は完全な「侵略行為」だったようです。
一方の隊を率いる小西行長なんですが、これ、何度も朝鮮、及び明に対して、
「北東アジアに巨大貿易圏を作ろう」
といった旨の書簡を送っています。
その書簡は途中で握りつぶされ、実際に明国に届けられることはなかったそうですが、これって、もしかして「大東亜共栄圏」のさきがけだったのではないか、と。

行長は秀吉の死が近いことをさとり、そういった書簡を送ったらしいですが、それを読むと、
「戦争はやめよう。貿易しよう」
という、「商人武将」らしい発想が見受けられる。

それを「大東亜共栄圏」的な発想だと捉えるのは決して間違ったものではないと思うんです。

歴史は断片的なものではない。連綿として受け継がれていくものなわけですから、大東亜戦争だけを見れば、「共栄圏」は政治的、権力的なものとして受け止められても仕方ないんですが、そこに至るまでの、数百年に及ぶ歴史を見たとき、
「もしかしたら、日本人には最初からそういう発想があったのではないのか」
と感じられるんです。
それも、聖徳太子の時代から。
「対等にお付き合いしましょう」
みたいな発想が、ね。

・・・といった余談はさておき。

ある一つの主張を
「これこそが正義(もしくは『真実』『事実』)だ」
と断定することは、冒頭にあげたメディア論にも書いていますが、非常に危険な思想だと感じるわけです。
「自分はこう思う」
そこまでしか言えないんではないでしょうか。
たとえそこにどのような歴史資料があったとしても、です。
資料に残らない歴史だって存在するわけですから。

極論ですが、例えば、
「邪馬台国はどこにあったのか」
みたいなものが、ね。

だから、その穴は推測で生めるしかない。
「Aという資料がある。Cという資料がある。でもそれをつなぐBという資料はない」
となると、Bの部分は推測でしかない。
また、資料に関しても、すべて揃っていると思っていたところ、後から違う資料が出てきた、なんてのも、ザラにある話です。

話かわって、いじめ問題。
いくつかの論調があります。
「いじめはダメ」
「いじめられる側にも問題がある」

などなど。

僕はどちらの言い分にも「正義」があると思っています。
ただ、「正義」だからといって集団で個人を攻撃することは、決して許してはならない、それをすれば、「正義」が「正義」として認められることはない、とも思います。
僕は基本的に、そういう考え方をするタイプですから、先の大戦についても、ABCD包囲網などという、国際的な「日本いじめ」は「正義」ではない、と思うわけです。

いじめられる側に問題があるなら、一対一でケリをつければいいわけで、何も集団でよってたかって袋叩きにする必要などない。

あと、
「いじめ2-文科相からの手紙」
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_8729.html
にもコメントをつけていただきました。

最近、新聞などで
「がんばらなくていいんだよ」
との論調を見かけます。

それはそれで、たしかに一理あるのかもしれません。
でも、頑張らずに生きることを覚えた人間は、果たしてどのような人間になるのか?
「学校に行かなくてもいいんだよ」
などという論調もありますね。
たしかに、ガッコーのセンセーなんて、まともな連中は少ない。
英語や国語、数学などしか教えられないアホどもが多い。
だからといって、親御さんが「それじゃいじめられるぞ」と脅しをかけるのはいかがなものかと思うんですが、やはり最後は自助努力と好奇心なのではないか、と。
特に、好奇心が大事ですね。

いじめとはあんまり関係ないようだけど、いま、僕は仕事上で大きな悩みというか、ジレンマというか、ある種の「壁」にぶち当たっています。

言い換えれば「仕事が俺をいじめてる」状態です。

そこで時々、考えます。

「この壁を乗り越えれば、どんな世界が広がるんだろう」

と。

いじめ自殺の報道がなされるたびに思います。
「自分自信の未来に対する好奇心を教えてやれる大人はいなかったのかな?」
と。
追い詰められている人間はとかく視野が狭くなりがちです。
かつての僕もそうでした。
でも
「正義は我にあり」
「数年後にはすべてが変わるかもしれない」

と思える心を育てることって、大切なんじゃないでしょうか。
時には戦い、時にはガマンする。
そして
「明日は明日の風が吹く」
ですね。

・・・過去にサイト(http://homepage1.nifty.com/ksk628/frame2.html)も仕事も含めて膨大な文章を書いてきましたが、おそらく、今回ほどまとまりのない駄文はないかもしれない・・・

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2006年12月 6日 (水)

いじめ2~文科相からの手紙

なんやら、文科相から全国の小中高に手紙が送られたそうです。
知人経由でその写しを入手しました。
大人宛てと子ども宛ての2種類。
僕が入手したのは、手紙の写真だったので、句読点など細かい部分は判別できませんでしたが、文言は明確に読み取れました。
以下、2通の全文(と思われるもの)を紹介します。

文部科学大臣からのお願い

お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域のみなさんへ

 このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者に訴えられないとも言われます。
 一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱きとった生命。無限の可能性を持つ子どもたちを大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化をみつけるためにも、毎日少しでも言葉をかけ、子どもとの対話をして下さい。
 子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡しあい、子どもの生命を護る責任をお互いに再確認したいものです。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

これが大人宛て。
そして下が子ども宛て。

文部科学大臣からのお願い

未来のある者たちへ

 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのははずかしいこと。
 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。
   ◇   ◇   ◇
 いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明

深く突っ込んだコメントは、今回は時間の都合で控えさせていただきますが、僕がこの2通を読んだ時の第一印象は
「こいつ、『いじめ』ってのがどんなものなのか、分かってないんだろーな」
でした。
もちろん、こんな文章、伊吹大臣自らが書いたとは思わない。どうせ文科省のお役人が
「こんな感じでいーんじゃねーの」
ってな具合で官僚的に、そして「アリバイ」作りのために書いたとしか思えませんが…。

こんなもん読んで、保護者や子どもに訴えても、いじめなんて絶対になくならない。
これを読んで
「いじめをやめよう」
と思う子どもは、最初からいじめに加担なんかしてないんじゃないのかな?
誰かに話したら、
「ちくった」
とか言われて、さらに陰湿な、表面に出てこないようなカタチでいじめられ続けるでしょう。

そもそも、
「いじめをなくそう」
というスローガン自体がおかしいと思うんです。

その理由は、いずれ時間があるときにでも書いてみたいと思ってます。

僕は小学校高学年あたりから、
・誰かを集団で無視する
・集団で嫌がらせをする
という行為に興味がなくなりました。
他のこと(音楽とかいろいろ)に興味を持ち始めると、いわゆる「いじめ」行為にまったく興味が失せてしまった。
特に、高校時代になると、音楽一辺倒で、自分のクラスにいじめがあるのかどうかすら知らない状態。
たぶん、自分がいじめられていたとしても、それに気付かない状態。

手紙を送るなら、保護者やいじめっ子、いじめられっ子に送るのではなく、そこに関係してない、いじめとは無関係な子どもに送るべきなんじゃないのかな?
「見かけたら止めてやってくれ」
みたいな具合に。

まぁ、しかし、いじめ自殺も大きな問題だろうけど、それは世の常であって、たまたま昨今、自殺が相次いでいるというわけで、今、上の手紙で仮にいじめ自殺の連鎖が収まったとしても、数年後にはまた同じことが起きるでしょう。

解決策は、授業に「武士道」を組み入れることではないのかな。
そして、日本史を社会科から外して、「国史」という別枠の授業を設けることを考えたほうがいいんじゃないのかな?

大和魂の復権。

いじめ問題解決策の一つに、こういう選択肢があってもいいんじゃないのかな。

つい先日、ガッコーのセンセーが作ってるサイトで、事故で死亡した子どもの写真やらを掲載し、遺族を中傷するようなコメントがつけられていて、両親がそのセンセーを告訴しました。

上の文科相からの手紙にあった一文

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。
(下線部は小兄)

ガッコーのセンセーの一部には、子どもを「人」として扱っていない連中も存在します。
遺族を平気で中傷して、それをサイトにアップする鬼畜もいる。
はて…そんなセンセーに相談すると、いじめられた子はどうなるんでしょうかね。

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2006年11月24日 (金)

教育基本法改正

改正案が数日前、衆院を通過しました。いま参院で審議中のはず…

さて、過日、うちの会社の労働組合から、
「教育基本法『改悪』反対の集会があるから出席してくれないか」
とのお誘いを受けました。

僕のブログを時折にでも見に来てくれる人たちは既にご承知かと思いますが、僕の思想は右寄りです。それもかなりの右。

そこで、そのお誘いに関する経緯を。

相手「教育基本法が改悪されるのは知ってるか?」
僕「『改悪』じゃなくて、『改正』でしょ
相手「いやいや、あれは『改悪』だろ
僕「まぁ、ある意味、『改悪』かもしれませんねぇ
相手「『ある意味』ってどういう意味?」
僕「そもそも『愛国心』なんもの、てホントは法律に盛り込んじゃいけないんですよ
相手「だろ。これを認めたら、また軍国主義の時代に戻ってしまいかねないと思わない?
僕「そうじゃなくて、『愛国心』ってのは、いちいち法律に定めなくても、家庭や学校で自主的に教えなきゃいけないものであって、それを法律に盛り込まなきゃいけない、ってのは、愛国者にとっては、非常に嘆かわしいことなわけです
相手「おぉ。俺はてっきり、うちの会社の人間は全部が反対派だと思ってたけど、意外なところに伏兵が…。さすがに、そういう奴は誘えないな

ってな感じ。

以前にも、必修授業の未履修について、
「日本の歴史は学ばなければならない」
みたいなことを書いたんですが、なぜ「学ばなければならない」のか、というと、
「歴史の教訓を最大限に生かすため」
つまり、まかり間違っても、かつての『暗い時代』といわれている世相に戻らないよう、
「なぜ戦争したのか。なぜ負けたのか」
を徹底的に研究、分析し、日本の行く末を案じて敵軍艦に特攻していった人たちのためにも、その分析・研究結果を教訓としなければならない、と考えているわけです。

そもそも、です。
「愛国心」=「軍国主義復活」
みたいなものの考え方って、飛躍しすぎてませんか。
いや、歴史をおろそかにしてるから、「そうなる」と考えてしまうのではないのかな?
「二度と同じ轍を踏まない」
と考えれば、歴史をきちんと教えた上での「愛国心」に何の問題があるんでしょう。
今回の法改正について、反対している人たちに問いたい。

そんなに日本が嫌いなのか?

日本はそんなに住みにくい国なのか?

いったい日本をどういう国にしたいのか?

だいたいからして、ホントに日本が住みにくい国ならば、改正反対派の集会やらなんやら、そんなことしてるヒマがあるなら、韓国でもアメリカでも、反対派が
「住みやすい」
と思える国、もしくは
「この国なら愛せる」
って国に移住すればいいじゃん、と思うんですが…

僕は日本という国がとても好きです。
好きを通り越して、愛しささえ感じています。
「この国に生まれて良かった」
とも思っています。
法改正によって、自分の国を好きになれる子どもたちが出てくる、というのは、とても素晴らしいことだと思うし、そうなればますます日本は「いい国」に育っていくでしょうね。

先日、↓のような本を読みました。

日本人としてこれだけは知っておきたいこと 日本人としてこれだけは知っておきたいこと

著者:中西 輝政
販売元:PHP研究所
Amazon.co.jpで詳細を確認する


筆者はまさに「憂国の士」ですね。
ちょっと過激に右よりかな、とも感じたけど、そこまで警鐘を鳴らさないと、もはやこの国はどうしようもなくなってしまう気がする。

そもそも「愛国心」って何なんでしょう?
国を愛する心?
じゃ、国って何?

「国」という表現には二通りの解釈ができると思うんです。
「政府」という解釈と「日本人の集合体」という解釈。

親兄弟、親戚、友達を大事にしましょう。そして自分も大事にしましょう。
僕にとっての「愛国心」ってのはそれです。

一方の反対派は
政府を大事にしましょう、とはケシカラン
ではないかと推測するんですが、いかがなものでしょう。

もしも、「愛国心」という言葉を僕と同じ解釈をしていて、それでもなお反対する人がいれば、これは法改正云々を唱えられる次元ではないと思うんですが…

「自分は日本人」
それがイヤなら上にも書いた通り、移住して韓国や中国にもで帰化して現地人になって、
「日帝」
とか
「小日本」
とか
「東洋鬼子」
などと叫んでいればいい。
個人的には、自虐史観を子どもに押し付けて、自分を生み育んでくれた国を貶めるような、「ガッコーのセンセー」というカルト集団には早々にこの国から出て行ってほしい
彼らが存在する限り、この国は良くならない。

自国の歴史を否定する輩は、僕のように
「大東亜戦争は日本の正義」
という人間を徹底的に批難します。

そういうこと、やられたことあります。社会人になってから。
出社すると個室に「軟禁」されて、
「あの戦争を正当化するなど記者としてあるまじき行為だ。反省せよ」
などと、ボロクソ。
僕が、自分が調べた範囲で、
「戦時中のあの出来事の実相はこうだ。この出来事に関してはこうだ」
と反論すると、相手は単に
「日本」=「悪」
としか捉えておらず、個々の出来事に関して勉強してないから、太刀打ちできない。

そこで、彼らが行う「常套手段」の登場です。
個人(僕)に対する誹謗中傷。
議論の中身には触れず、
「あいつは人の言葉に一切耳を傾けない自己中毒な利己主義者」
耳を傾けないのはてめーのほうだろ、と言いたいところをグッとガマン。
論破されて反論できなかったが故の中傷なので、こっちが相手と同じことをやると、今度は
「根拠もなく個人攻撃をする、言論人としてあるまじき行為」
と言われるのがオチだから。

新聞社内にして既にそういう
「自由な信条」
を認めない風潮にあるわけですから、「ガッコーのセンセー」カルトはもっとすさまじいんでしょうね。

「日本は悪い。そう思えないお前は人間のクズだ」
中学だったか、高校だったか、そんなことを言われたことがあります。

たぶんね、そういう教育体制というか、
「国を愛する心って大事なんだよ」
ということを教えない、そういう心を持ってる子どもに対し「ガッコーのセンセー」が通信簿の所見欄に
「思想面に偏りがある」
とか書く。
「偏りがある」と書くということは、「センセーの言葉に逆らってはいけない」ということであって、これこそ「軍国主義」の亜流ですよね。

そんな教育姿勢だから、いじめによる自殺もあとを絶たないのではないんでしょうか。
「いじめられる奴にも問題はある」
ってのも一理あると思うんですが、集団で一人ないし二人といった少人数をいじめるのは、絶対に許されないことです。

センセーがクラスの生徒全員がいる中で、僕に対して放った「社会生活不適合者」の烙印は、その後、存分にいじめの材料となりました。

僕の場合、「いじめよう」という意思を誰かから感じた際には、こちらから先制攻撃を加えてましたから、結局は「いじめたくても手が出せない奴」という存在になりましたけどね。
でも、センセーが何を目的としてそんなことを言ったのか、十二分に理解しております。

まずは教育基本法改正。
反対するセンセー・カルトは強制的に国外追放。
どうせ日本が嫌いなんだから、追放されてもどうってことないと思います。
そんな具合でいかがでしょう。

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2006年11月14日 (火)

いじめ自殺

いじめを苦にした自殺が連鎖的に起きてます。
僕は既に30代半ば。
自分の記憶をたどると、四半世紀前のいじめって、
自殺しなければならないほど深刻ではなかったような気がします。

・・・ま、まぁ、どちらかというといじめる側に立つことが多かったので、
あんまりエラソーなことは言えないんですが・・・

でも、いじめの対象になったこともあったわけで、
その時、どう感じたかというと、
「いつか仕返ししてやる」
でしたね。

いわゆる「江戸の仇を長崎でうつ」ってやつかな。

今の小中学生がやっている「いじめ」なるものがどのようなものか、
現場を見てないのでなんとも言えない部分があるんですが、
かつての外勤時代に某自治体の議会における教育長の答弁。

「子どもは、ある時にはいじめられ、ある時にはいじめ、
そうやって人の心が分かる人間に育っていくものだと考えております」

それを聞いた各紙の記者は一様に
「そうだ、そうだ」
といわんばかりに、しきりに頷いてました。

僕もそう思います。

が。

昨今の相次ぐ自殺を見ていると、
そう悠長なことを言ってられない状況にあるのではないか、と。
陰湿を極めるいじめ、逃げ場のない空間を作り出し、
「逃げたい」と思っても逃げられなくしてしまう。
そんな状況なのかな、と。

僕が小中学生のころは、いわゆる「いじめっ子」でした。
というか、周囲からはそう言われてました。
僕がやっていた「いじめ」は単純な暴力です。

休み時間に誰にも相手にされず、一人ぽつねんと席に座ってる奴に
「お前も一緒に遊ぼうぜ」
と声をかけて、遊んでる中で、相手の言動に腹を立てて殴ってしまう。

自分の行為を正当化する気はありません。
今では心のうちで深く懺悔してます。
でも、そもそも、そいつが何ゆえに
「誰にも相手にされず」
という状況だったのか。

それは、クラスの連中に「無視」という、
僕からみれば許しがたい「いじめ」をされていたからです。

「あいつ、ムカツクからみんなで無視しようぜ」

そういう「取り決め」がありました。
でも、無視(=存在を否定する)という陰湿な行為は、
僕自身もやられたことがあるので、そのつらさが分かります。
だから、「取り決め」を無視して、一緒に遊ぶ。
その中で、ケンカする。
それを見た連中は僕を指して
「小兄は○○君をいじめてます」
と先生に報告する。

すると、僕は”一流”のいじめっ子として教師にマークされる。
職員室に呼び出される。
保護者に報告される。
こっぴどく叱られる。
でも、僕に「いじめられた」本人は、
「あれはただのケンカでいじめられたとは思ってない。
むしろ、みんなが自分を無視してる方がつらい」

と言ってました。

つまりは、彼にとって、僕は唯一の「逃げ場」だったわけです。

僕は幸いにもケンカの腕前はクラスの中でもトップクラス。
僕とケンカして勝てる相手がいないから、
「小兄はあいつをいじめてる」
と名指しして、
「今度は小兄を無視しようぜ」
という話になった。
力ではかなわないから、無視。
で、今度は僕が無視されるようになった。

ちなみに、その時は、それを言い出した奴を校舎の裏に呼び出して、
ボコボコにタコ殴りして、腕の骨を折ってさし上げました。
「無視」などという陰湿なことをする奴は絶対に許さん、って。

僕の小中学校時代はそんな感じで、上記の教育長が答弁してた
「いじめたり、いじめられたり」
だったわけです。

しかし、昨今の「いじめ」とはいかなるものか。
相手を追い詰めて、追い詰めて、
相手の存在を否定するような陰湿なものになっているのではないのか。

教師までもが「いじめ」を容認し、また自ら率先して生徒をいじめる。
逃げ場なし。
そして、思いつめ、自殺という、最悪の選択肢を選ばざるを得なくなる。

そんな状況になっているのではないでしょうか。

「学校」「教室」という狭い空間。
しかも教える側は、高校、大学と卒業して、
社会なるものがどういうものなのかも知らずに、
再び学校に戻っていく。
非常に狭い世界。

一歩、外に飛び出せば、何らかの解決方法は見つかるはずなのに、
なぜに、あえて「死」を選ぶのか。

「命とはなにか」

確かに、必修科目を教えることも大事なのかもしれません。
でも、人間としてもっと大事なことってありませんか?
それを教えられない、理解できていない教師が多いような気がします。

さて、ふと気まぐれに「いじめ自殺」で検索をかけてみました。

マスコミ批判もあるようで、例えば↓
http://fareastclub.at.webry.info/200610/article_22.html
http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000002585
http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/ijime_jisatsu2.html

上記3つにざっと目を通すと、
「確かに、そうかもしれない」
と思う部分が多々。
特に最初にあげたURLにある

最近ニュースを騒がせているものと言えば、ライブドアの証券取引法違反という株で儲けた話し、政治家たちの不祥事、警察官の飲酒運転、一般民とは少し違う考え方の人が集まった集団(例えばカルト教団など)と、それに対する執拗なマスコミの追いかけ取材。

確かに、そんなことばかり報道していては、次に続く

自分が小さいころにもいじめは確かに存在した。けれど、教師を含め、大人を信用しているところがあったように思う。信じられる親、兄弟、教師、警察官、政治家・・・。それを支えにして生きていたのではないかと。いじめられてても、勉強を頑張って大人になったら、違う人生が待っているかも知れない・・・、そんな期待。

ということも媒体を通して伝えることができなくなってしまう。
行間にこめられた、静かではあるけど痛烈な業界批判には、
業界に身を置く僕としても、
「我々も反省しなければ」
と感じざるを得ません。

でも、一方で以下のようなことを書かれておられるブログを発見しました。

生徒へのいじめ問題の前に
学校の先生をいじめるのは悪いことですよ!

そもそも、先生がどうしていじめを上へ報告しないかというと、
報告すると出世できないからです。

つまり、いじめが無くならないのは、
上、つまり文部科学省や教育委員会が
いじめがある学校をいじめるからです。
http://nextream.jugem.jp/?day=20061112

上に引用したブログの管理人さんは、教育関係者なんでしょうか?
やたらと学校サイドをかばっている様に感じます。
記事を読むと、「先生になりたい」という動機と
「出世したい」という思いがほぼイコール、
という構図が僕の頭の中で浮かび上がってきます。

今どきの子どもたちは、大人が思っている以上に利口です。
子どもがインターネットで上のような記事を読めばどうなるでしょう。

薄々感じていたことが「確信」に変わり、
「いじめても、あの先生は上に報告しないから大丈夫」
という結論に至ると思いませんか?

そしていじめはますますエスカレートする。

加えて、上記の筆者は
「教師がいじめに参加しているケースもある」
という言語道断な事実を黙殺
していますね。

いじめ、言い換えれば
「弱い奴がさらに弱い奴をたたく」
という事象は、世の常ではないでしょうか。

教育委員会や文科省が指導(筆者の言を借りれば「いじめ」)をしなくなれば、
いじめが自然になくなる、というのは僕としては納得できません。

文科省や教委が、いじめがある学校を”いじめ”るのは、
学校内のいじめ問題に対処できないアホ教師どもに対する指導なのではないでしょうか。
その「指導」を「いじめ」と受け止め、深刻化している学校内のいじめを放置する。

そんなものは教師による「職務放棄」、
もしくは、「学校という組織ぐるみの隠蔽」でしかない
のではないでしょうか。

だいたいからして、教師も「一応は」社会人なわけです。
教職を通じて給料もらってメシを食ってる。
学内でいじめがあるなら、それは上に報告すべきでしょう。
きちんと報告していれば、厳しい指導があるかもしれない。
でも、それをもって学内のいじめ問題根絶に立ち向かうのが
教師の義務ではないのでしょうか。

にもかかわらず、いじめ問題を隠蔽する。
隠蔽ならまだしも、教師が生徒をいじめる。
あるいは、見て見ぬフリをする。
生徒が自殺してから、会見を開いて謝罪する。
人の命を何だと思っているのか。
死んでから「ごめんなさい」で済ませられるようなものではない。
上のブログの記事は、子に先立たれた親の気持ちなど、
まったく斟酌しない「鬼畜」の屁理屈に過ぎない。

校長の自殺が相次いでいる。
それはそれで痛ましいことではありますが、
「職務放棄」「職務怠慢」による責めを負って校長が自殺するのと、
理不尽な「いじめ」に遭って子どもたちが次々と自殺していくのと、
「自殺」という行為は同じでも、その質は全く異なる
もので、
「教育委員会などが学校を”いじめる”から」
という部分を焦点にしてはいけないと思うのですが、いかがでしょう。

いずれにせよ、「命」というものが軽く、軽くなっているように感じる昨今です。

もしも、僕のブログを読んでる人の中で、
いじめに苦しんでいて、自殺しようと考えている人がいたら、
ほんの少しでいいから考えてみてください。

いじめられた人間は人の痛みが分かる人間になる。
いじめた経験しかない人間より、ずっと懐が広い人間になる。
自殺は、「弱い奴を叩く」ことしかできない弱い人間を喜ばせるだけ。
そんな人間のクズのために、自分の命を絶つなんて、
悔しくて馬鹿らしいだけだと思いませんか?

人一人の死というものは、自分が想像している以上に、
親や親戚、友人に抱えきれないほどの苦痛を与えるものです。
今の苦痛を乗り越えた時に、どんな明るい未来が待っているのか、
いろいろと空想してみてはどうでしょう。

5年経っても10年経っても、人生に苦痛しか感じられなければ、
それから死んでも遅くはないんじゃないでしょうか。

かくいう僕自身も、いじめが原因ではないけれど、
自殺したいと感じたことは何度もあります。
でも
「あと1年、生きてみよう。それでダメならその時に死のう」
と、1年ごとに先送りしてた時期がありました。
死ぬのが怖いからじゃなくて、
その時期の苦痛を乗り越えたところに何があるのか見てみたかったから。

おかげで、乗り越えた今では、すっかり開き直って
脳天気なサラリーマンやってます。

「お前、悩みなんてないだろ」

なんてこと言われながら。

真剣に悩んだ時期があっただけに、
多少のことでは動じない精神力が身についたんでしょうね。たぶん。
そう考えると、

「悩むなら若いうちがいい。死ななければ勝ち」

ということもできるのかな、と。

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2006年11月 1日 (水)

必修授業の未履修

今さらながら、ですが・・・

全国各地の高校で必修授業の未履修が相次いで発覚してますね。
自殺した校長先生もおられるようで、僕としては、
「そこまで気に病むほどの問題なんだろうか」
と、疑問に感じてしまいました。
よほど責任感の強い先生だったんでしょうね。
ご冥福をお祈りします。

さてさて、どんな授業を省いたのか、つーと、どうやら日本史が多いようです。

この問題って、もしかして靖国問題その他、歴史問題とリンクしてるんじゃねーか?

と考えてしまったのは僕だけでしょうか。

ある程度、正確な歴史を知って、それを踏まえた上でイエスだとかノーだとか言うのは、完全に個人の自由だと思うんです。
でも、その「ある程度正確な歴史の知識」って学校で教えるべきものではないでしょうか。
学校の週5日制とか、受験勉強とか、眼前にそびえる具体的な壁はクリアしなきゃいけないかもしれません。
だけど、自分の国の歴史を教えない、なんて、あっていいことなんでしょうか。

と、そこでまたふと思いました。

「教える時間を省いた」のではなく、「教師が歴史を教えられなくなってる」のではないか。

もしくは

意図的に教えなかったのではないか。

歴史問題になると、敗戦の後遺症とでもいいましょうか、いまだに右だ、左だ、と騒がしいんですが、日教組の締め付け(?)で、左寄りの歴史しか教えられない。
もしくは、「自虐史観」しか知らない。
でも、教科書をひもとくと、なんか客観的に書いてる。
善悪の判断は教科書には書いてない。

だけど、教師どもにとっては、
「日本の歴史は悪一色でなければならない」
という、得手勝手な思い込みがあるから、「客観的な歴史の事実」を「悪」に塗り替えなければならない。
しかし、それをするための知識を持ち合わせていない。
「悪という人がいるから悪なんだろう。でも教科書には『悪』とは書いてない。ならば教えない方がいい」
ってなところなのではないでしょうか。

だけど、冷静に、客観的に、あの戦争を見つめると、決して日本だけが悪いわけじゃない、ということに気付く人もいるわけです。
それでも教師たちは
「日本は極悪非道だ」
と教えなければならない。でも、きちんと歴史を教えると、
「日本はよく頑張った」
という感想も出てくるはずで、特に中国、韓国などによる内政干渉が激しい昨今においては、その反動で、反中、反韓に針が振り切れる可能性がある。
だから、受験だとかなんだとか、テキトーな理由をつけて、あえて教えなかったのではないか、と。
いわば「洗脳」に近いものがあるように感じる。

僕は既に30代半ばなんですが、高校時代は日本史を選択してました。
時間の都合で大東亜戦争まで間に合わなかった。
高校時代、思いました。
「自分が一番知りたいところなんだけど・・・」
(大学に入ってから、自分で勉強しました)

今の高校で使ってる日本史の教科書を、昨年か一昨年か、手に入れて読んでました。
昔とさほど変わってないんだけど、さて、鎌倉仏教がどうだとか、
江戸時代の絵画様式はどうだったのか、なんて、極論を吐けば、
歴史というダイナミズムの中における枝葉末節だと思うんです。

本筋は、織田信長が本能寺で…とか、幕末維新でどうなった、などといった部分なのではないのか、と。
そして、その中には当然、大東亜戦争(太平洋戦争)も含まれるわけです。

「受験」を理由に「自国の歴史」から目をそむけて、果たしてどのような人間を育てるつもりなのか。
日本史を無視したクソ教師どもにぜひ問いたい。

学校で教える、最も大切な「授業」は日本史なのではないんでしょうか。

「歴史は繰り返す」

という言葉があります。
そう。歴史に学ばない者は、同じ轍を踏むことになる。

日本史の授業を受けなかった生徒たちは、歴史から何の教訓も得られることはない。

亡国へ、亡国へ。

その兆しはチラホラと見え隠れするんですが、そういう方向へ進ませているのが
「ガッコーのセンセー」
という、「教育機関」の名を借りた「カルト集団」ではないのか、と思う次第です。

大東亜戦争時、自由な言論は封じられました。
軍部の独走によって、日本は原爆まで落とされ、挙句の果てには「極東裁判」なる理不尽なリンチで、戦勝国によって断罪されてしまいました。

今、正式な「日本軍」はありません。自衛隊もシビリアン・コントロールにより統制されています。
大東亜戦争は陸軍の独走によって始まり、亡国への道をまっしぐらに進んでいきました。

僕の目には、今という時代と、あの戦争の時代とが重なって見えてしまいます。
日本は「学校」という名の”思想教育機関”の暴走によって、あらぬ方向へと傾いていってしまうのではないのか、と。

もし、ここを読んでる、日本史の授業を受けなかった高校生諸氏がいるならば、ぜひとも伝えたい。
自国の歴史は学ばなければならない。
卒業してしまったなら、独学ででも勉強していただきたい。
そしてそこにある「歴史の教訓」と、「自分の国を愛する」ことの必要性を感じていただきたい。
それをおろそかにした時、この国は今度こそ本当に滅びかねない。

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2006年10月 5日 (木)

飲酒運転 その1

昨今、「飲酒運転撲滅キャンペーン」が流行っています。
はてさて、疑問に思うことが多々あるんですが、とりあえずはここをご覧あれ。

http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50114088.html

筆者も書いておりますが、
「飲んで事故を起こす奴」

「素面で事故を起こす奴」
とのパーセンテージの違いをあらためて突きつけられると、唖然としますね。

僕が感じていた疑問は、僕が書き込んだコメントも含めて、ほぼ書きつくされてる感があるので、あえて書く必要はないのかもしれません。
僕も素面で事故を起こしたことがあるので、あまりエラソーなことは言えないし・・・。

でも、一応、三者ブログだから、絡んでおきたいと思います。

かつて単独事故だけど車大破、という事故を起こしたとき、知り合いの警察官に尋ねたことがあります。
「点数は減らないんですか」
と。
返ってきた答えを要約すると、僕が起こしたような事故の場合、原因は明らかにスピード超過と前方不注意で、減点の対象にはなるんだけど、単独事故だったことと、自分自身が怪我して、車もスクラップでその上、点数を減らすのは気の毒だから、減点はしない、という内容でした。

うむ…。

じゃ、人身事故だったらどうだったんだろう?
そこまでは尋ねなかったけど、業務上過失致死傷が適用されて、点数はどうなるんだろ?

さらにさらに、何ゆえ、飲酒運転が厳しくなったのか、見逃してもらえなくなったのか、理由を知っている人っているでしょうか。

僕は新聞記者です。一般的に見れば特殊な業界ですね。
警察官の知り合いもたくさんいます。
スピード違反は機械で測るから、それを見逃すと取り締まりに当たった人が上層部からお叱りを受ける。だから、どうしようもないんですけど、シートベルトとか、運転中の携帯電話とか、さらに言えば、飲酒運転が厳罰化されてからの飲酒運転(正確には二日酔い運転)とか、さんざん見逃してもらいました。

でも、限界があって、取締りしてる人が交通課長とかなら、大概は平気なんですが、そうじゃない場合、つまり、知らない人が取り締まりしてたり、自分の管轄エリア外だったりすると、絶対に見逃してもらえません。

昔は「俺は○○新聞の記者だ」と言えば、目をつぶってくれてたそうなんですが、いまは違う。
これね、警察のちょっとした不祥事を、警察側が「書かないでくれ」って言ってたのに、某左翼紙が「ダメ」とか言って書いちゃって、大騒ぎになったことがきっかけなんです。

警察と新聞社、馴れ合いはよくないけど、持ちつ持たれつの関係つーものがあって、よほどのおおごとなら、やはり新聞社側としては書かないわけにはいかない。

でも、まぁ、これぐらいなら…ってことも多々あるわけで、それなら普段見逃してもらってるから、こっちも目をつぶりましょう、という関係があったのに、官僚的にその関係をぶっ壊した社がある。

そうなると、警察側も黙っていられないでしょう。
「目には目を」
ですね。「お前らが書いたんだから、俺たちも見逃すのはやめる」てなもんで、それに巻き込まれたのが普通に暮らしてる人たちなわけです。

・・・何を書いてるのか分からなくなってきた・・・

ある日、ある警察署で変な会話を耳にしました。

「署長のナンバーは抜いておけよ」

どういう意味か聞いても答えてくれません。何しに行くのか聞いたら、取り締まり。
そこで「署長のナンバーを抜く」って、どういう意味なんでしょう。
想像はできるんだけどね。現場を押さえたわけじゃないし、想像だけで書くのもどうかと思うから、ここは皆さんのご想像にお任せします。

飲酒運転の話、続く。

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2006年9月27日 (水)

検索ワード~行方不明の記者はバカ

少し前に、ブログにアクセスカウンターをつけました。右下の方。いま確認したら「5274」になってました。
ブログやサイトをやる人間って誰でも同じだと思うんですが、
「何かやってみたい」
という意思を持っているんじゃないでしょうか。
「何か」が何なのか分からないから、とりあえず手近なインターネットで、以前ならサイトを、最近ならサイトより簡単なブログを、ってところかな。
明確な目的意識を持ってブログやサイトをやっている人もいますが、「なんとなく」って感じの人の方が多い気がします。

目的意識を持ってやってる人のサイトは当然、アクセスが多い。2ちゃん系もアクセスが多い。
でも、「個人の日記」に過ぎない僕のブログ、サイトは当然、アクセスは少ない。
5000超えてるだけでも、正直なところ、驚きです。
ちなみに、一番アクセスが多かったのが、サッカーのワールドカップ期間中に書いた
「勝ち点の計算方法-日本勝ち抜けの条件」
でした。

それはともかくとして、アクセス件数。
僕も「何かやりたい」と思ってサイト&ブログを始めた派です。明確な目的意識は持っていません。
でも、なぜかアクセス数って気になるんですよね。

このブログと相互リンクしてるブログは
「書きなぐソ陪審」

「霧の中の鈴」
だけ。
サイトは僕が以前に書いたチベット紀行を中心とした
「心象風景」
のみです。
だから、普通に考えれば、よほど面白い内容でなければ、アクセスが増えるはずがない。
なのに、開設から7ヶ月で5000件突破。
どこから来てるんだろう? ってのが気になるところです。

そこで、アクセスカウンター。これ、実はアクセス解析機能も持っておりまして、同時にアクセス解析のタグも張り付けてるので、ある程度までたどることができるんです。
検索ワードも分かる。

「女 ヘビースモーカー」
…いったい何を探してたんでしょう。わりと気になる。
「国名5文字」
…それを何に役立てようというんでしょうか。
「パチスロ 人間のクズ」
…うるせーよ、って感じですね。
「ウクライナ 風俗」
…目的は分かるんですが…
「ブラジル 3文字 表記」
…漢字で書くと「伯剌西」。てか、日常生活の中でブラジルを3文字で表記する必要ってあるんでしょうか? ま、目的はともかくとして、それを僕のブログに求めるのは明らかに間違ってますね。
辞書をひけ! 辞書を!
もしくはWikipedia。
「韓国の汚いサッカー」
…同感。
「もてる30代」
…そんな内容、書いた記憶ないっす。でも検索かけた人が30代で、「女にモテたい!」というギラギラした性欲がびしびしと伝わってくるステキな検索ワードですね。
「糞尿便器処刑」
…もはやここまで来ると、僕の常識では測れない人種が存在するということを痛感させられます。

さて、簡単ではありますが、僕が「?」と思った検索ワードでした。わずか半月足らずの間に、こんなキーワードで僕のブログにたどり着いてる人たちがいるのかと思うと、
「俺のブログって、すっげー低俗なんだなぁ」
と思わざるを得ません。高尚な内容を書いてるつもりなんだけど…

でも、僕が一番気になった検索ワードがあります。
「台風 記者 行方不明 バカ」
これは間違いなく、
「台風で新聞記者が行方不明~記者の殉職」
にたどり着いたはずです。僕は確かにそこで、
「行方不明になった記者は未熟だったんだ」
という内容を書きました。
が、「バカ」ってなんだ?

上記記事にも書きましたが、僕としては、無意味に命を落とす必要はない、同じことを繰り返してはいけない、という思いで書いたんですが、僕も人の子ですから、やはり「取材に行って行方不明」と聞くと、「気の毒に」という思いが真っ先に頭をよぎります。

この「記者 行方不明 バカ」で検索をかけた人は、いったい何を考えてるんでしょう。
人が行方不明になるたびに、そして人が死ぬたびに
「バカじゃねーの」
と喜んで、自分はそんなことしない、と悦にいってるんでしょうか。

人間なんて、いつどこで、どんな死に方をするか分かりません。
イラクで首を切断され殺害された若者がいました。
軽はずみな行動が招いた結果、といってしまえばそれまでですが、僕は彼を
「バカ」
と呼ぶ勇気はありません。
まともな感性を持っていれば、「可哀想」という気持ちの方が先に出てくるんではないでしょうか。

僕の兄は幼いころに事故で他界しました。
自分なりに命の重みは理解しているつもりです。
「記者 行方不明 バカ」
そんな言葉で検索かける鬼畜の気がしれない。
本物のバカはどっちなのか、お前が行方不明になった時に、「バカ」で検索かけられたらどんな気持ちになるか、じっくりと考えろ、と言いたい。
検索をかけた人間のクズは、僕の兄のこともやはり
「バカ」
と呼ぶんでしょうか。もしそうなら、僕がこの手で殺してやりたい。死者を「バカ」呼ばわりするゴミに生きてる資格なんてない。

なんとなく見てみた検索ワードで無性に腹が立ったので書いてみました。
日本社会から、人を思いやる気持ちがどんどんと消え去ってしまっているような気がします。

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2006年9月17日 (日)

英語も愛国心(日本語って難しい…)

教育基本法改正で「愛国心」が盛り込まれるようです。

いや、ぶっちゃけ、ニュース面担当じゃないと、なかなか日ごろのニュースが記憶に残らないものでして、僕は普段スポーツ面ばかりやってるもんだから、
「盛り込まれるようです」
みたいな書き方してしまってますけど、盛り込むべきだろうし、それが論争になること自体がおかしいと思っています。
反対してる人たちは、いったいこの国の教育に何を望んでいるんでしょうか。
小林よしのり氏がいつだったか、何かで描いておられたような
「日本国解体」
なんですかね。

そもそも「戦後民主主義」とやらで、「自虐史観」を叩き込まれた、
「日本は悪い国だ」
という洗脳から、いい加減に脱却してはいかがでしょうか。
「憲法九条死守!」
とか言って、国際社会の現実を理解しようとしない。
「首相の靖国参拝反対!」
とか言って、靖国がどういう施設なのか、神道がどういう宗教なのか、祀られている人たちはどういう人たちなのか、分かろうとしない。

身命を賭してあなたを守ろうとしてくれた人たちに、
あなたは唾を吐きかけられますか?

祀られているのはA級戦犯だけじゃないということ、そして、神道の性質上、一度祀ったら分祀は不可能なこと、「A級戦犯」なるものに広田弘毅(字が間違っているかもしれません…)のような人も複数いること(「落日燃ゆ 」参照)、そして何より、戦犯を合祀した当時は圧倒的多数の日本人がそれを支持したことなど、諸々のことを把握した上で反対してるんでしょうか。

靖国に関しては、僕も詳しく調べたわけじゃないから、あまりエラソーなことは書けませんが、やはり、命を落としてまで自分の子孫、つまり今の日本を生きる我々を守ろうとしてくれた人たちが祭られている神社に、一国の首相が参拝しない、などとは言語道断ではないのか、と思う次第です。

中国、韓国の「靖国反対」は明らかな内政干渉だから、放置しておけばいいとして、僕が勤める新聞社をはじめとするマスコミ各社も、いい加減に「靖国バッシング」がいかに愚かしいことなのか、気づくべきだと思っています。

と、前口上が長くなってしまいましたが、教育基本法改正を見据え、中教審が各授業で「伝統」を重視する方向で検討を進めているそうです。

国語では、古文の朗読、詠唱。
これは古文・漢文が大の苦手だった僕からすれば、
「そんなことして意味があるのかな?」
です。
それなら、日本語の乱れを正すべく、「昔はこんな言葉遣いしてたんだよ」じゃなくて、現代国語で「これが正しい日本語だ」というのを徹底すべきではないのか、と。
「全然」が冒頭につけば、最後は「~ない」という使い方をするものであって、
「全然大丈夫」
という用法は誤りなんだ、みたいな。

まぁ、言葉は時代とともに変化していくものだし、あくまでもコミュニケーション・ツールだから、僕自身は「意味が通じればそれでいい」と思ってますけど。

でね、今日(昨日?)見かけた原稿に
「中教審が音楽や英語でも伝統を重視する素案を出した」
というものを見かけたんです。

音楽で「伝統重視」といえば、今の教科書に載ってる(のかな?)ようなミスチルやらサザンやらの曲より、「隅田川」とか「こいのぼり」「富士山」のような文部省唱歌を優先するんだな、ってことは容易に理解できますよね。

じゃ、「英語で伝統重視」って、なにすんの?

どうやら、国語、社会、音楽などで学んだ日本の伝統文化を英語で発信する、という内容らしいんだけど、
「音楽の伝統重視」

「英語の伝統重視」
とは、明らかに意味が違いますよね。

原稿には「仮見出し」というものがついていて、見出しをつける際の参考にするんだけど、その原稿の仮見出しは
「音楽、英語も『伝統重視』」
でした。

最初に見たとき、もの凄く違和感を感じました。
「英語の古語を授業に取り入れるのかな?」
って。
んで、原稿を読んだら上記の通り。

しつこいようですが、
「音楽の伝統重視」

「英語の伝統重視」
はニュアンスがかなり違う。
でも、
「音楽、英語も『伝統重視』」
といわれると、違和感は感じるけど、原稿の内容を読んだ上で判断すれば、なにがおかしいのか、上手く説明できない。

結局、見出しに「…英語も」という文言は省きましたが、部内で「『…英語も』という言葉があった方がいいんじゃないのか」というクレームが大量に出てきました。

「英語の伝統重視、ってなにするか想像できますか?」
と質問すると、ほとんどの人が返答に詰まる。
でも、原稿を読んで、あーだこーだと理屈をこねてくる。

英語だけを取り上げれば、おそらく僕の言い分は正しいと思うんですが、「音楽も」となってくると、途端に僕の言い分は弱体化してしまう。

要は「伝統重視」という言葉に込められた意味が多岐にわたりすぎて、誰もが納得できる見出しを誰も思いつけなかった、というわけです。

しかし、中教審も、「日本という国の文化・伝統を英語で発信する」とかいう中途半端なことをせずに、「英語の授業で源氏物語の英訳本を使う」とか、思い切ったことをすりゃいいのにね。
源氏物語って、おそらく英訳したら単なるエロ小説だから…って、英訳しなくても十分エロ小説だけど…中高生は必死で勉強すると思うんです。

ちなみに、英語が得意で日本史が苦手だった僕は、「Japanese History」っていうガイジンが書いた英語の本で日本史の勉強しました。

英語で日本文化を発信する、外国人相手に日本の話をする、という想定ならば、日本の文化・伝統・歴史を書いた英語の教科書を使うべきなんじゃないかな?

よく言われてるでしょ。
大事なのは「英語を喋る」ことではなく、「なにを喋るか」だ、って。
日本からアメリカやイギリスに語学留学する連中がたくさんいるけど、彼らは「英語を喋る」ということに力点を置きすぎて、日本に関する質問に答えられない人が多いんだって。
それで、「自分の国のことも知らない奴が外国語を学んでどうするんだ?」と笑いものにされてるそうな。

そういう点では、「英語でも伝統重視」ってのは、日本語としては意味が分からないけど、「日本のことを英語で話す」という内容の授業は非常に有益なことかもしれませんね。

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2006年7月14日 (金)

ジダンの頭突きと平和ボケ日本

ワールドカップ、終わりましたね。
肝心要の準決勝と決勝は仕事の都合で書いてる時間が取れませんでしたが、

優勝:イタリア
準優勝:フランス
3位:ドイツ
4位:ポルトガル

という、僕の当初の予想

優勝 オランダ
準優勝 イングランド
3位 ブラジル
4位 スペイン
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_b4ab.html

とはまったく違う結果になりました。
つーか、ハズレすぎじゃん・・・orz

ところで、決勝戦のイタリアvsフランス。
ジダンの頭突き問題がかまびすしいですね。

決勝戦の延長でマテラッツィに頭突きして一発退場。
ワールドカップのオフィシャル・サイト(http://fifaworldcup.yahoo.com/06/jp/)の
http://fifaworldcup.yahoo.com/06/jp/w/photos/index.html?i=0&d=1
にも写真が載ってますが、僕が勤めている社をはじめ、どこの新聞社も

「ジダン頭突き問題」

として大きく扱ってます。
サッカー選手の行為、しかも海外の選手の話題がこれほどまで大きく扱われたことって、日本の新聞史上、初めてのことじゃないかな?
もはや社会問題と化しており、僕も非常に興味を抱いているんですが、

日本人には関係ねーじゃん

というのが率直な意見です。紙面化するのはいいけど、深刻な移民問題など存在しない日本で
「移民社会があーだ、こーだ」
と騒いだところで、何か教訓になることってあるんでしょうか?
(在日問題がある、といわれそうですが、その点に関しては後日、折を見て書きたいと思います)

でも、別の側面からは、日本にとって、極めて重要な問題をはらんでいる「事件」だとも思っています。

ジダンの会見を見てると、
「母と姉を侮辱された」
とのこと。
「最初は聞き流していたが、繰り返し聞かされたもんだから、男として体が反応した」
「自分の行為を悔いることは、相手が正しいと認めることになる」

などなど。

ジダンの頭突きシーンだけをピックアップすれば、これは確かに許されざる行為だと思います。
現にジダンにとって最後の試合だというのに、彼はレッドカードで一発退場という「制裁」を下されています。
僕も最初見たときは、
「ジダン最悪。最後の最後でワールドカップを汚した」
と思いました。
僕と同じような目で見ている人も数多く存在するでしょう。
ある新聞は
「いかなる理由があれども許されることではない」
といった、非常に感情的な論調の原稿を載せていました。

でもね、ジダンに侮辱的な発言をしたことはマテラッツィも認めてるわけだし、ジダン自身によると、
「自分の母と姉に関することで、非常に個人的なことだった」
と言い、
「『テロリストの娼婦の息子』と言われたのは本当か」
との問いに
「まぁ、そうだ」
と答えてたそうです

これ、どう思いますか?
「我慢すべきだった」
「ロッカールームでやればよかった」

などといった論調も見受けられますが、
僕はこれらの意見は
「平和ボケしてて、核家族化してて、愛国心を否定して、親でも平気で殺すような事件が多発してる日本」
を象徴するような論調だと思います。

自分の家族やら、親しい友人を侮辱されたら、しかも「口がすべった」程度ではなく、何度も繰り返し侮辱されたら、僕なら相手を刺しますね。

「暴力はいけない」
という風潮は世界中にあると思いますが、上に挙げた論調では、それがイコール
「言葉でなら相手をいくら侮辱しても構わない」
という構図になってるような気がします。

時には暴力に訴えてでも、自分の愛する人たちの名誉を守るべきシーンだってあるはずです。
その「名誉」というものをないがしろにして、アメリカの言いなりになり、北朝鮮がミサイルぶっ放しても
「アメリカさまが味方してくれる」
とか言ってる連中にとっては、ジダンの行為はいかなる理由があっても許されないでしょう。

「侮辱にも耐えなければならない」
という場面もあるかもしれませんが、僕はやはり、
「名誉を守るためには、侮辱には徹底的に対抗しなければならない」
と思っています。

北朝鮮のミサイル発射。
あれだけ「打つな、打つな」といい続けておきながらも、それを嘲笑するように発射した北朝鮮。
実害はなかったとはいえ、これは立派な挑発行為です。
制裁をめぐり、各国が外交交渉を繰り広げていますが、僕の個人的な意見としては、
「先制攻撃による報復行為」
が日本の名誉を守る最も良い手段だと思っています。

ジダンの頭突きから話がそれましたが・・・

現役最後の試合で一発退場という屈辱的な仕打ちを受けながらも、自らを育んだ家族の名誉を守ったジダンという選手は、プレースタイルだけでなく、人間としても尊敬に値する偉大なサッカー選手だったと思っている次第です。

逆に、ジダンを批判する連中は「名誉」という、人として最も大切な部分を失くした愚か者のように感じられて仕方ありません。
そういう奴らは家族や友人を侮辱されても、
「えへへ♪」
とかいって笑ってるんでしょうね。そんな、人間の信頼や尊厳を放棄した奴らにこそ、僕は
「社会から追放」
というレッドカードを出したい。
そんな虫けらどもとは絶対に関わりたくないな。

具体的にどのような言葉だったのかは、今はまだ分かっていません。内容によってはやはり
「ジダン最悪」
に戻るのかもしれないけど、少なくとも今の時点では、僕は絶対的にジダン支持。

サッカーの祭典の中で、人として最も大切なことを世界中に示した偉大な選手であり、人と、その人の家族の名誉を踏みにじるような発言は決して許すべきではない、ということを自らのサッカー人生最後の最後で世界中に知らしめた人物として、彼は単なる「サッカー選手」としてではなく、「世界で最も偉大な人物のひとり」として記憶されるにふさわしい人物ではないでしょうか。

これまで、あんまりジダンに興味なかったけど、あの頭突きの「真相」が徐々に判明するに従って、今さらですが、ジダンの大ファンになりました。

しかし…イングランドのルーニーがポルトガル選手のチンコ踏んで退場になった時、イギリスの新聞は、98年大会にベッカムがアルゼンチンのシメオネに対する報復レッドで退場になり、敗退したことを引き合いに出し、

「オーノー! またかよ!」

との見出しを掲げていたそうですが、ジダンのように
「あの時、ジダンに何が?」
ではなく(ルーニーのキャラクターによる部分が大きいんでしょうが)
「またかよ!」
とくるイギリスのマスコミにもあらためて惚れなおしました。
 

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2006年3月25日 (土)

刑法議論終結へ

もともとは「死刑存廃論」から始まった話がいつの間にか「刑法論」に変容しておりました。
ここでいったん整理し、主張の違いを明確にした上で終息へ向かいたいと思います。

「刑法議論」に突入していったきっかけは「書きなぐソ陪審」のもりーが提示した

「刑事罰メニュー制度」

に僕と「霧の中の鈴」の霧鈴が

「それはダメだ」


と反論したことだったように記憶しています。
全文を読み返したわけではないけど、少なくとも僕の記憶ではそこが発端です。

「刑事罰メニュー制度」とは、僕が解釈した範囲では
「刑法運用には『感情』を大幅に導入すべき」
というもの。

それはもりーが

今回、改めて条文を読んでみて考えが変わりました。
「感情的な面は極力入れるべき」
と書きましたが、実際は
「感情的な面は絶対に勘案しなければならない」
でしたね。
徹底論戦③ 「vs.小兄」編

と書いてあることからも明らか。

一方で僕は
「罪を成立させるまでは論理的に、罪が確定したら感情も勘案する」
という主張です。

もっと分かりやすく表現すると、
「刑法は被害者の感情を最優先すべきだ」
という主張と
「少なくとも罪が確定するまでは、感情は排除すべきだ」
という相反する考え方が、現在のような専門用語が飛び交う、一般の人から見れば敷居が高いものに発展してしまったわけです。

ここでいったん、僕の基本姿勢を。

ものごとには「絶対的に正しいもの」は存在しない。

どのような問題であろうと、それが僕のスタンスです。
つまり、相反する主張において、
「どちらか一方が絶対に正しい」
と判定することは不可能だ、と考えています。
となると、
「より多くの人が納得できる主張を採用せざるを得ない」
ということになるわけです。

閑話休題。

ここで刑法議論に終止符を打つべく、非常に具体的な例を挙げて僕ともりーの主張を検証してみましょう。

【事例】
僕ともりーは刑法議論を行っておりました。
もりーは「感情を優先すべき。罪を確定するには条文のみで構わない」
僕は「罪を確定するには様々な論証が必要。罪が確定した後に感情を勘案する」
というスタンスの違いを、あれやこれやの解釈、学説を用いて論じてきました。

さて、その議論の中で、以下のような書き込みがありました。

池袋のイメクラでヌキヌキ → 日暮里・巣鴨のホテヘルでヌキヌキ → 上野の東北出稼ぎ売女でヌキヌキ →秋葉原の同人喫茶でヌキヌキ → 新橋の地下サロでヌキヌキ → 品川のソニーでヌキヌキ(ヌケんか) →五反田の高級ヘルスでヌキヌキ → 渋谷の援コギャでヌキヌキ → 原宿の家出女子●生でヌキヌキ →代々木~御茶ノ水の予備校生や大学生に「俺、●大生。教えてあげるよ」と何を教えてるんだかヌキヌキ →そして新宿以北エリアの馴染みのヘルスに「あー、やっぱここがいちばん落ち着くわー」とお帰りあそばす毎日山手線内を渡り歩いて忙しかった小兄

だから、忙しくて刑法の勉強などロクにしてないだろう、と続いていきます。

ここで僕が「名誉を傷つけられた」と被害届けを出した、と仮定しましょう。

【もりー説】
もりー説では被害者の感情が最優先されるわけですから、途中のステップはすっ飛ばし、条文と被害者の感情のみで「犯罪成立=刑事罰適用」と解釈できます。
すると、僕が被害届けを出した時点で、もりーには「有罪判決」が下される。

要するに、上記引用文だけで、個別具体的な検証もなく、僕が
「名誉を毀損された」
と訴えただけで、一発レッドカード。

【小兄説】
僕の説では様々なステップを踏んだ上で「それが罪にあたるかどうか」を検証し、有罪か無罪かを判断する。
今までは用語乱発だったので、僕の説を別の表現に置き換えてみましょう。

「ステップ」を便宜的に「X」「Y」「Z」とします。
その「X」「Y」「Z」にはイエス(1)とノー(0)しか答えはありません。
そして「罪」を確定させるためには
「X」×「Y」×「Z」=1
でなければならない。
すなわち、「X」も「Y」も「Z」も「1(イエス)」でなければ罪は成立しない。

でも、途中で例えば「Y」=0(つまり「Y」要件は満たされていない)という結論が出たら、「X」と「Z」が「1(イエス)」であったとしても
「X」×「Y」×「Z」=0
となり、罪は成立しない。従って、刑事罰も適用されない、というものです。

【検証―もりー説】
もりーが

「感情的な面は絶対に勘案しなければならない」

としたのは、おそらく「刑事罰適用の段階」における話かと思いますが、一方で

>問い
>甲が乙から盗んだ拳銃で丙を射殺した。
>当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった。
>(いかなる刑法犯罪が成立するか)述べよ。

刑法犯罪が成立しそうなのは
甲の
「拳銃を乙から盗む」―――― 窃盗罪 
「拳銃で丙を殺す」 ―――― 殺人罪
の2点のみ。

つまり
「麻薬を使用」「拳銃の不法所持」は刑法に該当無しなので、
「窃盗罪」と「殺人罪」。 状況により併合罪となる。
か、もしくは
刑法31・32・34の2・35~39・41・42・66~72条各規定により、
上の「窃盗罪」「殺人罪」、もしくはその併合罪(殺人罪)が
状況により免除・失効・減軽を受ける。
ですね。

ともしています。これはつまり、
「拳銃で丙を殺すだけで、個別具体的な事情とは関係なく有罪」
と解釈できる。

ということは、僕が「名誉毀損だ」と訴えた場合、個別具体的な事情とは無関係に、僕の一方的な感情と、条文に違反しているという点だけで、もりーに
「有罪」
という判決が出てしまう。
その上で、どのような刑罰を科すのか判断する。

突き詰めれば、
「オレは被害者だ!」
と誰かが訴え、それが条文違反と認められれば、他の個別具体的事情とは無関係に「有罪」となる。

ここで僕が最も危険だと思うのは、
「人間の感情とは非常にあいまいなものである」
という点です。
また、その日によって感情に浮き沈みが生じる。
僕の機嫌が悪い日に、誰かに
「お前ってバカだなぁ」
と冗談半分で言われて、僕がカチンときたら、その人は「有罪」になってしまう。
逆に
「お前なんか死ね」
と冗談半分で言われて、
「お前こそ死ね」
と言い返して、相手の気分を損ねたら、僕の方に「有罪判決」が下ってしまう。

【検証―小兄説】

上に掲げた「僕が名誉毀損で訴えた」場合、
「X」は1か0か。
「Y」は1か0か。
「Z」は1か0か。
という検証がなされる。

で、もりーの書き込みには「グレーゾーン」がある。
まず、「小兄」は「偽名」であり、僕という人間は存在するけど、「小兄」という人間はいわば
「架空の人物」
ともいえる。
そして、もりーの書き込みは、僕の人格を貶めたものではなく、もりー自信の知性、品格を自ら貶めただけのもの。
実際問題として、もりーの書き込みによって何らかの実害が発生したわけではない。
また、そもそもからして、この3者ブログは「知的遊び」であって、実生活に反映されるものではない。
・・・などなど。

いくら僕が「名誉を傷つけられた」と主張しても、
「果たして断定的に『名誉毀損』と言えるかどうか」
という点において「グレーゾーン」が存在するわけです。

でも、「X」「Y」「Z」には「イエス(1)」か「ノー(0)」しか存在しない。
「グレーゾーン」があるということは、
「どこかで『1』ではない部分が存在する」
ということになる。でも、「1」か「0」しかないわけだから、「1」ではないということは「0」になる。
すると、
「X」×「Y」×「Z」=0
となり、もりーは「無罪」という結論が出る

さて、上にも書いたとおり、人間の感情には浮き沈みがある。
だから、僕が本気でもりーの書き込みに「怒り心頭」となることもあるかもしれない。
だけど、「X」「Y」「Z」という関門を設けることにより、
「条文に違反してるから有罪」
という答えには直結しなくなる。

【小兄的結論】

現状において僕が死刑存続論者であるのは、死刑適用の前段にある「罪」の構築が非常に論理的なもので、納得できるものだからです。
つまり、「感情」なるあやふやなものによって、「有罪」→「死刑」とはならない制度が現状において存在するから。

もしも、もりー的な解釈で運用すると、「感情」というあやふやなもので「罪」が構築されるわけだから、「被害者」を名乗る人物によって、「加害者」とされた人の諸権利が奪われてしまう。
途中の説明をぶっ飛ばして言うと、もはやそこには「有罪」「無罪」という概念すら必要ない。
「好き」「嫌い」だけで刑務所にぶち込んだり、ぶち込まれたりする。

なぜ関門が必要なのか、というと、「刑罰」というものは人の財産、時間、名誉を侵害する行為であり、それを適用するには、大前提として「明確な罪」が必要だと思うからです。

「被害者」を名乗る人物の、その日の気分によって「有罪」と「無罪」が分かれてしまう、という運用方法は悪用される可能性が非常に高い。
「あいつが嫌いだから」という理由だけで、「すれ違いざま、たまたま肩がぶつかった。暴行罪で訴えてやる」ということも可能。
「公務員は税金ドロボー」とブログに書いて、それを読んだ公務員が「名誉毀損だ」と訴えれば問答無用で有罪。
それを考えるともりーは『常習犯』ですな(^^

いずれにせよ、そのような考え方を持っている者が死刑存続派にいるというだけで、死刑廃止論者に
「なぜ死刑がダメなのか」
という論理的根拠を与えることになってしまいます。

もしも「消費税などケシカラン。あんなもんを考えた奴はアフォだ」と批判して、考案者が
「不愉快だ。名誉を傷つけられた」
と訴えれば、即有罪。
さらに進めば、法律すら必要ない、という論に発展してしまう。
それがもっと進めば「独裁国家」を認めることになる。

だからこそ、刑罰の前提となる「罪」とは論理的に構築されなければならない。そのためには様々なハードルを設けなければならない。

よって、刑法の運用は、ルールを定めて、最初は徹底的に理詰めで、罪が確定された時に初めて「感情」を勘案する、という方法が望ましい。
もしも、もりー的発想で現行刑法を運用するのであれば、僕は死刑を廃止すべきだと思う。

【判決】
今までの議論は僕ともりーとの間で展開されてきたもの。
現時点で双方、いずれも譲らない、という状態になっております。
「どちらが正しいのか」
という点は上の方にも書いたとおり、僕は

「絶対的に正しいものは存在しない」

というスタンスですので、僕の方が絶対に正しいとは思っていません。
僕の主張は、あくまでも「小兄的に正しい」もので、第三者が見れば「もりーの方が正しい」という結論が出るかもしれません。

さて、幸いなことにこのブログは「3者ブログ」であります。
僕ともりーが延々とやり合っていても、絶対に結論が出ません。
そして現在、霧鈴はこの議論の展開に完全に乗り遅れた形となっております。

そこで、今回の議論における「判決」を霧鈴裁判長に委ねたいと思います。
その「判決」をもってこの議論は一時終了、ということでいかがか。
 

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