2006年5月 9日 (火)

偶像崇拝禁止の理由


またまた宗教の話です。が、今回は一連の社会システム論とはちょっと離れて、純粋に宗教の話。

当方にTBをいただいております「心の幸福と宗教の世界」の中の「偶像崇拝と啓示宗教」に興味深い部分があったもので。

反論するというわけではないんですけどね、何をどう信じようが個人の自由ですから。
「おまえ、間違ってるだろ!」
という前に、僕の方が間違ってる可能性だってあるわけだし。

という前フリをしておいてから、「なぜ偶像崇拝はダメなのか」を知ってる範囲で書いてみたいと思います。
上記ブログの管理人さんは

「啓示の主」の声は聞こえるようですけれど、姿形はハッキリしないようなのね。だから形に表せないのではないのかな。

「啓示の主」を偶像で表せないのだから、偶像を禁止したのでは???
仏教はお釈迦様の説法だから、お釈迦様の姿形を表せばいいの。

と書いておられます。その前段に「どのように啓示が行われるのか分からないが、啓示する神は姿を現してないのではないか(だから姿が分からない)」といった旨のことを書かれておられます。

でも、聖書には「神は自らの姿に似せて人を造られた」と書いてあることから考えるに、神とは人間の姿をしている、もしくは人間に極めて近い姿をしている、と考えるのが妥当でしょう。
ただ、人間ではないし、啓示(預言)の際も、神はキリスト、ムハンマドともに天使・ガブリエルを遣わせたといわれています。キリストの方はガブリエルだったかどうか、明確に覚えてないけど、ムハンマドはガブリエルです。

だから、「姿形がハッキリしない」という部分はその通りですね。
でも、それなら天使・ガブリエルの像を作ればいいわけだし、それでも無理なら石ころを拝んだって構わないはずなんです。

ちなみに「偶像」と呼ばれていますが、これは(少なくとも僕が理解する範囲では)
神・仏の姿をした像」
という意味ではありません。
「偶像崇拝禁止」というのは、「モノを拝んではならない」というものです。
石ころを拝むこともまた「偶像崇拝」の範疇であり、それが牛や豚、サルの像でも、それを拝むことは「偶像崇拝」です。

コメント欄に「アルバイシンの丘」の管理人さんが以下のように書かれております。

仮に偶像を作ったとします.すると,その偶像が人々の心にそれぞれ違ったイメージを想起させることがあるのではないでしょうか.それが一神教にとって困るのは,一神教の唯一の神が様々にイメージされるとそれぞれ別の神になっていくきっかけとなるかもしれないからです

上記ブログの中の「宗教と人間の脳との関係③」にも同じような内容があります。

じゃ、石ころを拝んだらどうなるんだ?
「これはムハンマドが座った石だ」
「これはキリストを包んだ布だ」
とか言って、それを拝むことはどうなるんでしょ?
僕から見れば、それもまた偶像崇拝です。

僕が様々な文献を漁る中で理解している「偶像崇拝禁止」の理由は、
「唯一絶対神以外を崇めてはならない」
です。
神の姿を想像して像を作っても、それは「神そのもの」ではないから、それを崇めることは「神以外のものを崇拝している」ということにつながってくるわけです。

さて、では「キリスト像」「マリア像」はいったいどうなるんでしょう?
結論から言えば「偶像」です。
なぜかといえば、いわゆる「三位一体説」ですね。神とイエスと精霊は一体のものである、という説。
「アルバイシンの丘」さんは「パウロが苦心して…」とかかれておりますが、これはイエスの死から数百年後、ニケーア大会議で採用された説です。
それまでは、神が唯一絶対である以上、イエス信仰はおかしい、という「正論」もありましたが、実権を握っていたアナスタシウス派(だったと思う)の主張が全面的に受け入れられ「確定」したわけです。

だけど、本当に「三位一体」であれば、イエスも神なわけだから、その偶像を作って拝んではならない、という話になるはずではないんでしょうか。
これが、僕が「イエス像を拝むことは偶像崇拝だ」という根拠です。

イスラムでは、ムハンマドは自らの像が建てられた時に、それを叩き壊すように命じています。
崇拝すべきは自分ではない。自分はただの預言者であり、拝むべきものは神だけだ。
神は「万物の創造主」であり、被創造物の人間ごときが神の像など作ることはできない。

つまり、
神>人間(被創造物)>偶像(被創造物による創造物)
という序列があるわけで、上にも書きましたが、偶像を崇めるということは、神以外のものを崇める、ということなのではないでしょうか。

ところが、キリスト像もあればマリア像もあり、信者に絶大な人気を集めている。
イスラムではあり得ないことです。
イスラムがキリスト教を認めないのは、様々な理由がありますが、この「キリスト像崇拝」もその理由のひとつだそうです。
「神とイエス? おまけにマリア信仰? それじゃ多神教じゃねーか」
ですね。

キリスト教vsイスラムの話は後日に譲るとして、偶像崇拝の話に戻します。

なんだかんだ言っても、やはり宗教は信者がいて初めて成り立つものだから、信者獲得のためなら何でもします。
ぶっちゃけ、イエスの存在ってユダヤ教の範疇をこえないんですよね。
「ユダヤ人のための宗教」か「全人類のための宗教」かという違いかな。

ところが「ユダヤ教キリスト派」の中には「教会を作って支配勢力と対抗しよう」と考えた「政治家」がいた。それがアナスタシウス派です。
信者獲得のために最も手っ取り早い手段は、というと、
「目に見えるものを拝ませる」
ですね。
「これが神様なんだよ。この人が人類を救ってくれるんだよ。だから拝みなさい」
です。
現代人、それも日本人の感覚で考えてはいけません。
昔は識字率も低く、自然環境も厳しく、人々は日々の糧を得るのが精一杯だったわけです。
いわゆる「愚民」。
といっても、もともとの人間の質が低かった、というわけではありません。アナスタシウス派が仕組んだことです。

マリア像もイエス像も、その他、あらゆる宗教芸術も、「信者獲得」という政治の手段だった、と考えるのが分かりやすいのではないか、と。

僕が感じるに、ユダヤ教キリスト派から「キリスト教」として独立した宗教は、正確には「教会教」とでも言うべきで、キリストが何したとか、どんなこと言ったとかってあんまり関係なくて、ともかく「教会の言うことは絶対である」が大前提。

だから、教会側が「イエスは神の子だ」と言えば、それが正しいことになってしまう。
なぜならば、「イエスがそう言ったと聖書に書いてあることにしておけ」と命じてしまうから。
識字率が低かった当時、司祭ですら聖書を読めなかったといいますから、聖書にいったい何が書いてあるのかなんて、ほんの一部の人しか知らない。

宗教革命はグーテンベルグが印刷機を発明し、聖書が各国語に翻訳、出版されたことで成功したと言われています。教会側の言い分に対し、
「そんなこと、聖書には書いてないじゃないか!」
というのがプロテスタント側の言い分。
ただ、そのときには既に聖書には「イエスは神の子」と記されてしまっていたので、それは認めざるを得ない。

アナスタシウス派は、自分に都合の悪いものはすべて焚書し、新約聖書にはアナスタシウス派に都合のいいことしか書いていません。
前にどの記事かで書いた記憶があるんだけど、アナスタシウス派がそういうことをしたもんだから、いま僕らが知っているイエスの軌跡というものは、捏造されたものである可能性が高い。
だから、焚書を免れた死海文書なんかに違うことが書いてあると「偽書だ」などと言われてしまう一方、アナスタシウス派の暴挙とも呼べる行為を知っている冷静な人たちは熱心に研究を進めているんですね。

巷では「ダ・ヴィンチ・コード」が大ベストセラーになっています。
途中が面白いので、結論を書いて差し支えないと思うから書きますけど、
「イエスはマグダラのマリアと結婚し、子どもをもうけていた」
というお話。
同書に出てくる「オプス・デイ」なる団体が抗議していますが(悪者として書かれているので)、もしかしたら、著者のダン・ブラウンが書いていることは事実かもしれない。
でも、焚書されているから、真相は分からない。

なぜ偶像崇拝を許したのか、という点に関して、もうひとつ。
当時は多神教が当たり前だったんです。
多神教では偶像を拝みます。
それらの信者を転向させるにはどうすればいいか。

偶像を使えばいい。

「何かを拝まないと気がすまない」
という人たちだっているわけで、そういう人を信者にするには、やはり偶像を使わなければならなかった。
それによって、「多神教の神」の一部として「イエス」「マリア」という存在を紛れ込ませ、その後に教会(アナスタシウス派)が強力な圧力をかけて、完全に転向させる。

だから、神の姿がハッキリしない、とか、様々なイメージを起因するとか、そういう意味じゃなくて、イエス像崇拝は明らかに偶像崇拝なんだけど、それは信者獲得の手段であった、と考えています。

イスラムは、というと、偶像崇拝は厳密に禁止されています。
ただ、僕が疑問に思うのは、隕石が祀られているというカアバに巡礼に行く、という行為は偶像崇拝にはならないのか? という点ですね。
カアバはイスラム以外立ち入り禁止なので、カアバでどのようなことが行われているのか知りませんが、隕石を拝んでいるなら、それはやはり、厳密な意味での「偶像崇拝」に相当するんじゃないのかな?

偶像崇拝と宗教の世界」には、仏教は偶像崇拝の宗教だ、みたいなことも書いてましたが、ゴータマ・シッダールタは偶像崇拝を禁止しています。
その戒律は開祖死後、しばらくは守られていましたが、やがて崩れました。
やはり、人は「目に見えるもの」を拝まないと気がすまない生き物なんでしょうね。

ダ・ヴィンチ・コード(上) ダ・ヴィンチ・コード(上)

著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ダ・ヴィンチ・コード(中) ダ・ヴィンチ・コード(中)

著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ダ・ヴィンチ・コード(下) ダ・ヴィンチ・コード(下)

著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年5月 5日 (金)

漠然と―宗教のゲーム化3

僕は本を手放せません。
常に「いま読んでる最中」という本が3冊ぐらいあります。

・通勤の電車内で読む本。
・帰ってからベッドに寝転がって読む本。
・便所や風呂で読む本。

「本が好き」というと、「どんな本を読んでるの?」と聞かれるんですが、宗教関係の本が圧倒的に多いんですよね。
だからといって
「宗教の本を読んでます」
と答えると、相手は必ず「えっ!」という反応を返してきます。

もうね、日本では
「宗教=危ない」
という認識しかないようで、
「宗教に興味がある」
ということと、
「○○教の信者である」
ということの区別がつかない人が異様に多い気がします。

だから、いつも「歴史関係の本が好きですねぇ」なんて誤魔化してるんですが。

と、そんな前置きはともかくとして、宗教ゲーム構想について、漠然と考えていること。

「ユダヤ教」とか「イスラム」とか…もっといえば「アブラハム」「モーセ」「キリスト」「ムハンマド」などといった名は出さない方がいいのではないか、その方が面白いんじゃないか、と感じています。

ある特定の宗教が世に出る時って、どんな感じなのかと過日、ぼんやり考えていました。
いま通勤中に読んでる本がべらぼうに面白くて、その中の記述をヒントにそんなことを考え始めました。
(書評は後日、読了後にでも…)

まず、多神教(というか、土俗宗教)の民族がある。
その中から1人、変なことを言い出す人間が、ある日突然出現する。
その人が言うことを、民族やらコミュニティーが信じるかどうか。

人間をいくつかのパターンに分けて、それをパラメータ化する。
そこに遺伝要素を組み込む。
例えば「保守的で頑固」な男と「革新的で柔軟」な女が結婚して子どもを生むと、「保守的だが柔軟」な子どもが生まれる、みたいな感じで。

んで、その一般人の結婚と増殖については、プレーヤーは関与できず、コンピューターに勝手にやらせる。
プレーヤーは「開祖」となって、
「多神教だが、最高神を定める」
とか、
「多神教の伝統を盛り込みながら、一神教を確立する」
とか、いくつかの選択肢から選び、新たな宗教を興すわけです。
そして、信者を獲得していく。
特定の民族集団で満足できる信者数を獲得できなければ、他の土地に赴いて布教活動を行うことも可能。

時代の経過を少し早くして、1年を1分ぐらいで、計5000年ぐらいかな?
ただ、その間にはコンピュータ側も次々と「新興宗教」を興していく。
プレーヤーは、どのタイミングでどのような宗教をどこに興すか、が大きなポイントとなってくる。

宗教を興し、一定の信者数を獲得すると、あとはどのように信者が広がるか、そして、世界がどのような結末を迎えるのか、を観察する、と。

現実世界において、後の世界に多大な影響を与えた人物を挙げろ、といわれれば、キリストとムハンマド以上の人物はいないわけで、ゲームにおいては、プレーヤーはキリストやムハンマド並みに後世に影響を与え続けることができるのか、という視点ではいかがでしょう?

とりあえず、プレーヤーは預言者になれる、という視点で考えてみるのもいいかな、と。

そして第二部では、第一部で展開された世界の宗教地図をもとに、今度は一市民として、
「どの宗教を選ぶか」
「その教義の中でどのようなことをするのか」
という構成かな?

まぁ、もの凄く漠然としてるけど、なんかいいアイデアがあったら教えてください。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月30日 (日)

隣は何をする人ぞ―民主主義論6

前回の「日本には共産主義がふさわしい」の続きです。

以前にも一連の「民主主義論」の中で触れていると思いますが、僕はイデオロギーには必ず背景に宗教があると思っています。

「日本は無宗教国家だ」などと言われますが、僕の考え方としては「違う」と思っています。その点の考察については拙いながらも「日本は無宗教国家か」を参照していただくとして、端的に表現すると、
「日本独自の宗教観があまりにも深く根ざしているから、自覚症状がないだけだ」
というものです。

イザヤ・ベンダサン(故・山本七平氏)による「日本人とユダヤ人」では、僕とはアプローチの違いはあれど(当然、山本氏の方が僕なんかよりはるかに深い洞察をされております)、やはり日本には日本独自の宗教観がある、として、それを「ニッポン教」と名付けています。

僕も山本氏に敬意を払い、今後は「ニッポン教」と呼ばせていただきます。
ただし、借りるのは名称だけで、あくまでもアプローチの仕方は違います(と、自分では思っています)

さて、「ニッポン教」とはいかなるものか。

世界には様々な宗教があります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、道教、儒教…
それらの「宗教名」についてですが、ここはひとつ、人に置き換えて考えてみましょう。

世界に人類がたった1人しか存在しない状態を想像してみてください。
果たして「名前」は必要でしょうか。
「オレ」「ボク」「ワタシ」などといった一人称すら必要ないと思います。
でも、2人以上になると、他者と区別するための「名前」が必要となってくるわけです。

宗教でも同じことではないでしょうか。
ある民族がいる。
その民族は共通した宗教観を持っている。
そこに「我々の宗教は○○教だ」などと名前をつける必要などないはずです。

宗教の原始形態は、アニミズムですよね。いわゆる自然崇拝。
それはどの地域でも同じです。
崇拝の対象に名前をつけることはあっても、崇拝形態(いわゆる宗教)に名前をつける必要はなかった。

でも、そこに「唯一絶対神」を掲げる宗教が誕生した。
古い土俗宗教と、新興宗教とを区別する必要が生じた。
そこで、新しい宗教を「ユダヤ教」と呼ぶようになった。

ある時期に、ユダヤ教を発展させた「ユダヤ教の新派」が誕生しました。
その新派は、当初はあくまでも「ユダヤ教の一派」だったんですが、あらゆる経緯からユダヤ教からの独立を果たします。
それまでは「ユダヤ教キリスト派」でよかったんですが、ユダヤ教から独立したために、ユダヤ教と区別するため、「キリスト教」と名付けられることになりました。

要するに「名前」とは、あくまでも他者と区別するためのモノであって、区別する必要がなければ名前など付ける必要はない、と思いませんか?

日本という国はまさにそうだと思うんです。
「仏教」とか「神道」なんかがありますが、それ以上に深層心理に根付いている思想がある。
それは日本人すべてに共通する概念で、おまけに島国だったから、
「オレは○○教徒だが、あの人は△△教徒だ」
などと区別する必要がなかった。
だから「ニッポン教」には名前がつかなかった。

つまり、日本は「無宗教国家」ではなく、「名無し宗教国家」ということができると思います。
「宗教観」はあるんだけど、その「宗教」に名前がついていないし、つける必要もなかった、という意味。
でも、ややこしいので山本氏の言葉を借りて「ニッポン教」と呼ぶことにしよう、と。

さて、「ニッポン教」の”教義”をズバリ一言で表すと、
「隣の人と同じことをする」
というものではないかと思います。

アメリカには行ったことがないんですが、仄聞するところによると、
「いかに人と違うことをするか」
という点が大切だそうです。
「あいつはこんなことを考えているが、オレは違うことを考えている」
ということが言える環境があり、また、そうすることが大切なんだそうです。

言い換えれば「個性」こそが至上であって、「人と同じ」ではダメなんだ、ということですね。
だからこそ新形態のベンチャー企業が次々と登場する。

一方の日本では、とりあえず人と同じことをしていればいい。
「中学を卒業して、高校に入って、経済的に余裕があれば大学に入って、一般企業に就職する」
そのレールから外れた人間は「偉大」になるか「落伍者」の烙印を押されるかのどちらかでしかない。

過日、堀江氏が保釈されました。
「人と違うことをする」「既成概念をぶち破る」
最終的には…というか、現時点では「金儲け主義」と言われていますが、堀江氏の思想の根底にあるものは、
「人と違うことをする」
だったのではないかと思うんです。
だから、世論から袋叩きにされた。
僕は堀江氏は好きなタイプですが、逮捕以降、
「あいつキライ」
と拒絶反応を起こしている人も多いようです。

それもこれも、やはり
「堀江氏は人と同じことをしなかった」
ということが理由なのではないか、と思っています。

「人と同じことをする」
この端的な例が「隣百姓」だと思うんです。
「お隣さんが田植えを始めたから、うちも始める」
最初に田植えを始めたのが誰かは分からないけど、とりあえず、
「理由は分からなくても、人と同じことをしていれば、結果的には上手くいく」
ですね。

外食店に入って、
「オレ、カツどん」
「オレも、オレも」
「じゃ、オレも」
「それならオレも」
という場面には少なからず遭遇したことがあると思います。
これを「主体性がない」という人もいますが、僕は
「人と同じことをする」
という判断が働いている段階で十分に主体性があると思います。

もしも失敗すれば、全員が失敗する。
成功すれば、全員が成功する。
誰か一人だけ得をすることはない。
そうすることで、ねたみそねみ、嫉妬などのネガティブな感情は起こらない。

聖徳太子が唱えた
「和を以って貴しとなせ」
とは、一義的には

「話し合って物事を決めましょう」

ということで、その後に続く文章も
「話し合って合意したことはすべて上手くいく」
という内容なんですが、これも言い換えれば、
「話し合って、人と価値観を共有して同じことをすれば、全員が同じ結果を得ることになるから、ネガティブな感情は起こらない」
イコール、戦争などで国土を荒廃させることもなければ、政治闘争で血みどろの争いをすることもなくなる、ということなのではないのかな?

いいこと、悪いこと、全部ひっくるめて
「だって、あいつだってやってたじゃん」
に落ち着くわけですから。

居酒屋にて、
「とりあえずナマ」

これは、
「みんなが生ビールを飲むから、俺もそうしよう」
「俺も生を飲むから、みんなもそうするだろう」
などといった理由なんではないでしょうか。

上記の具体例は、書きながら思いついたことを挙げただけなので、他にも
「他の人と同じことをする」
という場面は、意識して観察すると、日常生活でとんでもなく多くあると思います。

かく言う僕自身も、いままでサイトをやっておきながら、ブログを始めたのは、
「とりあえず、みんながやってるから」
に他なりません。
そもそもパソコンだって、
「みんなが持ってるから」
買っただけの話。

メーデーの季節です。今回のテーマは「格差」だそうです。
資本主義社会において、「格差」なんて生じて当たり前。
なのに、「格差」がクローズアップされる。
なぜでしょう?
書きなぐソ陪審の「保護産業」にもありますが、

不況下の元では、労働者は必然的に労働環境の悪化を迫られることもしばしば起こります。
労働組合が「もっと保障を」と叫んだところで、企業業績が上がらなければ現実的に無理だからですね。

です。僕もまったく同意見です。それが資本主義の姿ではないでしょうか。
でも、今回のメーデーでは、

「パート従業員も正社員とほぼ同じ仕事をしているのに、給与格差が激しい」

などといった発言が見受けられました。
ここで注目すべきは、給料が高いだの低いだのではなく、
「ほぼ同じ仕事をしているのに」
の部分だと思います。
「同じことをしているのに結果が違う」
これは、日本人の宗教観から考えれば、
「理解できない現象」
でしょう。

「同じことをしていれば、同じ結果が得られるはずなのに、そうなっていない」

能力主義も資本主義も関係ありませんね。
「同じことをしているのに」
だけが問題なんです。
「同じことをしているのに、結果が違う」ということがニッポン教では「許されないこと」になる。

でもね、日本国内ではそれでいいと思うんです。
「隣の人と同じことをする」
という生き方で。
でも、国際世界で同じことをやっちゃったら、必ずひずみが生じる。
「欧米がやってるから日本もやろう」
という考え方で資本主義社会が導入されたけど、あちらの富裕層の持ってる金って半端じゃない一方、貧困層はすさまじい貧困にあえいでいる。
それが資本主義です。

「格差がイヤ」「隣と同じじゃなきゃイヤ」という日本人の精神性を考えると、資本主義社会は日本人には向いていないとしか言いようがないと思うんですが、どうでしょうか。

やはり共産主義がふさわしいのでは…
 

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年4月23日 (日)

宗教のゲーム化2

さて、以前に「宗教のゲーム化」なる記事を書きました。

「書きなぐソ陪審」の反応(てんやもの

新・えせ記者徒然 の 宗教のゲーム化 は、かなりセンシティブな問題を内包しつつ(どのメーカーも作らないことを見ても明らか)も、世界に向けて「問題提起」の意味で非常に良いものではないかなと賛同します。

なぜにセンシティブかというと、「霧の中の鈴」の反応(ゾロアスター教と『イラン的イスラーム』

それを受けて、このエントリーで宗教の話を書きました。
黄色い四角で囲まれた部分は、ストレートで少しショッキングですが、
おそらく現実にあったであろうことであり、考えさせられます。

宗教のゲーム化について、積極的に賛成しているわけでもありませんが、
少しでも宗教の話題に触れることで、
世界情勢を深く理解することに努めようと思います。

その「黄色い四角で囲まれた部分」とは以下の通り(再掲)。

1つ目。

プレイヤーは最初にユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒(ムスリム)、仏教徒など各宗教の中からどれかを選び、ある程度史実に沿って、例えばユダヤ教徒を選んだ場合は、キリストを処刑するイベントなども盛り込みながら、信者数を拡大していく。
宗教国家を造り、敵対宗派と戦争し、勝てば相手国に改宗を強制できる。
改宗した人たちは、その滅ぼされた地域の統治者になれるが、改宗しなかった人は奴隷として扱うことが可能で、それらの筋書きの中で、ボスニア紛争とか、コソボ紛争などといった宗教紛争が多発していく。
果たしてキリスト教は世界を席巻できるのか、はたまたイスラムが覇権を握るのか、もしくは宗教戦争とはほとんど縁がない仏教が世界宗教となるのか…

2つ目。

イスラムを選んだプレイヤーは、十字軍による侵攻で親や子どもを殺され、妻がレイプされるのを目の当たりにする。憎しみが憎しみを生み、キリスト教との徹底抗戦を選ぶ。
んで、テロ組織を結成し、各地でテロ活動を行う。
ある分岐点で
「自爆テロを行いますか」
との選択肢が提示されて、標的を選んで、テロを慣行する。
その時の信者数によって、成否が分かれ、成功すれば、「9・11イベント」が発生し、相手国が戦争を仕掛けてくる。その時に戦士として参加するか、テロ組織のメンバーとして、各地でテロ活動を活発化させるかを選ぶ。
エンディングは「天国」か「地獄」、という感じ。

霧鈴が「おそらく現実にあったであろうことであり…」「ショッキング」としている部分が具体的にどの部分を指しているのか不明なんですが、おそらく、

宗教国家を造り、敵対宗派と戦争し、勝てば相手国に改宗を強制できる。
改宗した人たちは、その滅ぼされた地域の統治者になれるが、改宗しなかった人は奴隷として扱うことが可能で、それらの筋書きの中で、ボスニア紛争とか、コソボ紛争などといった宗教紛争が多発していく。

イスラムを選んだプレイヤーは、十字軍による侵攻で親や子どもを殺され、妻がレイプされるのを目の当たりにする。憎しみが憎しみを生み、キリスト教との徹底抗戦を選ぶ。

の部分ではないかと。

これは「おそらく」ではなく、歴史上の出来事です。
軽く解説しておきます。あくまでも「軽く」ね。
間違ってる部分もあるかもしれないけど、大枠で。

まずボスニア
もともとはキリスト教圏でした。住人はスラブ系民族。
オスマントルコの侵攻により、ボスニアはオスマン帝国下に組み入れられました。
が、オスマン帝国が苛斂誅求を極める圧政を行いました。
支配者はムスリム(イスラム教徒)、被支配者はクリスチャン。奴隷状態。
そこで、一部クリスチャンはイスラムに改宗し、オスマン帝国に取り入る方法を考えました。
その方法は上手くいき、
「イスラムに改宗すれば支配者として振る舞える」
という図式が出来上がりました。改宗したスラブ人は、かつての同胞を情け容赦なく搾取しました。

その後、オスマン衰亡。ボスニアから撤退した帝国の庇護を受けられなくなった現地のイスラムは、本当はスラブ人なんだけど、過去の経緯から
「俺たちは『モスレム』という民族だ」
と主張し、クリスチャンたちと紛争を繰り返しました。

コソボ
ボスニアとほぼ同じ経緯をたどりました。
が、あまりの圧政にコソボ人はコソボから集団で逃げ出しました。
主なき地にオスマン帝国はアルメニア人を大量に入植させました。ムスリムです。
クロアチア人も入植させ、奴隷化しました。
オスマン撤退後、コソボ人が「もともとは俺たちの土地だ」と帰還。
コソボは、アルメニア人、クロアチア人、コソボ人(スラブ人)が血で血を洗う紛争を始めました。

第二次大戦下、ナチスの侵攻に対し、チトーがパルチザンを敢行。
複雑な民族状況に置かれた地域を、チトーのカリスマ性で統一し、ユーゴスラビア連邦が成立。
民族紛争が終結し、共存の時代が始まりました。

が、その数十年後、小役人・ミロシェビッチが登場。スラブ人に
「もう二度と君たちの頭を殴らせない」
とくだらん演説をしたことで、ユーゴは再び救いようのない内戦状態に。
過去の怨恨から、殺す、犯すは当たり前。
昨日までは隣人として仲良くやっていた人たちが、いきなり殺し合いを始めました。

次に十字軍。
エルサレム奪還が目的とされています。もちろん、それもあるんですが、真の目的は
「ムスリムの皆殺し」
パレスチナの地は、道に膝の高さまで血の川が流れるほど凄惨な殺戮が行われたといわれています。

西洋人が行うどのような「侵略」も同じなんですが、まず男を全て殺す。
そして女を犯す。
それによって、民族の純粋な血統を絶やす。
それが常套手段です。スペインのピサロがやったのもこれですね。

ついでに、以下の説については僕は多少、疑問を抱いているんですが、一応、参考までに書いておきます。
十字軍やらルネッサンスが起こった原因について。

ヨーロッパでは「暗黒の中世」と言われます。
「暗黒」の意味ですが、「魔女狩りが行われた悲惨な時代」というとらえ方もできますし、「記録が残っていない」というとらえ方もできます。
僕の知識、調べ方が足りないんでしょうが、僕は「暗黒の中世」=「記録が残っていない時代」と把握しています。

その原因には「魔女狩り」などもあります。
薬草を摘んで、民間医療を施すような知識、経験を持った老人を「魔女」(魔女、といいますが、男も含まれています)と称して異端審問にかけ、殺し尽くした。
ついでに、教会が認めた文献以外は全て焼き払ってしまった。

「死海文書」とかいまだに騒がれていますよね。
あれは当時、焚書を免れた貴重な文献です。
キリスト教にも多数の派があり、ある特定の派(名前は忘れた)が実権を握った。その派が認めたもの以外は全て「異端」として処分した。都合のいいものだけを採用し、時には捏造まで行ったといわれています。
つまり、今の新約聖書は、本当はもっと様々な内容が含まれるべきだったのに、教会側の都合で今のような形になり、歴史の真実は闇に葬り去られた。

文化が極端に後退したわけです。数学も哲学も医学も、全てが葬られた。
当然、国家も弱体化する。
そこにオスマン帝国が拡張し、ヨーロッパを支配下に置いた。
キリスト教徒にとっては屈辱的極まりない出来事です。

でも、ヨーロッパで花開いたイスラム文化はオスマン帝国の衰退とともに、キリスト教徒によって徹底的に破壊されました。
キリスト教側にはイスラム側に対する、拭いがたいルサンチマン(怨恨)があるわけです。
だから、徹底的に、何もかもを破壊した。

ルネッサンスを「復古運動」と呼びますが、あれは「昔の文化、芸術を見直そう」ではなく、
「イスラム色を徹底的に排除したら、残ったものは昔の文化、芸術しかなかった」
というものだそうです。

十字軍もそのルサンチマンから運動が起こります。
「やられたからやり返す。イスラムをこの世から抹殺する」
だから、とてつもなく凄惨な殺戮が行われた。

…と。まぁ、どこまで本当なのか、時間があるときに調べてみますが、十字軍に関しては
「聖地奪還など、どうでもよかった」
というのは本当らしいです。

でもって、十字軍の時のルサンチマンが残ってるから、イスラム側はキリスト教を「至高」と掲げる集団を毛嫌いし、警戒する。
「国際赤十字」は世界中で認知されている感がありますが、イスラム圏では「赤十字」は十字軍を連想させるので、絶対に使わないそうです。

「どこが軽い解説だ!」
などと言われてしまいそうですが…

いずれにせよ、そういった宗教絡みの不幸な経緯なども踏まえつつ、
「歴史と現状を理解し、解決策を模索するには」
というスタンスでゲームを作れないかな、と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本には共産主義がふさわしい―民主主義論5

僕は「イデオロギー」なるものの背景には必ず「宗教」が絡んでいると思っています。

4月22日(だったかな?)、訪米中の胡錦濤・中国主席がアメリカ某所での演説で、中国の民主化について
「中国には中国のやり方がある。アメリカ的な民主主義万能論は中国には当てはまらない」
といった旨の発言をしたとの報道がありました。
発言の正確な内容は覚えていませんが、そんな内容だったと記憶しています。

さて、僕は今までこのブログ「新・えせ記者徒然」で日本の社会システムについて、宗教を絡めた僕なりの考察を書いてきました。

1…「社会システム
2…「平等とは
3…「日本は無宗教国家か
4…「日本の常識は世界の非常識なのか

まだまだ書き足りない…というか、上掲4本の記事の続きを書いてから結論を書こうと思っていたのですが、急遽予定を変更して、一足飛びに結論を書きたいと思います。
というのも、「書きなぐソ陪審」の「てんやもの」に、僕が「結論」として準備していたものの一部があったからです。

筆者Mollyは堀江氏逮捕に関して
「天安門事件を思い出した」
といったことを書いております。

堀江貴文氏個人への好き嫌い感情は別として、
私はこの一連の捜査逮捕は「自由主義への弾圧」であると感じ、天安門事件に重なったのです。
先程「正義」について考察しましたが、日本の民主主義はやはり日本独自のムラ共同体的な社会主義・共産主義の上に成り立っており、日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

そして続けます。

「社会主義・共産主義」という言葉にアレルギーを起こす日本人が多いのは、ソ連や中国・東欧・北朝鮮といったマイナスイメージが強いからであって、元来の思想自体は決して悪いものではありません。

そこまで読んで、「これがオレの導き出したかった結論だ」と感じました。
いわば、「先に書かれてしまった」わけで、だから、とりあえず僕の「結論」を先に出して、検証は後回しにしよう、と。

その僕の結論ですが、
「日本に自由主義、民主主義はない。日本の実態は共産主義国家だ」
というものです。

「民主主義とは」
という部分については過去にもそれとなく触れてますし、今後もちらちらと触れていきたいと思いますが、いずれにせよ、日本の実態は共産主義国家、それも極めて理想的な共産主義国家だ、と思う次第です。
(自由主義については、書きかけの記事がありますので、完成次第掲載します)

まず、「共産主義」なるものを世界で最初に文献に記した人は誰か知っていますか。

言わずと知れたマルクスです。

…と言いたいところですが、実は違います。

歴史に名を残す”超変態”、SMというアブノーマルな性交を世に知らしめたマルキ・ド・サド侯爵です。
代表作は「悪徳の栄え〈上〉 」「悪徳の栄え〈下〉 」ですが、彼は「危険思想家」として、フランスのバスティーユ監獄に終生監禁されました。その中で数々の書を記しています。
サドの経歴はここでは関係ないので割愛しますが、彼が書いた書物の中に超大作「ジュスティーヌの冒険」なるものがあります。
確か、全文訳は日本では出版されていないと思うんですが、その中の一部を渋澤龍彦氏が「食人国旅行記 」として刊行しています。

主人公は「食人国」のタイトル通り、様々な「非文化的な土地」を訪れるのですが、その旅の中で「ユートピア」にも立ち寄ります。
人々は礼儀正しく、勤労を美徳とし、生産した食物などはいったん一ヵ所に集め、それを均等に分配する。
訪れた異邦人を手厚くもてなし、旅人が出発する際に、旅を続けるのに十分な食料を、皆がそれぞれ持ち寄って、旅の無事を祈りながらその食料などを手渡す。
主人公は「これこそ理想郷だ」と深く感動する。

…というシーンが描かれています。
その「理想郷」ですが、これはサド侯爵の想像の産物ではありません。
一部に脚色があるものの、モデルは明確に日本だと分かるような書き方をしています。

冒頭に戻ります。
中国主席の発言、「中国には中国のやり方がある」ですが、その通りなんですよね。
「民主主義」というのは「平等」という概念がなければ生まれてきません。
「平等」という概念は「唯一絶対なる神」が存在しなければ出てこない概念です。

でも、中国には「唯一絶対神」は存在しない。
だから、「アメリカ的民主主義」は絶対に根付かない。
それを胡錦濤は理解していた。
中国が民主化に進んだとしても、それはアメリカとはまったく違う形の民主主義になると思います。

日本だって同じです。
日本には日本流のイデオロギーがあってしかるべきはずなんです。
が、今ではどうでしょう。
日本にあるのは「アメリカ的民主主義」でしかない。

書きなぐソ陪審にもある、

「社会主義・共産主義」という言葉にアレルギーを起こす日本人が多いのは、ソ連や中国・東欧・北朝鮮といったマイナスイメージが強いからであって、元来の思想自体は決して悪いものではありません。

ですが、日本人が社会主義、共産主義という「言葉」を毛嫌いするのは、アメリカの誇大宣伝によるものでしょう。
かつてハリウッドでは「米国v.sソ連」という映画が量産されていました。
ソ連崩壊後は「米国v.s中国」という映画が連発されました。
このような「娯楽」映画を、深い考え方を持たずに見てしまうと、
「ソ連や中国は極悪非道な国だ」
というイメージが日本人に定着するのは当たり前です。
(映画を見るまでもなく、僕は中国は大嫌いですけど…)
さらに言えば「アメリカって素晴らしい」に行き着く。
一種の「洗脳」ですね。
アメリカが国策として映画産業を後押ししているのは、この「洗脳」の効果を期待しているのではないかと個人的には思っています。

だけど…

広島に原爆を落とした国、ベトナムに侵攻した国、明確な根拠もなくイラク、アフガンを「侵略」した国、世界で唯一、国際司法裁判所から「テロ国家」として有罪判決を受けた国、自国は地球を何度も滅ぼせるだけの核兵器を持っていながら、イランの核開発に異議を唱える国…

そんな国が果たして「素晴らしい国」なんでしょうか。
アメリカは「世界の警察」を自称していますが、国連安保理の決定など、どこ吹く風で他国に平然と戦争を仕掛ける。
僕に言わせれば「世界の警察」どころか、「世界の独裁者」です。

その「独裁国家」が他国に押し付けるイデオロギーが世界に通用するはずがありません。
つまり、日本における「民主主義」「自由主義」なんてものは、表面的なものにすぎず、根底に流れる日本独自の思想とは相容れないものです。

さて、

私はこの一連の捜査逮捕は「自由主義への弾圧」であると感じ、天安門事件に重なったのです。
(中略)日本の民主主義はやはり日本独自のムラ共同体的な社会主義・共産主義の上に成り立っており、日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

ですが、上記の通り、日本には民主主義はない。アメリカ産の自由主義もない。

従って、

日本の「自由主義の正義」はこれまた日本の「民主主義の正義」に踏み潰されたんだなー、と。

というのは、この一文だけをピックアップすれば、
「自由主義も民主主義もないのに、堀江氏はそれが存在するかのような錯覚を起こしてしまった」
と書き換えることも可能…というか、そう書き換えた方が妥当だと思うわけです。

それはなぜかというと、
日本は共産主義国家だからだ
という点に行き着くのではないでしょうか。

…なんだかまとまりのない文章ですみません。後日、あらためて筆を起こします。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

日本の常識は世界の非常識なのか―民主主義論4

様々な「余談」ばかりを挟んだばかりにかなり間が空いてしまいましたが、

1…「社会システム
2…「平等とは
3…「日本は無宗教国家か

の続きです。ずいぶん前に書いたものですので、現在の「書きなぐソ陪審」「霧の中の鈴」で進められている論調とは乖離してる感がありますが、せっかくなので掲載しておきます。

前回の「日本は無宗教国家か」で、僕は「違う」という結論を出しました。
それが正しいのかどうか、正直なところ分かりません。
他国で生活した経験がないので、人づてに聞いた話とか、海外旅行の際に見聞きした出来事をもとにそのような結論を導き出したわけです。

僕の海外旅行経験は、滞在期間が長い順に並べると、イギリスに1ヵ月、インドに2週間、チベットに10日間、イランに1週間、タイ(バンコク)に5日、トルコ(イスタンブール)に2日、ネパール(カトマンズ)に2日と、非常に限られています。
その限定された期間内で感じたこと。

チベット、タイは仏教国(地域)ですが、日本とはまったく雰囲気が違います。
なんというか、信仰というものに非常に敬虔なんだなぁ、という印象を受けました。

キリスト教圏のイギリスでも、教会のイヴニング・サービスなどは毎日のように行われており、時間を持て余したら教会に足を運んで、荘厳なキリスト教の世界を味わっていました。

イスラム圏のイラン、トルコでは定時になると街中にコーランの読誦が響き渡る。

インドに至っては、ヒンドゥー教に基づいていると思われるしきたりが非常に多い。
「左手は不浄」とか「牛は神様」とか。

「宗教は一種の生活規範」と考えている僕にとっては、「○○教の国ではこのようなしきたりがある」と、カルチャー・ショックを受けながらも「○○教の教えに基づけば、そうなるよな」と納得できるものが非常に多かった。

日本はどうなんでしょ。
「家に入る時には靴を脱ぐ」
これって、神道(と言っていいのかどうかは分かりませんが…)に基づくものだと思うんです。
あくまでも推測の域を出ないんですが、
「外界の穢れにまみれた靴を清浄な家屋に持ち込んではならない」
ではないかと。

さて、外国人が日本に来た時、ほとんどの日本人は
「人の家に入るときは靴を脱げ」
と言うと思います。自分の家に外国人が訪問した時に
「土足のままでいいよ」
という日本人家庭は極めて少ないんじゃないでしょうか。
もしかしたらゼロなんじゃないかと思ったりもします。

でも、それを「神道のしきたりだから」と言う人はいませんよね。
「日本はそういう国なんだよ。理屈じゃねーんだ」
ではないかと思うんです。

その「理屈じゃねーんだ」の部分が、要するに「宗教」そのものではないか、と。
例えば日本で「左手は不浄だから食事の際に使ってはならない」と言ったとしても、
「なんで?」
という言葉が返ってくると思います。
ヒンドゥー教では、それは「理屈じゃねーんだよ」になると思うんですが、日本人には理由が分からない。だから受け入れないのではないでしょうか。
食前に神様に祈りを捧げなさい、と言われても
「なんで?」
ですよね。
「いただきます、だけでいーんじゃねーの?」
だけど、キリスト教圏では「理屈じゃねーんだよ。そうするもんなんだよ」なんでしょう。おそらく。

日本人には感覚的に理解できない外国の「理屈じゃねーんだよ」は他にもたくさんあると思います。
当然、外国人にしてみれば、日本の「理屈じゃねーんだよ」は受け入れられないでしょう。

「日本の常識は世界の非常識」

そんな言葉で「グローバリゼーション」なるものを唱え、
「欧米ではこのようなことが行われている。日本もそれに倣え」
と言われましても、僕としては
「なんで?」
と言わざるを得ません。

そもそも宗教観が違うんだから、
「あの国では常識でも、日本では非常識」
「日本では常識でも、他国では非常識」
という構図は存在して当たり前なんです。

そこで前に書いた
「日本では神は人そのものである」
ですが、「あいつも神、オレも神」という思想があるわけだから、その思想からは当然、
「アメリカ人も神、インド人も神」
という思想が出てくるはずです。

さて「書きなぐソ陪審」の「日本の土壌」に以下のような記述がありました。

安定した画一的な社会と人間関係を築くための社会システムを改良しながら構築していく特徴を有している国ではないでしょうか。

僕もまったくもって同感です。
上古は「先進国」中華帝国の文化やシステムを積極的に輸入しつつも、丸ごとコピーすることはなく、巧みに改良して「和風」にしてしまう。
よく例に出されるのは鉄砲ですね。
戦国時代に種子島に鉄砲が渡来すると、あっという間に日本人の手で量産してしまった。
輸出して儲けようと思っていたポルトガル、輸送で利ざやを稼ごうと思っていた中国人が
「マジすげー」
とか言ってたそうな。

でも僕が一番感心するのは文字です。
表意文字である「漢字」から「万葉仮名」なるものをあみ出し、さらに表音文字である「ひらがな」「かたかな」をつくり、日本語の文法にあった形に変えてしまった。
漢字の渡来から、一般的に漢字が用いられるようになるまでに700年かかったといわれています。
それまでは非常に慎重に漢字を使っていたそうです。
逆に言えば和風にするために700年もかけて漢字を改良していった、ということ。

余談ですが、世界の文字。
大雑把に分けて「表意文字」と「表音文字」があります。
表意文字の代表は漢字、表音文字の代表はアルファベットといわれますが、アルファベットも、もともとは表意文字です。
文字を持たないローマが高度な文明を持つギリシアを滅ぼした時に、文字の存在を知り、ローマ音に適した26文字だけを抜き取ってほぼそのまま利用したのがローマ字。
文字は表音文字に変質したけど、文字の形は変わっていない。
日本の歴史からいえば、漢字の発音を使って日本語の音を表していた万葉仮名と似たようなもんですが、
「独自の改良」
はなされなかった。
「夜露死苦」
みたいな使い方ですね。
いまの日本語の文章が全部漢字で書かれていたらどうでしょう。
加多仮名、比良仮名賀間座留己戸出予巳屋素句奈津手留。
現代人の感覚から言えば「読めねーよ、トホホ」じゃないかな。

余談終わり。

要は、日本は「輸入物」を日本流に変質させていく特徴がある。
それはとりもなおさず、宗教観がもたらすものではないか、と。
「手先が器用」
というのもありますが、その前に、
「あちらの国の人(=神)がつくったものなら、オレたち(=神)も同じように(つまり、公平に)使おうではないか」
という発想が生まれるのではないか。
でも、根幹を流れる思想がまったく異なるから、そのままそっくり使うことができない。日本人の宗教観にそぐわない。
だから、使いやすいように変えていこう。

それが「改良しながら構築させていく特徴」を生み出しているんではないでしょうか。

でも、いまの日本の民主主義はどうでしょう。
「戦争に負けた」
だから、アメリカ的社会システムを押し付けられても、自らの宗教観に照らし合わせて改良する、ということがなくなってしまった。

音楽でいうところの「カヴァー」ではなく「完全コピー」ですね。

でも根底が違うから、ゆがんだ形で定着してしまう。
そして社会にひずみが生じる。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2006年4月21日 (金)

宗教のゲーム化

あることを考えております。
いま、僕の手元には「VisualBasic」なるものがあります。ついでに、少し前の「Visual C++」もあります。
知ってる人は知ってるだろうけど、「プログラム開発環境」と呼ばれるものです。

知らない人向けに説明すると、世の中には「PCソフト(アプリケーション)」なるものが星の数ほど存在しますが、それらは「C」とか「Basic」などと呼ばれるコンピュータ言語で作られています。
聞くところによると、マイクロソフトの「ワード」「エクセル」もC言語で作られているそうです。

言語にもいろいろありまして、自分のサイトを持っている人なら、たいていは
「HTML(Hyper Text Markup Language)」

「JavaScript」
ぐらいは聞いたことがあると思います。
HTMLがプログラム言語だとは思わないんですが、一応、僕としてはPCで使われる「言語」として認識しています。
サイトの体裁を整えるだけの機能しかありませんが…
それに比べると、JavaScriptってのは、簡単なゲームなら作れる。
これを「インタープリタ言語」と呼びます。

市販のパソコンを買っただけの状態では、僕が知っている範囲では上の2つの言語しか使えません。
他にもあるんでしょうが、僕は知りません。

つまり、(C++を含む)C言語やらBasicといった「コンパイラ言語」を使ったソフトの作成は、市販のパソコンだけでは不可能です。
この「コンパイラ言語」で作れるプログラムは、無茶苦茶に要約すると、「インストールが必要なソフト」です。
Vectorやら窓の杜なんかで配布されてるゲームやらといったアプリケーションは、ほとんどがC言語かVisualBasicで作成されています。
VBなんかは「高級言語」(より人間の言葉に近い言語)で、使用者が他の言語に比べて圧倒的に多いらしい。

さて、前置きはともかくとして、僕の手元にはC言語の開発環境とVBの開発環境の両方があるわけです。
正直、どちらも「持ってるだけ」で使えません。
なぜ、そんなものが手元にあるのかもよく分かりません。

が、ふと考えました。
「せっかく環境があるんだから、何か面白いものを作れないもんだろうか?」

僕にはプログラミングに関する知識はほとんどないんですが、それはこれから勉強するとして、問題は
「何を作るか」
です。

そんな大規模なものを作る気はありません。
最初はちょろちょろと、勉強がてら簡単なゲームでも作ってみようかな、と思って、過日、解説書を何冊か買い込んできました。

「わけ分かんねー…」
というのが今の印象なんですが、VC++に比べれば、VBの方がとっつきやすそうな気がする。
でも、それでも敷居が高い。

そこで、ここはひとつ、「オープンソース」なるものを利用して、方々からのお力を借りながら
「宗教ゲーム」
なるものを作れないか、と思案しております。
どのような形態にするか(RPGにするか、シミュレーションにするか…など)も含めて、いろいろ考えてるんですが、とりあえずは「宗教をモチーフにしたゲームを作る」というコンセプトで。

どのような筋書きにするか、というアウトラインを固めたら、ソースコードの入力開始、という方針。
その際には方々のプログラマの方々のお力を借りながら…と、都合のいいことを考えております。

問題はストーリーなんですが、やはりシミュレーションがいいかな、と。

プレイヤーは最初にユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒(ムスリム)、仏教徒など各宗教の中からどれかを選び、ある程度史実に沿って、例えばユダヤ教徒を選んだ場合は、キリストを処刑するイベントなども盛り込みながら、信者数を拡大していく。

宗教国家を造り、敵対宗派と戦争し、勝てば相手国に改宗を強制できる。
改宗した人たちは、その滅ぼされた地域の統治者になれるが、改宗しなかった人は奴隷として扱うことが可能で、それらの筋書きの中で、ボスニア紛争とか、コソボ紛争などといった宗教紛争が多発していく。

果たしてキリスト教は世界を席巻できるのか、はたまたイスラムが覇権を握るのか、もしくは宗教戦争とはほとんど縁がない仏教が世界宗教となるのか…

なんか漠然としすぎていますが、今までの「文化度によって、強国化していく」とか、「武力を増強して他国を攻める」などといった、単純なゲームではなく、露骨に「宗教」を前面に押し出すゲームを作れないかな、と。

RPGでもいいですね。
マルチシナリオシステムで。

イスラムを選んだプレイヤーは、十字軍による侵攻で親や子どもを殺され、妻がレイプされるのを目の当たりにする。憎しみが憎しみを生み、キリスト教との徹底抗戦を選ぶ。
んで、テロ組織を結成し、各地でテロ活動を行う。
ある分岐点で
「自爆テロを行いますか」
との選択肢が提示されて、標的を選んで、テロを慣行する。
その時の信者数によって、成否が分かれ、成功すれば、「9・11イベント」が発生し、相手国が戦争を仕掛けてくる。その時に戦士として参加するか、テロ組織のメンバーとして、各地でテロ活動を活発化させるかを選ぶ。
エンディングは「天国」か「地獄」、という感じ。

もの凄く不謹慎なゲームですが、いかがでしょう。
ということで、「こんな要素を盛り込んではどうか」とか、「俺がソース打ってやるぜ」という人、いませんか?
いたらTB送るか、コメント欄にでも書き込んでください。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2006年4月15日 (土)

相対性と絶対性6

相対性と絶対性5」の続き。
サイトでは未掲載だったと思います。
「相対性と絶対性1~6」までの一連の記事中には、サイトへのリンクも張られています。
とりあえず、ここだけ読めばある程度は分かるかな、と思った範囲で抜粋しましたが、その前段に興味があればサイト「心象風景」のリンク集から「歴史と信仰」を探してみてください。
「心象風景」へのリンクはこのブログの右下の方にあります。

これでようやく、書きなぐソ陪審「おさかな天国」の補足終了です。
できれば「相対性と絶対性1」から順に読んでください。

相対性と絶対性1
相対性と絶対性2
相対性と絶対性3
相対性と絶対性4
相対性と絶対性5

No.26 ニッポン編15 神と人、人と人

◆基本的人権

何かを買う、という権利はすべての人に平等に与えられています。
逆に「お前は買っちゃダメ」という方が平等性を害する差別行為になります。
そして、人が買ったものを破壊するという行為はある意味では確かに「みんなが公平」にはなるけれど、決して「みんなが平等」になることではありません。小型除雪機を使う権利を奪う行為であり、これも平等を損なう行為です。

また、「自分勝手な行動」も、単に「あいつはみんなで決めたことに従わない自分勝手なことをしている」と感じるだけにすぎず、絶対的に、誰が見ても「自分勝手」という行動は、違法行為でない限りありえません。

「自分勝手な行動を許す」ことこそ真の平等なわけです。

思想・信条の自由は国家の最高法に定められており、個人の思想や信念に基づく行為なら、どのような行動を取ろうがその人の自由だからです。

加えて、「平等でなくなる」ことと「平穏な生活が奪われる」ことに因果関係はありません。「平穏な生活」とは、小型除雪機に関して言えば、「嫉妬心を抱かずに、心穏やかに日々をすごすこと」であり、他人の嫉妬心のために自分の基本的人権が剥奪されることは著しい違憲行為です。

ということで、公平と平等とはまったく違う概念だ、と言い切ることができます。

◆相手は「神」と「人」

ちなみに「平等」とは何かというと、「神様との距離がみな同じ」、ということです。大統領も一般市民もホームレスも、神にとってはすべての人が「塵」に過ぎないので、その距離はいかなる集団に属しようとも同じ神を信じる範囲において、変わることはありません。
だから同じ権利を有するわけです。
たとえ荒野で一人ぼっちになったとしても、神との距離は人口密集地の人と変わらず「平等」なわけです。

これは根本に一神教がなければ発生しない考え方です。「誰もが大統領になれる」という民主主義も一神教のもとで発展したシステムです。
日本に本当の民主主義が根付かないのはここに原因があります。

一方、公平性とは「他の人と同じ」ということで、これは「人と人との関係」を重視することで生まれる思想だと思います。荒野で一人ぼっちになったとき、それでも都市部の人と「公平だ」とはいえません。

少なくとも2人以上の人がいる場所において、はじめて「公平」という概念が発生するわけです。

平等は「神と人」、公平は「人と人」。

日本では「平等」も「公平」もほぼ同義に使われますが、根本はまったく違います。
これが「和」を解くカギになると思うので、次回は「公平性」についてもうちょっと考えてみたいと思います。

2006年9月27日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相対性と絶対性5

これも前回「相対性と絶対性4」の続き

No.25 ニッポン編14 善悪の境界線
◆見えない線

小型除雪機の続きです。

この善悪の狭間は非常にあいまいです。法治国家のはずなのに、違法行為を行っても周囲が黙認してしまう。黙認ならまだしも、「善」に変わってしまう。

善悪の境界線は、特定の集団にはハッキリと見えるけれども、よそ者には見えません。
それは「日本人にとっての善悪は日本人にしか分からない」というところに発展していくと思います。
さらに突き詰めると、「日本人は日本人独自の思想に基づき、善悪の境界線を引いている」ともいえます。

しつこいようですが、日本に「絶対悪」は存在しない。「相対悪」しかない。したがって「絶対善」も存在せず、あるのは「相対善」だけ、ということになります。

なぜなのか、といえば、それが「和の力」です。上に書いた「善悪すり替えの論理」に「和」という言葉をあてはめてみましょう。

「公平性を乱すことはすなわち『和』を乱す行為で『悪』になる。『悪』を破壊し、『和』を取り戻せば『平和』になるので『悪』の破壊行為は『善』である」

さてさて、とりあえず「小型除雪機」を外して書き換えてみました。
いかがでしょう。なんとなく、正論っぽくないですか?

◆善悪の相対性理論

さらに別の言葉を使って書き換えてみます。

「自分勝手な行動を許せば『和』すなわち秩序が乱れ、みんなの平穏な生活が奪われるので『悪』だ。したがって、勝手な行動を行う者には何らかの制裁を加えることが望ましく、その際の制裁行為は『善』である」

小型除雪機の放火が悪だということに疑いを抱く人はいないでしょう。でも、上の論理に反論できる人はいるでしょうか。
いないんじゃないかな?
反論どころか、賛同する人の方が多いのではないでしょうか。
でもこれはあくまでも小型除雪機放火の話です。

「悪」と思っていたことも、表現を変えれば「善」にすり変わってしまう。
いかに論理展開するかで、一つの行為が「善」にも「悪」にもなり得る。

なぜかというと、「和」という守らなければならないものに「比べれば」、放火行為は「相対的に」善になるからです。それが日本の「正義」です。

「放火は悪いことだが、公平性を乱すことはそれ以上に悪い」

相対論、極まれり、ですね。
「善悪の相対性理論」とでも名づけますか。

◆公平と平等

「公平性を乱す」という言葉を使いましたが、日本ではやたらと「公平性」が重視される傾向が強いと思います。

憲法には「人は生まれながらにして平等である」として、基本的人権の尊重が謳われています。「善悪の相対性理論」からも、日本では「公平性」が最重要なのだと考えることができます。

しかし、人が平等であり、基本的人権を生まれながらにして持っているなら、小型除雪機を買う権利、使う権利も保障されるはずで、放火される理由などどこにも存在しない。
だけど、現実問題として放火を「善」とする論理は筋が通っているように感じる。
そこで、もう一度、今度は「平等」という言葉で上の相対性理論を書き換えて見ます。

「みんなが持っていないものを買うということは平等性を乱す『悪』であり、それを破壊することは、みんなが平等になる行為だから『善』になる」

さらに、

「自分勝手な行動を許せば平等ではなくなり、みんなの平穏な生活が奪われるので『悪』だ。したがって、平等性を乱す行動をとる者には何らかの制裁を加えることが望ましく、その際の制裁行為は『善』である」

いかかでしょう。なんとなく違和感がありませんか。

2005年9月26日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相対性と絶対性4

やはり前回「相対性と絶対性3」の続き

No.24 ニッポン編13 「悪」が「善」に変わるとき
◆結局は相対論

侵略しようが虐殺しようが、勝っていれば今のようにアメリカにへつらう必要もなかったわけだし、台湾も朝鮮半島も日本の領土のままだったでしょう。
おまけに満州も加わり、北方四島も樺太南部もロシア(ソ連)に奪われることはなかった。
「誇り高き無敵の大和民族」のままでいられた。大東亜共栄圏が成立していれば、アジアの真のリーダーになっていた。
過去に日本を「東夷(東の野蛮な民族)」と呼び、蔑んでいた中国人は日本人の足元にひれ伏していたかもしれない…などなど。

勝っていればいいことづくめだったはずなのに、負けたから卑屈にならざるを得なかった。中国ごときに頭を下げなければならなくなった。すべては、あいつらが負けたからだ、といったところでしょうか。

管理人は「中国さまが怒ってらっしゃる。韓国さまもおかんむりだ」といった報道に、逆に反中、蔑韓の思いが込められているような気がします。

「あの程度の連中に言われちゃってさぁ、もう…。腹立つだけだから参拝、やめとこうよ」みたいなニュアンス。

そんな卑劣な大人たちを見て育った人間は、どんな人間になるんでしょう。
公のために尽くしても、一点の曇りがあれば全否定される世の中で、「国のために何かしよう」と思うでしょうか。
「絶対悪」ではないものを「絶対悪」のように報じる連中がいて、それを擁護するアホどもがいるおかげで、日本のモラルはどんどん低下していく。
「本当に悪なのか」という疑問を差し挟むと、徹底攻撃される。

「俺たちは『絶対正義』だから、異論を挟むお前らは『絶対悪』だ」と。

◆「絶対正しい」ことは間違っている

でも、靖国が「絶対悪」でない以上、それに反対する連中も「絶対正義」ではないため、あくまでも比較論でしかものが言えないはずなんですよね。

「俺たちの方がお前らより正しいと思う」といった程度。

でも、「靖国OK」という人たちの方が理論的だから、靖国反対の人たちはヒステリックに叫ばなければ、周囲に声が届かない。
だから自分を「絶対正義」だと言い切ってしまう。

管理人の独断によると、議論の場ではたいがい、ヒステリックに叫んでる方が比較的間違っていることが多い。
自分がどの立場をとるか迷ったときは、冷静な論調の方を選びましょう。

そもそも殺人すら「絶対悪」にはならない日本において、対極となる「絶対正義」は存在しないため、「自分は『絶対正義』だ」と言い切った時点で、そいつは間違っている、と言うこともできます。

つまり、日本に「絶対的な悪」は存在しない。
あくまでも「相対的な悪」しかない。

これをひるがえせば、「絶対正義」「絶対善」も存在しない、あるのは「相対正義」「相対善」だけだ、と言えると思います。

◆もちょっと小さなスケールで

管理人が今、住んでいる場所は豪雪地帯です。積雪時、一般家庭の多くは、シャベルを使って人力で除雪を行うのですが、家庭用の小型除雪機なるものが売っています。見ているとすごく便利そうです。

ある冬のこと、ある家庭がその除雪機を購入しました。
が、納品された日の夜、その除雪機は放火され使い物にならなくなりました。

小さな集落での話なので、絶対に目撃者がいるはずですし、管理人は誰が放火したのか、その集落の人から「うわさ」は聞いています。でも犯人は捕まっていません。

小型除雪機は冬の生活の不自由さを少しでも解消する「良い」道具で、隣家が持っていれば貸してもらうことも可能なのに、放火しちゃった。

その集落では他に除雪機を持っている家庭はありません。嫉妬心から放火した、と考えられなくもないんですが、目撃情報が警察に寄せられないことを見ると、「放火」という行為を集落が黙認している、ということになります。

「みんなが持っていないものを買うということは公平性を乱す『悪』であり、それを破壊することは秩序を回復する行為だから『善』になる」

そういう理屈も成り立つのではないでしょうか。

放火は第三者から見れば「絶対悪」のように感じますが、相対的な価値判断からは「悪」ではないどころか、「善」に変わってしまうわけです。

2005年9月24日

| | コメント (0) | トラックバック (0)