2006年4月30日 (日)

隣は何をする人ぞ―民主主義論6

前回の「日本には共産主義がふさわしい」の続きです。

以前にも一連の「民主主義論」の中で触れていると思いますが、僕はイデオロギーには必ず背景に宗教があると思っています。

「日本は無宗教国家だ」などと言われますが、僕の考え方としては「違う」と思っています。その点の考察については拙いながらも「日本は無宗教国家か」を参照していただくとして、端的に表現すると、
「日本独自の宗教観があまりにも深く根ざしているから、自覚症状がないだけだ」
というものです。

イザヤ・ベンダサン(故・山本七平氏)による「日本人とユダヤ人」では、僕とはアプローチの違いはあれど(当然、山本氏の方が僕なんかよりはるかに深い洞察をされております)、やはり日本には日本独自の宗教観がある、として、それを「ニッポン教」と名付けています。

僕も山本氏に敬意を払い、今後は「ニッポン教」と呼ばせていただきます。
ただし、借りるのは名称だけで、あくまでもアプローチの仕方は違います(と、自分では思っています)

さて、「ニッポン教」とはいかなるものか。

世界には様々な宗教があります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、道教、儒教…
それらの「宗教名」についてですが、ここはひとつ、人に置き換えて考えてみましょう。

世界に人類がたった1人しか存在しない状態を想像してみてください。
果たして「名前」は必要でしょうか。
「オレ」「ボク」「ワタシ」などといった一人称すら必要ないと思います。
でも、2人以上になると、他者と区別するための「名前」が必要となってくるわけです。

宗教でも同じことではないでしょうか。
ある民族がいる。
その民族は共通した宗教観を持っている。
そこに「我々の宗教は○○教だ」などと名前をつける必要などないはずです。

宗教の原始形態は、アニミズムですよね。いわゆる自然崇拝。
それはどの地域でも同じです。
崇拝の対象に名前をつけることはあっても、崇拝形態(いわゆる宗教)に名前をつける必要はなかった。

でも、そこに「唯一絶対神」を掲げる宗教が誕生した。
古い土俗宗教と、新興宗教とを区別する必要が生じた。
そこで、新しい宗教を「ユダヤ教」と呼ぶようになった。

ある時期に、ユダヤ教を発展させた「ユダヤ教の新派」が誕生しました。
その新派は、当初はあくまでも「ユダヤ教の一派」だったんですが、あらゆる経緯からユダヤ教からの独立を果たします。
それまでは「ユダヤ教キリスト派」でよかったんですが、ユダヤ教から独立したために、ユダヤ教と区別するため、「キリスト教」と名付けられることになりました。

要するに「名前」とは、あくまでも他者と区別するためのモノであって、区別する必要がなければ名前など付ける必要はない、と思いませんか?

日本という国はまさにそうだと思うんです。
「仏教」とか「神道」なんかがありますが、それ以上に深層心理に根付いている思想がある。
それは日本人すべてに共通する概念で、おまけに島国だったから、
「オレは○○教徒だが、あの人は△△教徒だ」
などと区別する必要がなかった。
だから「ニッポン教」には名前がつかなかった。

つまり、日本は「無宗教国家」ではなく、「名無し宗教国家」ということができると思います。
「宗教観」はあるんだけど、その「宗教」に名前がついていないし、つける必要もなかった、という意味。
でも、ややこしいので山本氏の言葉を借りて「ニッポン教」と呼ぶことにしよう、と。

さて、「ニッポン教」の”教義”をズバリ一言で表すと、
「隣の人と同じことをする」
というものではないかと思います。

アメリカには行ったことがないんですが、仄聞するところによると、
「いかに人と違うことをするか」
という点が大切だそうです。
「あいつはこんなことを考えているが、オレは違うことを考えている」
ということが言える環境があり、また、そうすることが大切なんだそうです。

言い換えれば「個性」こそが至上であって、「人と同じ」ではダメなんだ、ということですね。
だからこそ新形態のベンチャー企業が次々と登場する。

一方の日本では、とりあえず人と同じことをしていればいい。
「中学を卒業して、高校に入って、経済的に余裕があれば大学に入って、一般企業に就職する」
そのレールから外れた人間は「偉大」になるか「落伍者」の烙印を押されるかのどちらかでしかない。

過日、堀江氏が保釈されました。
「人と違うことをする」「既成概念をぶち破る」
最終的には…というか、現時点では「金儲け主義」と言われていますが、堀江氏の思想の根底にあるものは、
「人と違うことをする」
だったのではないかと思うんです。
だから、世論から袋叩きにされた。
僕は堀江氏は好きなタイプですが、逮捕以降、
「あいつキライ」
と拒絶反応を起こしている人も多いようです。

それもこれも、やはり
「堀江氏は人と同じことをしなかった」
ということが理由なのではないか、と思っています。

「人と同じことをする」
この端的な例が「隣百姓」だと思うんです。
「お隣さんが田植えを始めたから、うちも始める」
最初に田植えを始めたのが誰かは分からないけど、とりあえず、
「理由は分からなくても、人と同じことをしていれば、結果的には上手くいく」
ですね。

外食店に入って、
「オレ、カツどん」
「オレも、オレも」
「じゃ、オレも」
「それならオレも」
という場面には少なからず遭遇したことがあると思います。
これを「主体性がない」という人もいますが、僕は
「人と同じことをする」
という判断が働いている段階で十分に主体性があると思います。

もしも失敗すれば、全員が失敗する。
成功すれば、全員が成功する。
誰か一人だけ得をすることはない。
そうすることで、ねたみそねみ、嫉妬などのネガティブな感情は起こらない。

聖徳太子が唱えた
「和を以って貴しとなせ」
とは、一義的には

「話し合って物事を決めましょう」

ということで、その後に続く文章も
「話し合って合意したことはすべて上手くいく」
という内容なんですが、これも言い換えれば、
「話し合って、人と価値観を共有して同じことをすれば、全員が同じ結果を得ることになるから、ネガティブな感情は起こらない」
イコール、戦争などで国土を荒廃させることもなければ、政治闘争で血みどろの争いをすることもなくなる、ということなのではないのかな?

いいこと、悪いこと、全部ひっくるめて
「だって、あいつだってやってたじゃん」
に落ち着くわけですから。

居酒屋にて、
「とりあえずナマ」

これは、
「みんなが生ビールを飲むから、俺もそうしよう」
「俺も生を飲むから、みんなもそうするだろう」
などといった理由なんではないでしょうか。

上記の具体例は、書きながら思いついたことを挙げただけなので、他にも
「他の人と同じことをする」
という場面は、意識して観察すると、日常生活でとんでもなく多くあると思います。

かく言う僕自身も、いままでサイトをやっておきながら、ブログを始めたのは、
「とりあえず、みんながやってるから」
に他なりません。
そもそもパソコンだって、
「みんなが持ってるから」
買っただけの話。

メーデーの季節です。今回のテーマは「格差」だそうです。
資本主義社会において、「格差」なんて生じて当たり前。
なのに、「格差」がクローズアップされる。
なぜでしょう?
書きなぐソ陪審の「保護産業」にもありますが、

不況下の元では、労働者は必然的に労働環境の悪化を迫られることもしばしば起こります。
労働組合が「もっと保障を」と叫んだところで、企業業績が上がらなければ現実的に無理だからですね。

です。僕もまったく同意見です。それが資本主義の姿ではないでしょうか。
でも、今回のメーデーでは、

「パート従業員も正社員とほぼ同じ仕事をしているのに、給与格差が激しい」

などといった発言が見受けられました。
ここで注目すべきは、給料が高いだの低いだのではなく、
「ほぼ同じ仕事をしているのに」
の部分だと思います。
「同じことをしているのに結果が違う」
これは、日本人の宗教観から考えれば、
「理解できない現象」
でしょう。

「同じことをしていれば、同じ結果が得られるはずなのに、そうなっていない」

能力主義も資本主義も関係ありませんね。
「同じことをしているのに」
だけが問題なんです。
「同じことをしているのに、結果が違う」ということがニッポン教では「許されないこと」になる。

でもね、日本国内ではそれでいいと思うんです。
「隣の人と同じことをする」
という生き方で。
でも、国際世界で同じことをやっちゃったら、必ずひずみが生じる。
「欧米がやってるから日本もやろう」
という考え方で資本主義社会が導入されたけど、あちらの富裕層の持ってる金って半端じゃない一方、貧困層はすさまじい貧困にあえいでいる。
それが資本主義です。

「格差がイヤ」「隣と同じじゃなきゃイヤ」という日本人の精神性を考えると、資本主義社会は日本人には向いていないとしか言いようがないと思うんですが、どうでしょうか。

やはり共産主義がふさわしいのでは…
 

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2006年4月23日 (日)

日本には共産主義がふさわしい―民主主義論5

僕は「イデオロギー」なるものの背景には必ず「宗教」が絡んでいると思っています。

4月22日(だったかな?)、訪米中の胡錦濤・中国主席がアメリカ某所での演説で、中国の民主化について
「中国には中国のやり方がある。アメリカ的な民主主義万能論は中国には当てはまらない」
といった旨の発言をしたとの報道がありました。
発言の正確な内容は覚えていませんが、そんな内容だったと記憶しています。

さて、僕は今までこのブログ「新・えせ記者徒然」で日本の社会システムについて、宗教を絡めた僕なりの考察を書いてきました。

1…「社会システム
2…「平等とは
3…「日本は無宗教国家か
4…「日本の常識は世界の非常識なのか

まだまだ書き足りない…というか、上掲4本の記事の続きを書いてから結論を書こうと思っていたのですが、急遽予定を変更して、一足飛びに結論を書きたいと思います。
というのも、「書きなぐソ陪審」の「てんやもの」に、僕が「結論」として準備していたものの一部があったからです。

筆者Mollyは堀江氏逮捕に関して
「天安門事件を思い出した」
といったことを書いております。

堀江貴文氏個人への好き嫌い感情は別として、
私はこの一連の捜査逮捕は「自由主義への弾圧」であると感じ、天安門事件に重なったのです。
先程「正義」について考察しましたが、日本の民主主義はやはり日本独自のムラ共同体的な社会主義・共産主義の上に成り立っており、日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

そして続けます。

「社会主義・共産主義」という言葉にアレルギーを起こす日本人が多いのは、ソ連や中国・東欧・北朝鮮といったマイナスイメージが強いからであって、元来の思想自体は決して悪いものではありません。

そこまで読んで、「これがオレの導き出したかった結論だ」と感じました。
いわば、「先に書かれてしまった」わけで、だから、とりあえず僕の「結論」を先に出して、検証は後回しにしよう、と。

その僕の結論ですが、
「日本に自由主義、民主主義はない。日本の実態は共産主義国家だ」
というものです。

「民主主義とは」
という部分については過去にもそれとなく触れてますし、今後もちらちらと触れていきたいと思いますが、いずれにせよ、日本の実態は共産主義国家、それも極めて理想的な共産主義国家だ、と思う次第です。
(自由主義については、書きかけの記事がありますので、完成次第掲載します)

まず、「共産主義」なるものを世界で最初に文献に記した人は誰か知っていますか。

言わずと知れたマルクスです。

…と言いたいところですが、実は違います。

歴史に名を残す”超変態”、SMというアブノーマルな性交を世に知らしめたマルキ・ド・サド侯爵です。
代表作は「悪徳の栄え〈上〉 」「悪徳の栄え〈下〉 」ですが、彼は「危険思想家」として、フランスのバスティーユ監獄に終生監禁されました。その中で数々の書を記しています。
サドの経歴はここでは関係ないので割愛しますが、彼が書いた書物の中に超大作「ジュスティーヌの冒険」なるものがあります。
確か、全文訳は日本では出版されていないと思うんですが、その中の一部を渋澤龍彦氏が「食人国旅行記 」として刊行しています。

主人公は「食人国」のタイトル通り、様々な「非文化的な土地」を訪れるのですが、その旅の中で「ユートピア」にも立ち寄ります。
人々は礼儀正しく、勤労を美徳とし、生産した食物などはいったん一ヵ所に集め、それを均等に分配する。
訪れた異邦人を手厚くもてなし、旅人が出発する際に、旅を続けるのに十分な食料を、皆がそれぞれ持ち寄って、旅の無事を祈りながらその食料などを手渡す。
主人公は「これこそ理想郷だ」と深く感動する。

…というシーンが描かれています。
その「理想郷」ですが、これはサド侯爵の想像の産物ではありません。
一部に脚色があるものの、モデルは明確に日本だと分かるような書き方をしています。

冒頭に戻ります。
中国主席の発言、「中国には中国のやり方がある」ですが、その通りなんですよね。
「民主主義」というのは「平等」という概念がなければ生まれてきません。
「平等」という概念は「唯一絶対なる神」が存在しなければ出てこない概念です。

でも、中国には「唯一絶対神」は存在しない。
だから、「アメリカ的民主主義」は絶対に根付かない。
それを胡錦濤は理解していた。
中国が民主化に進んだとしても、それはアメリカとはまったく違う形の民主主義になると思います。

日本だって同じです。
日本には日本流のイデオロギーがあってしかるべきはずなんです。
が、今ではどうでしょう。
日本にあるのは「アメリカ的民主主義」でしかない。

書きなぐソ陪審にもある、

「社会主義・共産主義」という言葉にアレルギーを起こす日本人が多いのは、ソ連や中国・東欧・北朝鮮といったマイナスイメージが強いからであって、元来の思想自体は決して悪いものではありません。

ですが、日本人が社会主義、共産主義という「言葉」を毛嫌いするのは、アメリカの誇大宣伝によるものでしょう。
かつてハリウッドでは「米国v.sソ連」という映画が量産されていました。
ソ連崩壊後は「米国v.s中国」という映画が連発されました。
このような「娯楽」映画を、深い考え方を持たずに見てしまうと、
「ソ連や中国は極悪非道な国だ」
というイメージが日本人に定着するのは当たり前です。
(映画を見るまでもなく、僕は中国は大嫌いですけど…)
さらに言えば「アメリカって素晴らしい」に行き着く。
一種の「洗脳」ですね。
アメリカが国策として映画産業を後押ししているのは、この「洗脳」の効果を期待しているのではないかと個人的には思っています。

だけど…

広島に原爆を落とした国、ベトナムに侵攻した国、明確な根拠もなくイラク、アフガンを「侵略」した国、世界で唯一、国際司法裁判所から「テロ国家」として有罪判決を受けた国、自国は地球を何度も滅ぼせるだけの核兵器を持っていながら、イランの核開発に異議を唱える国…

そんな国が果たして「素晴らしい国」なんでしょうか。
アメリカは「世界の警察」を自称していますが、国連安保理の決定など、どこ吹く風で他国に平然と戦争を仕掛ける。
僕に言わせれば「世界の警察」どころか、「世界の独裁者」です。

その「独裁国家」が他国に押し付けるイデオロギーが世界に通用するはずがありません。
つまり、日本における「民主主義」「自由主義」なんてものは、表面的なものにすぎず、根底に流れる日本独自の思想とは相容れないものです。

さて、

私はこの一連の捜査逮捕は「自由主義への弾圧」であると感じ、天安門事件に重なったのです。
(中略)日本の民主主義はやはり日本独自のムラ共同体的な社会主義・共産主義の上に成り立っており、日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

ですが、上記の通り、日本には民主主義はない。アメリカ産の自由主義もない。

従って、

日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

というのは、この一文だけをピックアップすれば、
「自由主義も民主主義もないのに、堀江氏はそれが存在するかのような錯覚を起こしてしまった」
と書き換えることも可能…というか、そう書き換えた方が妥当だと思うわけです。

それはなぜかというと、
日本は共産主義国家だからだ
という点に行き着くのではないでしょうか。

…なんだかまとまりのない文章ですみません。後日、あらためて筆を起こします。

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日本の常識は世界の非常識なのか―民主主義論4

様々な「余談」ばかりを挟んだばかりにかなり間が空いてしまいましたが、

1…「社会システム
2…「平等とは
3…「日本は無宗教国家か

の続きです。ずいぶん前に書いたものですので、現在の「書きなぐソ陪審」「霧の中の鈴」で進められている論調とは乖離してる感がありますが、せっかくなので掲載しておきます。

前回の「日本は無宗教国家か」で、僕は「違う」という結論を出しました。
それが正しいのかどうか、正直なところ分かりません。
他国で生活した経験がないので、人づてに聞いた話とか、海外旅行の際に見聞きした出来事をもとにそのような結論を導き出したわけです。

僕の海外旅行経験は、滞在期間が長い順に並べると、イギリスに1ヵ月、インドに2週間、チベットに10日間、イランに1週間、タイ(バンコク)に5日、トルコ(イスタンブール)に2日、ネパール(カトマンズ)に2日と、非常に限られています。
その限定された期間内で感じたこと。

チベット、タイは仏教国(地域)ですが、日本とはまったく雰囲気が違います。
なんというか、信仰というものに非常に敬虔なんだなぁ、という印象を受けました。

キリスト教圏のイギリスでも、教会のイヴニング・サービスなどは毎日のように行われており、時間を持て余したら教会に足を運んで、荘厳なキリスト教の世界を味わっていました。

イスラム圏のイラン、トルコでは定時になると街中にコーランの読誦が響き渡る。

インドに至っては、ヒンドゥー教に基づいていると思われるしきたりが非常に多い。
「左手は不浄」とか「牛は神様」とか。

「宗教は一種の生活規範」と考えている僕にとっては、「○○教の国ではこのようなしきたりがある」と、カルチャー・ショックを受けながらも「○○教の教えに基づけば、そうなるよな」と納得できるものが非常に多かった。

日本はどうなんでしょ。
「家に入る時には靴を脱ぐ」
これって、神道(と言っていいのかどうかは分かりませんが…)に基づくものだと思うんです。
あくまでも推測の域を出ないんですが、
「外界の穢れにまみれた靴を清浄な家屋に持ち込んではならない」
ではないかと。

さて、外国人が日本に来た時、ほとんどの日本人は
「人の家に入るときは靴を脱げ」
と言うと思います。自分の家に外国人が訪問した時に
「土足のままでいいよ」
という日本人家庭は極めて少ないんじゃないでしょうか。
もしかしたらゼロなんじゃないかと思ったりもします。

でも、それを「神道のしきたりだから」と言う人はいませんよね。
「日本はそういう国なんだよ。理屈じゃねーんだ」
ではないかと思うんです。

その「理屈じゃねーんだ」の部分が、要するに「宗教」そのものではないか、と。
例えば日本で「左手は不浄だから食事の際に使ってはならない」と言ったとしても、
「なんで?」
という言葉が返ってくると思います。
ヒンドゥー教では、それは「理屈じゃねーんだよ」になると思うんですが、日本人には理由が分からない。だから受け入れないのではないでしょうか。
食前に神様に祈りを捧げなさい、と言われても
「なんで?」
ですよね。
「いただきます、だけでいーんじゃねーの?」
だけど、キリスト教圏では「理屈じゃねーんだよ。そうするもんなんだよ」なんでしょう。おそらく。

日本人には感覚的に理解できない外国の「理屈じゃねーんだよ」は他にもたくさんあると思います。
当然、外国人にしてみれば、日本の「理屈じゃねーんだよ」は受け入れられないでしょう。

「日本の常識は世界の非常識」

そんな言葉で「グローバリゼーション」なるものを唱え、
「欧米ではこのようなことが行われている。日本もそれに倣え」
と言われましても、僕としては
「なんで?」
と言わざるを得ません。

そもそも宗教観が違うんだから、
「あの国では常識でも、日本では非常識」
「日本では常識でも、他国では非常識」
という構図は存在して当たり前なんです。

そこで前に書いた
「日本では神は人そのものである」
ですが、「あいつも神、オレも神」という思想があるわけだから、その思想からは当然、
「アメリカ人も神、インド人も神」
という思想が出てくるはずです。

さて「書きなぐソ陪審」の「日本の土壌」に以下のような記述がありました。

安定した画一的な社会と人間関係を築くための社会システムを改良しながら構築していく特徴を有している国ではないでしょうか。

僕もまったくもって同感です。
上古は「先進国」中華帝国の文化やシステムを積極的に輸入しつつも、丸ごとコピーすることはなく、巧みに改良して「和風」にしてしまう。
よく例に出されるのは鉄砲ですね。
戦国時代に種子島に鉄砲が渡来すると、あっという間に日本人の手で量産してしまった。
輸出して儲けようと思っていたポルトガル、輸送で利ざやを稼ごうと思っていた中国人が
「マジすげー」
とか言ってたそうな。

でも僕が一番感心するのは文字です。
表意文字である「漢字」から「万葉仮名」なるものをあみ出し、さらに表音文字である「ひらがな」「かたかな」をつくり、日本語の文法にあった形に変えてしまった。
漢字の渡来から、一般的に漢字が用いられるようになるまでに700年かかったといわれています。
それまでは非常に慎重に漢字を使っていたそうです。
逆に言えば和風にするために700年もかけて漢字を改良していった、ということ。

余談ですが、世界の文字。
大雑把に分けて「表意文字」と「表音文字」があります。
表意文字の代表は漢字、表音文字の代表はアルファベットといわれますが、アルファベットも、もともとは表意文字です。
文字を持たないローマが高度な文明を持つギリシアを滅ぼした時に、文字の存在を知り、ローマ音に適した26文字だけを抜き取ってほぼそのまま利用したのがローマ字。
文字は表音文字に変質したけど、文字の形は変わっていない。
日本の歴史からいえば、漢字の発音を使って日本語の音を表していた万葉仮名と似たようなもんですが、
「独自の改良」
はなされなかった。
「夜露死苦」
みたいな使い方ですね。
いまの日本語の文章が全部漢字で書かれていたらどうでしょう。
加多仮名、比良仮名賀間座留己戸出予巳屋素句奈津手留。
現代人の感覚から言えば「読めねーよ、トホホ」じゃないかな。

余談終わり。

要は、日本は「輸入物」を日本流に変質させていく特徴がある。
それはとりもなおさず、宗教観がもたらすものではないか、と。
「手先が器用」
というのもありますが、その前に、
「あちらの国の人(=神)がつくったものなら、オレたち(=神)も同じように(つまり、公平に)使おうではないか」
という発想が生まれるのではないか。
でも、根幹を流れる思想がまったく異なるから、そのままそっくり使うことができない。日本人の宗教観にそぐわない。
だから、使いやすいように変えていこう。

それが「改良しながら構築させていく特徴」を生み出しているんではないでしょうか。

でも、いまの日本の民主主義はどうでしょう。
「戦争に負けた」
だから、アメリカ的社会システムを押し付けられても、自らの宗教観に照らし合わせて改良する、ということがなくなってしまった。

音楽でいうところの「カヴァー」ではなく「完全コピー」ですね。

でも根底が違うから、ゆがんだ形で定着してしまう。
そして社会にひずみが生じる。

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2006年4月 2日 (日)

日本は無宗教国家か―民主主義3

またまた大仰なタイトルをつけていますが、前回の「平等とは」、前々回の「社会システム」の続きです。

宗教とは直接関係ない言葉なんだけど、僕がこよなく愛してやまない言葉(漢詩)にこんなのがあります。

「年々歳々、花相似たり、歳々年々、人同じからず」
(年月が経ても咲く花は同じだけど、その同じ花を見る人は年月とともに変わっていくんだなぁ、という意)

小学校の時に出会った漢詩でした。その意味を知って深く感銘を受け、今では座右の銘…というと大げさですが「好きな言葉トップ3」には入ってますね。
(ちなみに座右の銘は「彼も人也、我も人也」です。人にできることは自分にもできる、という意)

「年々歳々~」とは何とも無常観を漂わせる言葉ではないでしょうか。
自然の営みは半永久的に変わらない。でも世代が変われば、その自然の営みを眺める人も変わっていく。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」
にもどこか似た雰囲気があります。

平家物語の冒頭のこの言葉、これを聞いて「無常」という感覚、あらゆるものは移ろいゆくものなのだ、という感覚を抱かない人は、日本人には存在しないと勝手に思ってます。

問題はその「無常」という感覚なんですが、これは仏教独特のもの。
いわば外来宗教が日本に深く根ざし、意識せぬ間に定着してしまった。
【追記・4月3日】そのような感覚を受け入れやすい精神的土壌があった、ということです。

要するに、日本における「宗教」とは、非常に感覚的なもので、僕が感じるに
「自然の成り行きには逆らわない」
というものではないかと。

さて、今の日本は「無宗教国家」などと呼ばれています。
果たしてそうなんでしょうか。

それを考える際に「宗教とは何か」を考えるべきではないかと思うわけです。

日本にはもともと「神道」なるものが存在しました。
仏教はインドで誕生し、中国の道教思想と混合し、「中国仏教」に変質しました。
それが朝鮮半島を経て日本に渡来し、「神道と仏教の融合」が図られました。
聖徳太子の「本地垂迹説」です。

そのような流れから、「日本仏教」なるものを解体してみると、
オリジナル仏教+中国道教+神道
となります。

では日本古来にあった「神道」とはいかなるものか。

これはもともと「神惟(カンナガラ)」と呼ばれていたものです。
仏教の伝来により、仏教と区別するために「神道」という言葉に置き換えられた。
つまり、「神道」とは字句通りの「神(が定める)道」ではなく、
「神とともに生きる」
という意味ではないかと推測しています。

さて、その「神道」ですが、天皇を頂点として、天皇を崇める宗教だと誤解されがち。
でも、この考え方は、明治維新後、「国家神道」が成立してからのものだと考えています。
(首相の靖国参拝が問題視されるのは、「国家神道」と「神道」の区別がついてないからではないかと…)

しかし、いろいろと調べていると、どうもそうではないらしい。
天皇は単なる祭祀者であって、
「天皇を崇める宗教」
ではなかったのではないか、と感じられる。

そこで
「じゃ『神道』における『神』ってなんだ?」
という疑問が沸いてくると思うんですが、古来、日本人は人間のことを「分霊(わけみたま)」と呼んでいました。
「神」とは「霊(たま)」が渾然一体となっている状態のこと。
言ってみればユングが提唱した「集合的無意識」みたいなもんで、その巨大な集合的「霊」が分離して実態を持ったのが「人間」である。だから「分霊」。
従って、「神」という字句よりも「カミ」と書いた方がより理解しやすいかと思います。
「別物なんだ」
という意味で。
(ここではあえて「神」と表記していますが)

つまり、何を言いたいのかというと、日本人のDNAには、その「分霊」思想が刷り込まれているんじゃないか、ということ。
「人とは神(霊の集合体)から分離したもの」
という思想。

神道の解説書なんかを読んでいると、人の根本的性質は
「赤き、清き、直き、正しき(存在)」
とされていた、とあります。

要するに、日本では「人」=「神の分身」であり、「神」とは「人」の内部に存在するもの。
外部に「神」を求める一神教とはものの考え方がまったくもって違う。180度違う。

一神教…「神が人を創った」
日 本…「神とは人そのものである」

ここから民主主義論に入っていきます。

前回にも書いた通り、
「『平等』とは唯一絶対神との距離を指す言葉で、『神』と『人』との距離が同じである、という思想に基づくもの」
です。

じゃ、日本はどうか。
「『神』=『人』である以上、『神』と『人』との〈距離〉なるものは存在しない」
といえるのではないでしょうか。
日本にあるのは
「『神』イコール『人』であるなら、そこにあるのは『人』と『人』との関係だけ」
となるはず。

つまり、神は唯一絶対であり、そこから人との距離を測ることは可能。なぜなら、そこに揺るぎない
「絶対性」
があるから。
でも、神があちこちに存在する日本では、神と人との距離は測れない。なぜなら、そこには
「絶対性」
は存在せず、
「相対性」
しか存在しないから。

「平等」という概念が「絶対性」に基づくものであれば、「相対性」しかない日本では「平等」はない、と僕は結論づけてるわけです。

「あいつも神、オレも神なんだから、同じように扱え」
それが日本人の根幹を流れる思想。
だから、隣人の顔ぶれが変われば、
「同じように扱え」
の内容が異なってくる。
そこには「隣の人と同じ」という「公平性」はあっても、「みんな同じ」という「平等性」はない。

前回の冒頭に書いた

「彼は足が遅いから、速い人と一緒にゴールさせましょう」

ですが、それは「足が遅い人も速い人も『人』という名の『神』だから、同じように扱いましょう」という発想ではないんでしょうか。
日本人はすべからく「霊」、つまり「神」の分身なんだから、同じように扱わなければならない、と。

日本人の根底にそのような思想があるからこそ日本では
「お手々つないで一緒にゴール」
が、感覚としては正しいような気になり、それを実践してしまう。

ということで、「日本は無宗教国家か」という点については、
「日本古来の宗教があまりにも感性に密着しすぎているため、宗教を意識できないレベルになっている」
言い換えれば、
「日本人の宗教観は他国に例を見ないほどに強烈」
といえるのではないかと思う次第です。

ちょっと民主主義とは離れているような気がしますが、民主主義が宗教観に基づいたものである以上、宗教を語らずして社会システムを考えることはできないのではないか、と思って書いてみました。

まだまだ僕が「日本における民主主義の否定」に至る道筋の半分も書ききれていませんので、非常に分かりにくい論旨になっていますが、しばらくはこんな調子で続く予定です。

 

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2006年3月30日 (木)

平等とは―民主主義2

前回の「社会システム」の続き。

足が速い人と遅い人がいます。
ヨーイドンで走らせれば当然、速い人が先にゴールするわけですが、その人に
「ゴールの前で待っとけ。遅い奴と一緒にゴールしろ」
と命じるのは果たして「平等」といえるんでしょうか。

数年前に、教育現場で実際にこのようなことが行われていると聞いて唖然としました。

さてさて、民主主義についてですが、僕は前回

「一神教に基づいて考案された民主主義は、多神教の国・日本にはなじまない」

と書きました。今回は「なぜそう考えるのか」について。

書きなぐソ陪審で、民主主義の定義なるものについて調べてくれております。
エントリーの冒頭に無意味なシモネタが含まれているので、こちらからはリンクを張りませんが、以下抜粋。

君主の対概念として民主なるものを立て、人民(ないしは国民)が主権(支配の正統性および実際の政治権力の双方を含む)をもち授与、為政者たる民主と人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治的な原則や制度。

また、「霧の中の鈴」の「民主主義について」では

宗教観を国家形態の問題にあてはめて解釈するときには、
「神」と「国家元首」の関係に注目すべきでしょうか。
自分でもこじつけの感が拭えない発想ですが、
こういう考え方もできますかね。

もともと性質の違うものではありますが、
例えばキリスト教主流派の場合、
「イエスは神であり、人である」という思想から、
個人が究極的に権力を掌握しうる前提があるととらえることで
アメリカの大統領制を見る手法も考えられます。

日本では、最高神は事実上存在せず、また、
八百万の神の思想から、
「神々は独自のコミュニティを作って『人間的』に生活している」
と言うこともでき、キリスト教的な発想にはならず、
横並びの発想のもとになっているのかもしれません。

という解釈がなされています。

霧鈴が書いてあるように、大昔は「国」には王様がいました。
それを打倒する手段としてロックやらカルヴァン主義やら社会契約論やらが出てくるわけですが、その辺は割愛します。
深く勉強してないから。

ただ、それらの思想の中で「民主主義」というものが打ち出されたということは記憶しております。
(間違っていたらどなたか訂正を)

まず、民主主義というものは、かつて存在した王様も、その支配下に置かれている民衆も、等しく同じ権利を有する、という発想がなければ成り立たないはずなんですよね。

つまり「王様だけ特別(王権神授論)」を否定することから「民主主義」が始まるわけです。

何に対して、何の権利を有するのか、というのが問題になってくるんでしょうけど、一言で表すなら、
「神に対して、存在の権利を有する」
とでもいいましょうか。

「神」とは一神教ではすなわち、「創造主」です。
ヤハウェとかゴッドとかアッラーなどと表現されますが、「創造主」であるという点では同じです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラムが「兄弟宗教」と呼ばれるのは、その宗教の発生形態においてでもあるんですが、同じ神「創造主」を崇めているからだとも思っています。

さて、神にとって人を含む「存在」とはなんなのか。
「オレ様が創ってやった存在」
ですね。
王様も人間も、「神が創った」という点では同じなんです。
神様にとっては「塵芥」に過ぎない。
塵芥の中に「特別な塵芥」など存在しない。

ちょっと分かりにくいかもしれませんが、要するに、
「人民も王様も、神様からの距離は同じ」
ということです。
そして一神教の神様は「唯一絶対なるもの」なので、「神様からの距離が同じ存在」ということは、
「存在としては同じ価値を持つ」
という考え方につながる。

つまりですな、「絶対性」がなければ「平等」という概念は生まれない、ということです。
もっといえば、「唯一絶対神が存在しない集団の中では『平等』はない」です。

多神教の国、ニッポン。
ここには「唯一絶対神」は存在しません。だから、「平等」という概念自体が本来、存在できないはずだと思うんです。

上記の通り、「平等」というのは「神と人との距離」なわけだから絶対的なものです。
でも、日本で言われる「平等」という言葉には
「他の人たちと一緒」
という概念が含まれているような気がします。
でも、その「他の人たち」の顔ぶれが変わったらどうなるんでしょう。

小学校や中学校ではいいのかもしれない。
「どの生徒も平等に扱う」
というものであれば、ね。

それは「先生と生徒の距離」における「平等」なわけです。
でも、「隣の人と平等に」というのは非常に相対的なもので、「隣の人」が全然違う境遇であれば「平等」という言葉は使えないと思うんです。

自分は貧乏、隣は金持ち。
「平等に扱え」
と訴えたところで、じゃ、何に対して平等なのか。
選挙権は平等に1票ずつ。
これは「平等」ですよね。
じゃ、納税額は?
これを同じにしてしまうことを「平等」と呼べるのでしょうか。

ここで多神教について霧鈴の指摘、

「神々は独自のコミュニティを作って『人間的』に生活している」
と言うこともでき、キリスト教的な発想にはならず、
横並びの発想のもとになっているのかもしれません。

端的に言えばそういうことだと思います。
多種多様な価値観を認める多神教。
どの「神様」を崇めても構わない。
争わないように「和を以って貴しとなせ」。

これは「人と人との関係」であり、平等思想の根幹をなす「神と人との関係」ではない。
「人と人との関係」において「公平」はありえても「平等」はありえない。
その「公平」とは、非常に相対的なもので、高額納税者が

「オレは毎年1億円以上納税している。あの貧乏人は生活保護を受けてる。なのに同じ1票しか与えられないのはおかしい」

という主張があったとして、
「じゃ、納税額に見合った票数を与えます」
となれば、「公平」とはいえるんだろうけど、「平等」ではないですね。

さて、冒頭に書いた「お手々つないで一緒にゴール」ですが、これ、
「全ての子どもを平等に扱う」
という理由らしいです。
でも、こんなもん、公平でもなければ平等でもない。
「全ての人に同一の結果を強制している」
というだけのこと。

これって…
身体能力が優れていようが、劣っていようが、同一の結果しかもたらさないのだとしたら、
「一生懸命働いた人も、まったく働かなかった人も、同様の金銭を受け取る」
というものに発展しかねない。
このやり方は、まさにソ連が崩壊した理由そのものではないんでしょうか?

…分かりにくい書き方になってしまいましたが、
「平等とは何か」
「公平とは何か」
を曲解してしまうと、「えせ民主主義国家・ニッポン」は崩壊してしまうんじゃないか、冒頭の教育現場の実例はその兆候なのではないか、と思うわけです。

だから、民主主義国家における「平等」という概念が何なのか、正確に理解していない日本人に真の「民主主義」はなじまない、と。

てな具合で続く。

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2006年3月26日 (日)

社会システム

さて…書きなぐソ陪審の「死刑制度⑩」にある「刑罰メニュー選択制度」ですが…

僕としては「刑法はなんぞや」とか、「死刑はどうだ」とかいった話よりも、むしろ、こちらの方を書きたかったんですが、書く前にもりーの投稿があったのでそのまま保留していました。

もりーの「刑事罰メニュー選択制度」
「死刑存廃論」から相当程度逸脱してしまっておりますな(w

僕の基本的スタンスとしては、とりあえず現在の民主主義というシステムを肯定し、その中で
「刑罰とはどうあるべきか」
という点に思いをはせているんですが、もりーは僕が前提としている「現行システムの肯定」とは違うスタンスを持っているようで。

何ゆえに僕が現行システム(つまり、今の日本の民主主義)を肯定するのかというと、答えは非常に単純で
「オレの頭ではそれ以上のシステムが思いつかない」
からです。
もしも民主主義に代わる社会システムが考案され、どちらかを選べと突きつけられたら、(内容にもよりますが)僕は民主主義を否定します

選挙で選ばれた人間の行動は必ず正しいのか、選挙は本当に民意を反映しているのか、と考えると
「違うんじゃないのか」
と思うわけです。
民主主義ってのは
「国民が成熟している」
という大前提があって、その上で初めて成り立つ制度なはずです。
でも今の日本はいかがか。

僕は日本の民主主義って、
「アメリカ的民主主義を日本流に解釈しているだけ」
と思っています。
つまり、
「一神教に基づいて考案された民主主義は、多神教の国・日本にはなじまない」
と。

なぜか。

最近、「格差」なるものが話題になっていますが、本来の民主主義、資本主義とはどのようなものなのか。
僕は資本主義社会においては、
「格差が生じるのは当たり前」
と思っています。

でも、マスコミとか有識者は
「格差社会はヤヴァイ」
などと平然と主張します。

さて、民主主義社会において「格差」の存在を疑問視する風潮。
これは矛盾しているのではないか、と思うのは僕だけでしょうか。

「格差がない社会」=「共産主義の基本理念」

だと解釈している僕にとって、
「格差を解消せよ」
という論調は、すなわち、
「共産主義国家にしよう」
という主張にすら聞こえてしまう。

「共産主義」なるものを深く勉強したことのない僕に「マルキシズムとは何か」を論じることはできないんだけど、僕は共産主義とは
「格差のない社会(を目指す主義)」
ととらえています。

個人的には、日本という国、日本人という国民性を考えると、真に共産主義を実践できるのは、世界広しといえども日本だけ、と思っているんですが、共産主義よりは民主主義の方がいいと思っています。

でも、一方で「日本には民主主義はなじまない」とも思っています。
そして「民主主義」を標榜している日本において、
「格差社会」
がクローズアップされる、ということは、もしかしたら日本人は「民主主義」なるものを誤解しているのではないのか、と。

と、前フリだけして、今日はこれにて。

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